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家族の遠心力・求心力


 姉の長男の甥が昨年結婚しました。

 石川県の北部出身で、滋賀県の工場に勤務して、佐賀県の方と知り合って、めでたく女の子がさずかりました。


 姉も私も、石川県中部のうまれです。

 姉は、一人息子の義兄と知り合って県内北部に嫁ぎましたが、数年前、母が倒れてから、週に数回、看護のため車を運転して、往復140キロを通います。

 頭がさがります。嫁ぎ先のご両親もお具合が悪いなかでの奮闘です。


 父は、群馬県出身、母は石川県南部の郡部の出身で、子供を4人授かりましたが、子供で故郷に残っているのは兄のみ。姉は県内でも距離があり、あとの二人は関東に出てしまいました。

 私の妻は宮城県の北部出身、故郷の町は津波で大被害をうけ、思い出の家も町なみも消滅しました。妻の姉は青森県の八戸近くに嫁ぎ、義兄は宮城の中央部で家庭を持ちました。

 ちなみに私の父方の祖父は静岡県出身の明治人。
 東京に出て働いて、やはり静岡から働きにきていた祖母と知り合って、群馬県にいって自営業を始めて世帯を持ちましたが、すでにその実家は消滅しました。
 石川県の母の実家も残っているのは、体の不自由な叔父と子供のないいとこ夫婦だけです。

 こうやってみると、実に見事に家族は・・ばらばらになってますね。
 なんでこうなるのでしょう。
 これでは誰かが倒れても、親族力を合わせてお世話するなんて、困難です。

 いがみあっているわけではないのに・・、子供が少ない中なのに・・、ただでさえ限りある家族の力が分散していきます。

 当然、生業の継承、資産の継承、蓄積などできず、田畑もどんどん荒れて、子供もちゃんと残せず、育てられず、やがてばらばらになって一人づつ消えていくことでしょう。

 知らず知らずのうちに、極めて強力な遠心力が働いているのです。


 これまでも、これからも、時間がたてばたつほど、苦しくなり、苦しくなっていくことでしょう。


「若い頃は、そのうち楽になるのかな」と姉は思っていましたが、「苦しくなるばかり」とこぼしました。

 日本中で、同じ現象がおきており、いわば国中まとめて「悪い意味での都市化」がおきているのです。

 家族が生業をもって、自立することが困難なため、サラリーを求めて放浪の不安定な生活を続けるのです。

 結末は明白です。いずれ、人も、思い出も、なにもかも、消えてしまうのです。

 こんなにも技術が労力を軽減し、使える手段が豊富で、映像や音声の思い出を記録できて、長い寿命が期待できる環境にあるのに、なにも残せないとは、おかしいとは思いませんか?
 

 ですから、「断捨離」という行為は、本質的に「やってはいけない」ことです。捨てる必要があるなら、もともと持ってはいけません。
 持ち物を最小限にするミニマリストの生き方は、周囲のインフラ、都市に全面的に依存する寄生的綱渡り生活ではないでしょうか。
 想定外の事態にまったく対応できない、ひよわな生活になってしまっては、人生の意味はないはずです。

 土から離れて生きてはいけない。生きる手段から手を離してはならない。
 それはおそらく、人間という存在にとって、真理なのだろうと、思っております。

 どうすれば、家族の力を集めることができるのでしょうか。

 どうすれば、地域が一つ一つの家庭に協力して、お互いを支えあっていける「しくみ」を作ることができるでしょうか。

 問題提起がされれば、実は解決は簡単なのです。

 このサイトの主張は、そういうことなのです。

 考えていきましょう。

2016/02/15 T.Sakurai



 千歳(ちとせ)、万歳(ばんざい)、百代の過客(ひゃくだいのかかく)、千代田(ちよだ)、八千代(やちよ)といった、言葉を日本人は使ってきました。
 ちゃんと「千年」を視野にいれていたのです。
 自分や、家族や、国のゆくすえを、これらの言葉で、想定していたのです。

 千歳(千年のうち) を考えるのは、べつに特別なことをするのではありません。