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千年紀の各種の概念




 生産はどうあるべきだろうか。


 生きるための生産
 楽しむための生産(個人趣味)
 楽しませるための生産(貢献と義務)


 となるのだろう。


 能力とは・・
       知的能力・管理能力である必要がある
       (肉体的能力・筋力が決定的要素であってはならない)


 筋力が「能力」であった時代は、たがやせる土地以上はムダになった。筋力で管理ができないので不要なのだ。(個人所有に筋力の限界があった)
 これは領主があらわれ、大規模所有があらわれても、筋力の制約は厳然としてあり、形式はともあれ、本質は変わらなかった。
 実質は、機械と化石燃料エネルギーが導入されることで、限界は一時的に突破され、少数の農業従事者が大土地を所有しつつ、しかも経済的には優位者になれないという、興味深い事態となった。

 しかし千年紀の能力は、太陽パネル電力が、機械力を支えるため、筋力は限界ではなくなる。あらゆる有効な機械も維持し、使い続ける。能力の限界は、再述するように、知的・管理能力である。これにより、土地・農地所有と管理の方法は、大きく変わるべき合理性が出てくるはずだ。


 大家族であること。


 直系の4−5世代の隣接居住と協力が基本となる社会が設計上望ましい?
 どう機能するか、やってみなければわからないだろうが、大規模災害で、救援がなくても、自力で家族を支えあって生き延びるには、これしかなかろう。


 所有の概念について


 千年のうちで想定する社会(集落)土地所有形態の、スケッチ(提案)あるいは、想定としては、


・形式的所有
 土地、資材、設備 などを、家の株主制度的により間接的に所有する。
 一集落24世帯が、すべての村有財産も含めて家が、家族共同体としての1株主として永続する。家ごとは、下限と上限の範囲内で、財物を、平等所有する。
 公共の土地、施設はない。(使い捨てにできる土地・無責任に放置される施設はない)

・実質的所有
 個人、個人が必要に応じて、幸福な生涯をおくるための基礎条件を絶対所有する。ことが実質に維持されねばならない。

 すべてはそのための担保である。村八分も家庭内差別・虐待も財産制度的に許さない。
 (個人が優先 個人>家族>家(株)>集落>里村>行政(国))

 と、したい。

 歴史的ゲマインシャフト(共同体)とゲゼルシャフト(共同組織)の関係で言えば、時代が下るにつれ、実質が形式化したのであろう。
 形式的所有が、実質を担保するための社会的変化となった。

 単純な土地所有では、家族の形成時期や人数により、やがて格差が生じて、平等原則は崩れる。
 結局、形式的所有は、実質的階級(奴隷)制になり、各人の生活水準は幸不幸を左右するものとなる。
 それでも惰性としての共同体原則は、階級格差を生じさせながら総体として共同体として、矛盾をかかえながら存続して、封建制・絶対王政にまでいたった。


 家族の、当主一人の、たまたまの無能力・怠惰により、家族全体が破産・一家離散などの、不幸におちいらないような救済制度が集落にある。

 家株所有資産の、代行運用と、それによる収益の家族個人への配当である。
 これにより、無能な当主が資産を勝手に流用して蕩尽できない。
 自動的禁治産者扱いができるが、そのものの個人の生活も年金的に保障される。(家にはいられないであろうが)

 代行管理者は、原則、無償である。村内のすべての事業は、複数の家によるローテーション経営なのである。
 代行者は一人ではなく、代行したといっても負担になることなく、その家が、その代だけ、ローテーションから外れるだけである。収益は集落全体にあってから、株制度により個人に完全平等分配されるのである。


 労働の価値・人件費はゼロと考える 2013/05/15


 無条件で人間は生き続けねばならない。
 働こうが働くまいが生きていくのだ。

 生きていく以上、ベーシックインカム的収入は絶対に確保せねばならない。
 すると逆にとらえると、生きている限り、人間は衣食住は確保されていることになる。
 追加で経費が発生することはない。
 つまりいずれ人件費は、ゼロに収斂していく性質をもっているのです。

 人間とは、常に一定量が存在し続け・自動更新する設備とみなせるのである。
 ベーシックインカムという固定費としてのエネルギー補給は必要だが、自動更新なので減価償却も導入費用も発生しない。
 人件費は現行会計制度では変動費にあたるが、解雇がなければ人道上固定費になり、しかも現代会計での所与の「空気」みたいに絶対に必要で、絶対にあるものだから変動要素になりえないという、透明な存在にせねばならない。
 それはだから、事実上、人件費はゼロとして考えてさしつかえなかろう。

 肉体労働を機械に置き換えて、実質とるにたらないレベルになれば、そのような計算ができることになる。
 すると労働時間は、短ければ短いほどよいことになる。
 労働すること自体に価値をおいて、そこに値段が発生することは意味がなくなる。

 従来の資本主義的行動をとる人間については、距離をおいて見つめればいいのである。「それは違うよ」と。
 いずれ遅かれ早かれ、「労働絶対」は、人間の行動の傍流にころがりおちる。
 滅びるのが約束されているのだから。

 わたしは日本人なので、おそらく西洋人のランダースより、文化的制約というものをより絶望的に考えている。
 人間は合理的思考能力を常にする存在ではない。
 あきらかに誤っていても、死ぬまで行動が変えられないことはいくらでもある。
 文化的制約・エトスの問題も明らかにそうである。

 イスラム教徒が石油を手に入れて獲得した浪費のライフスタイルを変化させられるであろうか? おそらくムリである。


(参考)

どの程度の馬力が必要か  挽馬の継続仕事量がおよそ1馬力

 75 kgf?m/s がフランス馬力 1PS 1仏馬力= (正確に)735.5 ワット

仕事率の具体例 [編集]

慣習的に1馬力≒2.8kW程度の空調能力(約8畳相当の空間を冷やす能力)

人間の仕事率=1/10馬力

四輪自動車=40 - 300馬力

大型トラック、大型バス=250 - 600馬力

新幹線=2万2800馬力(16両編成)

プロペラ機=200 - 2万馬力

ジェット機=1万 - 7万馬力[2]

LE-7(ロケットエンジン)=2万5千馬力



 アーミッシュへの憧憬



 完全な人間などいはしない。
 日本人であろうが、何国人であろうが、また仏教徒だろうが、キリスト教徒だろうが、イスラム教徒だろうが、みな愚かで不完全なのはいたしかたない。
 我々はそのようなものなのだ。

 それを認めさえすればいい。

 意固地にならず、不道徳で非倫理的な浪費や悪習をやめて、自分にも隣人にも益となる行動をとりたいと願うことができる。

 世界がアーミッシュのように生きれば、問題のほとんどは解決するであろう。(ような気がする)
 アーミッシュの生き方の微修正した生き方をすれば、すべてがうまくいくかもしれない。
 少なくとも彼らの生き方にはそのように思わせるインパクトがある。

 アーミッシュは貧乏ではない。我々の課題は、世界から貧困をなくすという点において平等でなければならない。

 格差があるところに、対話は成立しえないと思うのである。


 労働と家事と戦闘


 集落の存在理由は、自衛を実現するためでもあった。
 自衛とは戦闘への参加である。

 労働と家事が、集落と家庭に必要なように、戦闘も集落を形成するうえで、義務となる分担すべき「労働」なのである。

 もちろん戦闘によって、集落が壊滅すれば本末転倒なので、維持に役立つ範囲で戦闘参加がなされてきた。

 かつては、すべての家で、共同体に参加して日常的に槍や弓矢で狩がなされて、台所で獲物が家事として調理されていた。
 その延長で、狩と、家事と、戦闘もなされたのである。

 もちろん戦闘のための戦闘ではないから、遺跡や狩猟採集民の近代の研究から見ると、死者は稀であったようだ。

 そして、集落は、連合・同盟・所領安堵などに参加していて、様々なレベルの間接的戦闘行為が直接武力発動の前に用意されていた。

 しかし、国民社会の形成は、その限度を打ち破って、時に過酷すぎる「戦役」を個人や家庭におしかぶせることになった。


 土地利用の一時的混乱(カーボン時代の再否定)


 カーボンストーム時代では、筋力による土地耕作能力ではなく、機械力におきかわった
 それは少数の農業者による大規模所有・大規模流通を可能にしたが、それは土地の劣化をまねいてしまった。
 画一的管理・単一作物・循環の否定と化石エネルギーと鉱物肥料への依存、人口の流失と、土地の生産性低下と荒野化による放棄。がおきる。
 したがって、過去の大規模領主のような権力も資金力も大規模農業者はもちえず、土地の略奪者でありながら、経済・都市にとっての被略奪者でしかない。

 いかなる意味でも、持続性をなくしており、誤った選択なのである。

 土地改良の最初のステップとして土壌成分の作物への最適化のため、化学肥料も使うべきである。化学肥料は大きな武器となる知識の成果だ。しかし継続的使用は、止めねばならない。輪作・休耕・養分循環によって土壌の性能は維持されねば持続可能ではない。
 あらゆる耕地を化学肥料で支え続けられるかどうかは、自明の理であって、わずかにでも考えれば無茶な選択と理解するしかない。


2016/06/18 T.Sakurai


 のぞましい個人の生活基盤とはなにか。


 貧困も、度を越した裕福もなく、子々孫々、安定して暮らしていける基盤です。

 一人一人が、両親、祖父母、子供、孫を守り育てることができる収入と経営をけっして離しも奪われもしない状態。

 地球のどこにあっても、危険のない、極端に寒くも暑くもない、結果として円満な家庭を維持できる家屋。

 あらゆる災害・人災にあっても、家庭をまもり、さらに再起することができる設備。

 自分や家族の力に余る事態のときは、地域の共同体、あるいはもっと遠方からの迅速で充分な支援が受けられること、自らもそれを遠隔地に提供できること。
 提供する側も受ける側も、準備ができていること。

 このようなありきたりのことを、私は考えています。

2015/11/30