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定められた未来



 化石燃料は枯渇する。それにともなって、人類が使用できるエネルギーは、従来のままだと劣化して、効果が少なくなる。

 世界的に工業・農業の基盤が劣化して、生産効率が落ちて、成果があがらなくなり、実際に使用できるエネルギーが減っていくということである。
 そして、汚染や温室ガスばかりが増えていくことになる。
 海面の上昇、異常気象も進むであろう。

 再生可能エネルギーと資源は、伝統的で従来型のバイオマスによるものは、あきらかに将来の人口と生活水準を維持するには、力不足である。

 科学技術を使わずに、全人口を幸福な生活水準を維持しようとするなら、大幅な人口減少がさけられない。それは悲劇の元としかなるまい。

 ましてやカーボンストーム以前の、伝統社会のやりきれなさの再現・・あるいは過去と比べてさらなる劣化した社会の出現は、だれも望まない。

 太陽電池やコンピュータ、燃料電池、モーターなどカーボンストーム時代に発明され量産化された高度技術製品を、引き続き着実に生産し、世界に供給しなければ、人道的に許容できない事態の発生はさけられないはずだ。

 
その場合、おそらく、カーボンストーム時代と定常経済時代の境目で、集約的工業が残る地域は東アジア一帯になると、私は予想する。

 世界の工場として、基本的な工業技術を中国・台湾・日本が確保しており、オーストラリアや東南アジアやロシアなど資源や人的資源も、東アジアほど近距離で完結できる地域はない。今後、他の地域が代わりに担当できるとも思えない。

 最終的に工業の担い手として、アメリカやヨーロッパやブラジルが主役になれないのは、それら地理的条件に欠けたからではなかろうか。

 東アジアが、長い定常社会の科学技術製品を保存し、長く供給していく、運命的な地域になる。これは、発展とか、名誉とかいう意味は一つもないが、興味深い。

 そして日本は、カーボンストームの第一波の最後の存在であり、第二次世界大戦を境に、はじまった第二波の最初の存在といえるだろう。

 第一波は、内燃機関・製鉄・アナログであり、第二波は電子機器・デジタルが特徴だろう。
 定常時代の世界の工場に東アジアが運命付けられたのは、まさに日本の存在によるものだ。日本が歴史のメインランナーをになったと未来は評価されるかもしれない。

 これは単なる感慨にすぎないが、そうなら旧ソ連は一時は世界の半分の超大国となりながら、実際は第一波の影・劣化コピーにすぎなかったことになる。
 ソ連の正統な歴史の役割は、東アジアの孵化を手伝っただけとなるのかもしれない。

 
未来は定められている。
 人口はどこかで、一定となり、あらゆる資源は完全循環し、農地は永続的に維持され、都市は大幅に放棄され、大量生産・大量流通はなくなる。


 気候については、どこで安定するかはわからない。
 人間の愚行が続くなら、ついには地球全体の気象が暴走して安定能力を失うかもしれない。
 その場合、驚くほど人間が少数になったあとも、果てしなく過酷な気象変動が続いていくのかもしれない。

 それでも、我々は生きて、幸せであらねばならない。

 誰かによる誰かの略奪によって、富や生活水準の偏在がおきることは、人間として許してはならない。そうなれば種としての恥である。

 我々が滅ぼしたネアンデルタールなど、近縁の親族たちに申し訳ないではないか。
 ネアンデルタールの滅亡は、おそらくはカインによるアベルの殺害のような家族内でおきた罪の始まりであったが、その後の我々の所業は順調に悪化・加速させてしまったようだ。

 多くの野生動物の種の絶滅は、近年の数十年に人間が頻発させている。
 私が幼い頃あたりまえに図鑑にのり、動物園にいたサイやトラの地域亜種の絶滅が伝えられるとやりきれない。
 さらに、いちいち伝えられもしない、目さえむけてもらえない膨大な種族の絶滅とかつて豊かだった自然環境の消失は、想像を絶する。

 それら人間によって消される側の存在にとっては、絶滅とは全世界の消滅であり、ハルマゲドンで地獄の釜がひらくような最低・最悪・徹底絶望の、決してあってはならない悪(人間)の不道徳な(空しい)勝利である。

 絶滅させられる種族にとって現在・未来の子供たちを含めた、全種族生命の根絶・ホロコーストなのである。
 どうして彼らが私たちを許せようか?
 生命が生命にたいして、これ以上の罪悪が行えようか?

 全生物種の数割が人間によって絶滅の危機にあり、過去に数億年に一度の大地殻変動による大量絶滅に匹敵するとされる規模だという。

 違うのは、人間がやらなければおきなかった大量絶滅であり、はじめて人間という種族に全責任をとわれる愚かな事態だということだ。

 最終戦争・ハルマゲドン・最後の審判・・これらの究極の歴史の終わりを、多くの野生生物は迎えている。
 そのことの恐ろしさを人間は思い知るべきであり、それを間接直接に担当した、まさに私の世代の責任を考えると、申し訳ないばかりである。

 経済成長がどうしたとかいった、人間の怠惰な言い訳はもはや通用しない。
 人間だけが生き延びればそれですむという生易しい問題ではない。

 次の時代を、どんなにやる気がなく、ぎりぎりまで遅らせ、どうしても望まないにせよ、人間は作らねばならない。

 その世界は、すべての人間と、自然にいきる地球の同胞たる全生物が、「幸せ」であらねばならないことが目標となる。

 それも「定められた未来」なのである。


2016/06/07 6/17追記 T.Sakurai