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『漫画版 風の谷のナウシカ』によせて
加筆修正版

 「漫画版 風の谷のナウシカ」について
 
 多くの一般読者や、立花隆、清水正、その他多くの識者、評論家が、いずれも『漫画版 風の谷のナウシカ』を非常に高く評価している。内容的にはマンガだけあってアニメ映画よりはるかに多くの内容をセリフによって詰めこめるため、重厚さではそのとおりだと思う。
 しかし、「漫画・ナウシカ」が宮崎駿の最終到達点であって、これ以上にはすすめないといった考え方にはいささか同意しかねる。そこを少々書いてみたい。
 
 「漫画版」と「映画版」

 「漫画・ナウシカ」は完結までに十三年(一九八二―一九九四年)の歳月を必要とした作品で、雑誌アニメージュでの連載は宮崎駿が映画を作るたびに中断された。
 連載が始まった当初は、映画の企画をいくつも持ちながらことごとく採用されず、不遇の状態にあった宮崎駿であるが、「漫画・ナウシカ」完結時には作る映画ごとにその年の日本映画最高収益をあげ、全日本人から絶大な信頼をおかれる国民的アニメ作家となっていた。
 作者のまわりの状況は激変しており、また、たびたびの中断によって、作品全体の緊張点というか根本テーマが、初期と中期と後期では明らかに違ってきている。
 この意味で映画『風の谷のナウシカ』(一九八四)があることは、「漫画・ナウシカ」を考察する絶好のサンプルである。
 「映画・ナウシカ」の世界はすでに当時の「漫画・ナウシカ」の世界から大きく縮小後退している。映画には、漫画で主敵であり、舞台である土鬼(ドルク)が登場せず、トルメキアは同盟者ではなく戦争の相手にされている。
 映画封切当時漫画は一、二巻(『ANIMAGE COMICSワイド版 風の谷のナウシカ』全七巻 以下コミックと略称)だけしか出ていなかったが、それを読んだ後で予備知識なしで映画をはじめて見て、味方と敵が逆転しているのは「驚くべき改変」に見えてしまった。映画はマンガと独立した別世界の作品として作られ、映画の続編はないこともわかった。(封切り前夜の先行ロードショーを見にいったのはいい思い出になっているが)
 しかしナウシカはナウシカであった。ナウシカは蟲を愛でているし、矛盾にみちながら空を飛ぶ――現実にはいるはずのない少女であって、作者が(当時)もっとも描きたいと思っていたことは、確実に表現されているのが映画版である。
 映画に見られる漫画からの後退もすべては、これらを表現したいがタメの戦術的後退なのである。
 映画は、当時の宮崎駿にとっては作品の最終防衛ラインであって、映画に描かれたことが漫画(まだ序盤なのだが)でも描かれれば満足がいくはずだった。と思う。
 興行的には成功し、宮崎監督のアニメ作家としての独自性と発想と、現実的な映画製作能力、つまり実力のほどは、誰にも反論を許さぬほどの強さでアピールした。手塚治虫も映画を高く評価したという。ようやく宮崎駿は正当に認められるようになった。それからのジブリ映画の快進撃の起点となったのが「映画・ナウシカ」であることは間違いない。
 ところが、作者は映画を六五点だといった。自分で作っておきながら、あきらかに不本意だった。「漫画・ナウシカ」で描こうと思っていたことが、ダイジェスト型映画を先に作ったことで限界が見えてしまった。
 映画ラストでは、死んだナウシカを王蟲が復活させることで、神性を王蟲に与えてしまった。王蟲はただの生き物ではなくなった。そんなバカな。である。自然と一体化した王蟲が全能(奇跡)の力を持つ神なら自然と一体化した人間も神になるのだろうか? そもそも自然とは神なのだろうか。物語の本質的問題であり、この問題は結局「漫画・ナウシカ」でも解決できなかった。
 我々、多神教徒の日本人にとっては、最後まで解決のできない問題を作者は明確に感じ取り、その結果「漫画・ナウシカ」は迷走を始めたのだと思う。普通の作家なら第一部終了とかいって、放り出してしまってもおかしくない。「漫画・ナウシカ」の結末はいささか尻切れトンボに近いが、テーマを変化させて、とにかく完結までもっていってくれたのは、宮崎駿という作家の誠実なところだろう。
 テーマの変化という問題を考えるとき、高度成長期の映画『太陽の王子ホルスの大冒険』(一九六八)と世紀末の映画『もののけ姫』(一九九七)を比べてみれば良いと思う。
 あまり指摘されることはないようだが、「もののけ姫」は「ホルス」の発展形ではないかと思う。キャラクターの配置や行動は良く似ている。ホルスとアシタカは言うまでもないし、私にはどうみてもホルスのヒロイン・ヒルダと、もののけのヒロイン・サンは、相似形にみえる。(どうでもいいが私にとってホルスは、正確な記憶もできない幼児期に見たトラウマに近い作品である)
 人間でありながら悪魔。双方に心を引き裂かれて、最後には身を投げ出して死ぬしかない運命を背負ったヒロイン。しかし、ヒーローによって救われて人間界に復帰するという基本設計が同じである。ところが映画全体でみると、テーマはまるで違う。
 「ホルス」では人間社会の団結とささえあいが背景であり、希望と勇気がテーマであろう。「もののけ姫」では自然と人間の矛盾が背景であり、人間の過酷な運命がテーマだと感じた。人は失望と罪悪感から逃れらられず、もがきながらも強く生きていかねばならないと示しているのだと思った。
 両方いずれの作品も当時もっとも重要であった「冷戦を背景とする労働問題」と「環境問題」という時代の要素をとりいれている。
 ホルスの「現代」と、もののけ姫の「現代」。それぞれの作品は、当時もっとも重要と思われて「今後の未来」にも、もっとも意味あるものを作ろうとしているのである。
 つまり背景やテーマは「時代の子供」であって、状況や価値観と共に変化するものであり、変化していないのは「考えうる最良の作品をつくろう」という動機である。
 同じような変化が「漫画・ナウシカ」の初期と後期で起きているのである。「漫画・ナウシカ」は壮大な作品になっているが計算して作られたものではない。サブキャラクターは次々と入れ替わり、性格付けも変化する。骨格自体をどうにかして変化させたかった苦闘の跡ではなかろうか?。そのことはシンプルな「映画・ナウシカ」が示している。「マンガ・ナウシカ」はたまたま複雑な構造になっただけであって、作者は連載開始当時に現行の最終的な姿を想像できなかったはずだ。確かに叙事詩的作品は作りたかったであろうが、別のもっと単純な結末を考えていたはずだ。結果として作者の当初の意図をはるかにこえる壮大な構築物になったのは偶然である。
 映画のエンディングは、本来「漫画・ナウシカ」がどんな結末を迎えるはずだったのか示唆していると思う。
 「大海嘯は未然にふせがれ、クシャナは故国に無事に帰り、心を入れ替えて善政をひき、ナウシカは風の谷で平和にくらす。腐海の底には清浄の地がひろがり、やがて人は新たな歴史に向かって進んでいき、滅びの歴史は転機を迎える。その歴史はこれまでと同じように愚かで汚く、悲惨なものだろうが、歴史の転換点で一人の少女のはたした役割が、新たなる伝説となる。」と、いったぐあいだろうか。
 初期にかかれたナウシカのイラストは明るく、楽しげでさえある。そして風の谷のガンシップと土鬼へと向かう辺境種族のオンボロ飛行機群の邂逅場面は『紅の豚』のように軽やかである。血や戦争を描いても浄化されるはずであった。しかし、「漫画・ナウシカ」後期のイラストは重く暗く陰惨である。ナウシカは時にみていられないほど消耗した孤独な表情を見せるようになる。(『コミック五巻』折込イラスト等)
 まだ若すぎる乙女は「血にまみれた薄汚いカマトト」とまで呼ばれて苦悩する。そう表現したのは作者自身であるし、呼ばれたのもそのような少女を主人公に造型した作者自身である。自己への糾弾であろう。なにより序盤であれほど重要な存在であった王蟲はナウシカの心中希望(『コミック五巻』ラスト)を阻止して以降、ほとんど役割がなくなる。驚くべきことに「自然」がナウシカの舞台から退場し、「人間」と「巨神兵」と「王様」と「過去の人間のプラン」という、人間世界のイザコザでそれぞれが激突する展開となる。まるでイデオロギー論争である。「王蟲」からの神性の剥奪でもある。
 作者はいつのまにか、当初のプランを自己の内面深くから涌き出てきたものによって否定してしまい、まったく別の物語にしてしまった。ナウシカさえ別のキャラクターにしてしまったであろう。
 かわいそうなことに「ナウシカ」は作品的には最初から「負け戦」を運命づけられた物語なのである。
 作者は、ここまで悲惨な物語になるとは思っていなかったフシがある。これまでずっと少年少女向けの物語をつくっていたし、傑作テレビアニメ『未来少年コナン』も悲惨な世界の物語だったが、全体のトーンとしてはずいぶん明るい物語になっていたので、さらに一歩進むための物語「ナウシカ」もなんとかなると、いつものキャラクターデザインやマスコット(テト)などを配置して始めてしまった。飛ぶはずの無い飛行機。安全ベルトも無いグライダーも出した。実際の航空関係者、ハンググライダー愛好者には苦々しく思ったに違いない荒唐無稽で脳天気なファンタジーの小道具。だけど「ゴチャゴチャいうな」とコナンのジムシーのように宮崎駿はきっといったであろう。「四角四面の設定なんか燃えちまえ。そんなもん面白くもなんともない」。そして、いつもの「マンガ映画」の感覚で、ついつい(本当に)安全装置を外した作品を描き始めてしまったのだと私は思っている。
 可愛いらしく、記号化された登場人物が登場するマンガやアニメで、戦争を描くという試みは、カリカチュアならともかく、リアルにやって本当に成功することはない。なのにアニメでリアルに戦争を描くのが普通になってしまったのは問題なのだ。宮崎駿もこの風潮に影響されていたと思う。宮崎駿は手塚治虫に代表されるシンプルな線で記号的にまるまるしく表現されたキャラクターを描いている。もともと客観的写実性とは別の役割をもっているのだ。同時期にあった同じアニメータ出身作家安彦良和によるマンガ『ヴィナス戦記』もファンタジー的戦争マンガでそうとうリアル(に見せていたの)だが、これはマンガの限界をちゃんと設定して安全装置を配置している。だから世界観が広がりをみせず、せいぜいリアルっぽいでとどまるのだ。だが、「ナウシカ」の場合は、本来「マンガ的絵」では到達できないはずの所まで、現実というアナーキな実体に肉薄してしまった。だから作品としてバランスを失ってしまった。同時にマンガの枠をこえようとした試みに読者が興奮してしまった。私ももちろん熱中した。
 戦争というテーマはやはり重すぎるのだろう。宮崎駿はファンタジー世界の、「どこか気楽できれいな戦争」を描こうと無意識に思ったはずだ。それしかマンガでは扱えないし、もともと「扱ってはならない」からだ。だから女の子を王様にして強力無比なキャラクターにした。一言で言えば戦争アニメに慣れた観客のためのカルト作品である。美少女とメカのオタク的世界と言えなくもない。でもそれだけの作品では時代の前衛としての最前線で、正統に生きられない(評価されない)時代に、やがてなっていた。
 現代はゲームの仮想空間での戦争を楽しむこともできなくなった。「現実」のとんでもなさが「仮想」を追い越してしまった。
 思えば原爆登場以来、もともとそんな世界になってしまったはずなのだが、いよいよそんな時代であると、あらゆる面ではっきりしてきたのだろう。
 それを最後までなげださず、過酷な運命を背負った少女の使命を完遂させた宮崎駿は力強く、まっとうで、なにより心やさしい人なのだ。しかし、皮肉なことに。ナウシカという一人の愛すべき少女を、作者自らにとっても納得できる、平安な落ち着き先にたどりつかせようとすればするほど、彼女の運命は過酷になる。
 最後にナウシカは「狂って」いる。それまでの清純な女神から、破壊と欺瞞(うそ)を肯定しながら「(自分の)世界を守ろう」とする魔女への変貌である。物語の中心にいた「聖なる」おとぎ話のヒロインから、周辺の「欲望に動かされる」人間的キャラクタの一人への転落なのだ。(ちなみに物語中何度もナウシカは「魔女」と表現されるが、ここでは違う意味で使用しているのでご注意を)
 以前からナウシカは自分の信じる正義のためなら自分の命を失ったり、敵の命を奪う覚悟があった。しかしそこには、純真な逡巡と哀れみもあった。しかし結末での彼女は、世界(の秘密)を守るためには弱い者や大切な者ですら計算づくで死なせられる存在となったはずである。巨神兵を自分の子として偽り、実際に利用している。どう理屈を言おうが、どんなにナウシカが内心苦しもうが、しょせん欺瞞であり、そしもそれが悲しいことに必要なのだ。
 もちろん彼女は苦悩して血の涙をながす。しかし、多分かつてできなかったことができるようになった。これは成長と呼んでよかろう。少なくともナウシカ自身の内部においては必然と、とらえているはずだ。
「気に入ったぞ。おまえは破壊と慈悲の混沌だ」俗物きわまるトルメキアの王に賞賛されたナウシカは、もはや死ぬまで罪悪感をもちながら強く生きる孤独な人間である。
 物語最後の、能面のように心を閉ざしたナウシカの表情はなんだろうか。
 もはや猛々しい聖なる女神でも、驕慢で清らかな処女巫女でもありえない。それはナウシカ自身(作者自身)が選択したことだ。
 そして、その選択の原動力というか、到着点に導いた本当の原因は何かというと……。そう。私がこの小文を書くつもりになった動機でもあるのだが。ナウシカ(作者)自身の世界観である。


 「ナウシカ」の後ろにある「日本」

 『風の谷のナウシカ』は日本が舞台ではない。
 しかし、まぎれもなく、日本人の作った日本の作品であり、少し踏み込んでみたなら日本人独特の思考の産物といえるものは多い。
 日本文明にはもともと統一的な世界観がない。日本以外の世界の大部分の人からは珍しい民族と思えるかもしれないが、もともとそんなご大層な思想などは、大変な思考の積み重ねと徹底的な論争の結果できるもので、文化的に最先端の場所でしか生まれえないものである。孤立した文明にとって、あたりまえのハンディキャップだ。
 そして数的に圧倒的に多く生まれたであろう統一的世界観を持たない文明の多くはすでに滅び去ってしまったか、滅ぼされてしまった。日本文明は生き残りなのだ。
 日本はいうまでもなく文化的中心から遠く離れた辺境にある文化であって、しかも影響を受けたのが、現在では世界の主流を形成することになった欧米的(ローマンカトリック・ベブライ・ヘレニズム)思想ではない。日本が近代以前に接しえたのは、現代ではすでに思想としての論理性を失い、人類の中心思想として正統を主張できなくなった中国儒教思想である。中国儒教思想は論理的根拠を誰の目から見ても失うことで機能を失い始めて地域思想の一つに転落してしまった。中国的世界観はもはや、現代と未来において通用しない。なのに日本では、その中国的世界観ですら本当に理解していたことがないのである。
 ところでなぜ、世界観が重要であるかだが、人間の精神を、本当に合理的で現実的で、いかなる事態にも対処できる強靭さをもたせるのは、どのようにしたらよいのか。という問題である。
 それは、統一的世界観を構築することで実現できる。(あくまでも世界観の範囲内でのことだが……。)
 世界観は矛盾があってはならないし、人間は自ら作り、選択した(あるいは押し付けられてそれしか知らない)箱庭のごとき世界観の中でのみ、勇気を持ち、確信をもって生きることができる。その世界観から導きだされる思想と正義に身も心をささげて、安心し、満足して、生きていくことができる。自己満足といえばそのとおりであろう。
 もちろんどのような世界観も、人間が作る以上、不完全な未完成品である。完全な世界観は作れっこない。どうしたって矛盾ができるのであるが、矛盾をそのままにしておけば全体が崩壊してしまう。
 ところが崩壊してしまえば世界観として意味をなさないから、その場合はどこかに論理的に破綻しないよう設定された「絶対点という根本矛盾」をおいて、なんでもかんでも吸収するのである。一神教はそうしている。
 もう一つの方法は、思考停止をして、そんなことを「考えた」という事実を忘却するのである。これはもちろん非論理的方法であり日本が長年採用している方法である。つまりは都合の悪いことを見なかったことにして、過去を消してしまうのである。論理的な統一的世界観をもっていればこんなことに耐えられまい。
 現代文明の中心思想である西欧思想の中心は「絶対神」であるし、アジアにおいて長らく絶対的思想であった中国思想の中核は「天の思想と血縁主義」であった。
 日本人にも縄文・弥生から続く民族独自の思想が「実はある」のだが、いかんせん熟成も議論も足らないから民族の伝統思考という辺境思想にとどまっているのはいうまでもない。
 その思想はいまだ完全に、日本人自らにすら客観的な思想体系として把握されたこともない。なぜなら正面から先進地の統一的世界観や思想と対決すると、日本人自身にとってすらどうしょうもないほど伝統思想が貧弱にみえてしまうからである。だから自己の思想を、それらの思想と対等にわたりあって、外来思想と正面から対決することをしないのだ。
 自分の中にある思想を、外の思想とつきあわせて徹底的に研究しない。比較もしていないし、欠点も長所も評価していない思想を、自分で把握できるはずもない。日本人は自分を動かしている思想をも、自分で客観的に把握していないのだ。では、把握するにはどうすればいいか。自分とは異質の思想と真っ向から論理において討論するのだ。でもやらない。やらないのではなくて、できないのが日本文化の特徴である。
 そして把握できなくても、確実に存在する伝統思想は、精算できないからこそ強力な呪縛となって日本人の心の底に残りつづける。だから、自己も外来思想も把握できないが、生き残ってこれた。そして行動は、その場限りで矛盾に満ちたものとならざるをえない。
 大きく「漫画・ナウシカ」の話の本筋から離れてしまったが、次に行く前に、つまらない指摘を一つ。
 作者は百も承知であろうか――現実の問題として、土鬼の墓所でのクライマックスで敵と味方が議論をすることはありえないのである。土壇場では生きるか死ぬかの二つを争って戦うしかなく、議論と交渉は別の場所、別の機会で、お茶の時間をはさみながら静かにインケンにやればいいのである。それが決裂したときにこそ「戦争」はおきるべきである。
 同じような戦闘中の哲学的問答のシーンは「なんとかガ●●ム」でやっているのをちらりと見たことがあったが、あまりの現実味のなさに(ばかばかしさに)五分も見ないでチャンネルを切ってしまった。「漫画・ナウシカ」のクライマックスもそうである。
 まったくもって、人類の将来にかかわるあんな重要な問題を、女の子一人の瞬時の判断で決められてはたまったものではなかろう。これは作品の完成度の足を引っ張るといっていい。女子高生一人に人類の未来を託せるわけないんです。(宮崎監督ごめんなさい。不愉快に思われてしかたない揚げ足とりをやってます。でも誤解しないでほしいのですが、事実を指摘しているだけで悪意はないんです。あなたはこんなこと、とうの昔にわかっておられます)
 さて、こんな指摘は、実はどうでもいい。作劇上の手続きの問題にすぎないからだ。
 本質的な問題はここからである。
 ナウシカは一度自殺する。中盤の山場。粘菌と王蟲との消滅と融合への心情的自主参加である。実に日本人らしいといえば「らしい」行為だと悲しくなる。こんなこと書けば多くのファンから反感を買うであろうが避けては通れないのだ。
 よく「日本的現象だ」といわれる心中は、自分と他者が感情的に一体化するために発生する。自己の感情の他者への投影が、相手が死ぬなら自分も死のうと思いつめさせる。これを、ひっくり返せば自分の感情が許せば,相手を殺しても当然となるのである。
 なぜ少女が死ななければならないのか? 作中に合理的説明はない。ナウシカは人間に絶望して、王蟲を敬愛して、同じ所に行きたいと願って消えてゆこうとする。宮崎監督はアブナイ情景を描いてしまったと思う。自分を殺す覚悟があれば、他人を容易に殺すことまで、あとホンの一歩である。物語ラストでのナウシカの重大な行為は、まさにそれではないか?
 作者はナウシカが王蟲と消えてしまうことを一度は選択することで、それまでにナウシカが犯した「巫女」にふさわしくない殺人などの行為を浄化し、風の谷の人間というしがらみをはなれ、人間の枠をこえた神性をもつ物語の語り部としての地位を取り戻そうとしたのだろう。
 ナウシカの数々の戦闘での殺人や、戦場での地獄の目撃、人間世界での姫としての扱い、特殊技能者としての活躍は、ヒロインとしての設定からすれば一度はやらせたい「おいしい」情景である。しかし、それらを何度も繰り返せば年若く純粋無垢な乙女という設定が崩れ、テアカのついた大人の汚い女になる。そうなればヒロインとしての魅力も消えてしまう。
 ナウシカのヒロインとしての再生のため、作者はナウシカを絶望させ一度死なせなければならなかった。しかし結局それは自己の感情で自分の命を粗末に扱うというだけであって、無垢ではあるが責任放棄以外の何ものでもなかろうか?。もっと恐ろしいことは、それで死んでしまえるナウシカに作者は共感し、読者も感動するということである。作者も読者の多くや私も日本人ではあるが、ふと気がつくと途方にくれてしまわないか?。私も最初の一読はナウシカに共感していたのである。
 救われて浄化されたナウシカには、自分の命よりも、他人の命よりも、もっと大切なものがある。そのために自分を平然と犠牲にするし、犠牲にしようと努力する。シュワにある墓所の「清らかな生命の種子」すら滅ぼす。ナウシカは物語が終わっても心優しい少女ではあろう。だが二度目の浄化はない。二度と純真に笑うことはできまい。
 苦悩の末に決定的に自分の体を汚してしまうことを選択したのだから。ナウシカは自分のしたことがわかっているのだろうか? わかっていると思うから、「ヤッチマッタ」のであろうし、同じ思いをもっているから作者もそのようにナウシカを描いた。
 そして、「漫画・ナウシカ」を評価した「日本人」評論家たちもそのように感じとった。感動し、賞賛し、自分たちの持っている世界観にとって究極の表現と思った。それは、私には、特定の世界観にもとづいたその場限りの判断にしか見えない。まさしく「破壊と慈悲の混沌」である。
 墓所でのナウシカの反論を思い起こして欲しい。ナウシカは強く「否」というが、根拠は示さない。
 示すのは「私たちは血を吐きつつ、とぶ鳥だ」という、自分の中にある「あいまいな世界観」だけである。確実な論理的絶対点ではない。いってみれば「否」はナウシカの感情にしか「根拠」はないのだ。
 いったいどこに万人に納得してもらえる「絶対に誤りのない論理的根拠」を説明する言葉があるのか。あるのはナウシカ本人の心の中にある「確信」だけなのだ。他者を問答無用で排斥する狂信的信仰とどこが違うのだろう?
 世界観は、いつも「神」の存在と認識と定義に直結する。ナウシカ(作者)は、「一枚の葉にも一匹の虫」にも「私たちの神」はやどると、誇りをもって語り、過去の人間が作り上げた墓所の「(身勝手な)希望」を「(身勝手に)破壊」するのだ。典型的アミニズム賛歌と、私には見える。
 正直に言って、私は「漫画・ナウシカ」を読んで悩んだ。宮崎駿という現代日本においてもっとも影響力をもち、思想的にも優れた作家の到達点であることは確かだ。そしてそれが我々日本人の限界点に近いことも、うっすらとだが瞬時に理解した。ここまでは「漫画・ナウシカ」を高く評価する識者たちと意見は同じである。
 しかし、私には、その限界そのものが、日本人にとって極めて大きな問題を掘り起こしてしまったのだと思う。ナウシカの反論と結論は、我々の先祖が行ってきたのと同じで、あいまいなまま過去の歴史を消すという行為そのものに見えた。
 けっして自分を把握して、その欠点や長所を正確に認識して、叩き台にのせて討論にかけるということをしていない。ナウシカは「自分たちは変化しつづける」といいはしたが、実はみずからの内部の思想を守り抜くために対話を拒否し、変化を拒否しているではないか?。
 おそらく「人間にとって絶対正しい思想」はない。永久に変わらなくてすむ思想もない。断言していいと思う。いちいち言うまでもないだろうが、墓所の主が全知全能でないように、ナウシカもまた全知全能ではない。王蟲が協力しようが、地球生命体の全意識統合体である腐海の生態系の、全知能、全知識、全能力を傾けてナウシカに協力したところで、やはり全知全能ではありえない。最後にナウシカは「この星にまかせよう」などともいうが、地球だって全知全能であるわけもない。しょせん、自然も地球も人間も物体である、本質的な違いはない。すべてが八百万の神なら、裏返せば一人も神などおるまい。それが多神教の悲惨な結末である。
 すべての知的存在は、究極において完全に知的ではいられないのは悲しいことであろう。限定的な情報をもとに暫定的な認識に達して、とりあえず行動するために、細かいところに目をつぶって(罪の許しをこいながら)不器用にうろうろやるだけの話だ。どっちもどっちである。
 だからナウシカがどんな体験をして、どんな確信を持とうとも。どんな思想をもとうとも、「自分を正義」にしてよいわけがあるまい。そして、どんな言い訳をしようとも、自分の内部の声を信じて、自分や他人を「自分の神」に捧げることは、とりかえしのつかないことである。
 わたしにはナウシカが幸福になったとはとても思えない。それは作者も承知していよう。
 ナウシカは「自分の世界観」を絶対肯定してしまった。彼女はその場所(墓穴)にとどまるしかない。自由な翼はもうない。自分の中に巣くっている「狂信的な神」へ、いけにえをささげて、血を流してしまった。血の契約をしてしまった、「その神以外の神」に対しては犯罪者になってしまった。
 なぜ世界の各地に「いけにえ」という風習があったのか? さまざまな意味があろうが、有力な理由の一つとして、流した血は「共犯者」としてお互いを縛り付ける効果があるのだ。
 連合赤軍の内部抗争により、リンチ事件が発生して死者がでたことがある。だが、よってたかって仲間を殺したことで、赤軍派内部の結束は恐ろしく強くなったという。ドストエフスキーの『悪霊』も参考になると思う。ナウシカの世界は、たしかに平和にはなったろう。腐海の自然と協調してくらしていけるだろう。
 しかし私はナウシカが可哀想でならない。彼女は慈悲深い女王としてくらしていけるのか。土鬼の神聖皇帝のような無慈悲な暴君に変貌する可能性はないのだろうか。安心してはいられないのだ。
 墓所の主がナウシカに「闇のみだらなにおい」を感じたのは正しいが、もっと痛烈に彼女の根本矛盾をつきさせばよかったのに……と思ったりもする。
 墓所の主は正攻法でナウシカを説得しようとしたが、それは原発反対を感情でさけぶ人々に、原発の必要性を、(内心自己の願望の充足だけを願う)技術者が理論的に、専門用語を使って訴えるようなものだった。これでは説得できないのも無理はない。この手の論争は日本では非論理的な者が必ず勝つようにできている。日本的論争で言えば、墓所の主はナウシカの理論でナウシカを説得すべきだった。

 私的評価・習作としての「漫画・ナウシカ」

 だが、もうあれこれいうまい。
 物語は終わってしまった。ナウシカの世界は、作者によって閉じられてしまったのだろう。もう続編をかくつもりは毛頭ないはずだ。
 最初は、作者自身の好みによるレトロっぽい、自由なファンタジーの世界だったのだが、書き込み、描きこむことで独自の実在性を獲得してしまって、そこにいる人々を躊躇なく動かすことができなくなっていると思う。
 漫画版ナウシカは壮絶な「習作」なのだと思う。だから、作品としての長い命は持ち得ないと思う。
 完成度でいけば映画版の方が上であろうし、矛盾も少ないがゆえに後世、ナウシカといえば映画を指すようになると私は思う。そして「映画・ナウシカ」の評価は『千と千尋の神隠し』や『もののけ姫』より低いものになると思う。
 宮崎駿は『魔女の宅急便』より後、作家性を強く打ち出すようになった。この理由の背景としてあげたいのが、いまではほとんどの人の頭にないだろうが、『魔女……』はジブリ系アニメで初めて日本映画の年間一位の興行成績を収めた記念すべき作品であるということだ。
 もはや子供や、いびつなマニアの愛好するアニメという狭い範囲ではない。総合芸術として確立している映画というジャンルの中で、いまだ偏見の強い識者からの援護などはもらえない不利な状態から、一般大衆の支持だけをもって最高の成績をおさめたという事実。
「漫画・ナウシカ」は最初、自分のロマンとエンターティメントを目的として、マニア向けに書き始められた。だが、現代一線級の作家として認められたからには、作家としての希望と責任が最優先されるようになった。従来の自分自身や読者への好奇心充足的な欲求や媚態は不要で有害となった。自己中心の表面的で奔放なマニア的趣味を抑制せざるをえなくなり、その一方、作家としての自分の内面の声を最優先させられるフリーハンドを得たのである。
 もちろんエンターティメンティストとしてのこれまでに、作者は誇りを抱いているから娯楽性(商業性)軽視はしない。かといって観客と自分の単純な満足の下僕として、作品を作る必然性はなくなった。
 宮崎駿は作家の立場で「漫画・ナウシカ」を変貌させてしまった。だからこそ「漫画・ナウシカ」は習作なのである。
 その成果は、『もののけ姫』と、『千と千尋の神隠し』に表れた。個人的にはこの二作品は宮崎駿の作品群の中で飛びぬけた存在に思える。


 根本問題とは?

 結論を書きたい。この文章もようやく終わりである。ここまで読んでいただいた人に感謝しつつ、最後のお願いをしたい。これは敬愛する宮崎監督への身勝手な評論ではあるが、どうか感情的にとらえないで欲しい。怒らずに冷静であってほしい。もちろん批判・反論があるなら論理的に存分にうけたいと思う。
 我々人間は、不完全である。その思想もどこまでいっても不完全であって、世界観はアナだらけである。だからといって、それを放置しておくことは歴史の否定と対話の拒否であって、永遠に現実にとどまることになり、過去も未来も失うことなのである。
 我々人間という動物が進化してきたように、思想もまた、新しい科学知識やその徹底的な検証と討論によって、変化しなければなるまい。過去の長所を残したまま欠点を克服していかねばならない。
 少なくとも私はそう願う。ナウシカは結局は同じ場所にとどまるために、討論を拒否してしまった。私はこれには賛成できない。
 もちろんナウシカ自身も、自分が「自分の精神の利己的保身のため」に行動したとは思ってはいまい。だから無意識に自分がとってしまった行動の意味を知ったら愕然とするだろう。
 ナウシカは自分自身がなにかに「呪縛」されているとは気がついていないだけなのだ。だが、呪縛に気づこうと気づくまいと、その支配化にあれば自由はない。
 良心の自由が欲しいなら、自分の中に巣くっている呪縛とも戦わねばならない。どんなに苦しくとも。どんな自分が正しいと信じていても。疑ってかからねばならないのである。
 宮崎駿や、立花隆など、「漫画・ナウシカ」を作り、評価する人々は天才に近い素晴らしい思想家ぞろいなのだが、過去の日本人としての思想的限界が、人類思想の限界だと錯覚しているような気がしてならない。討論を繰り返せば、彼らをも呪縛している日本の伝統思想は、ちゃんと体系化できるし、再把握できる。(できた人が実際にいた。)やってみればあいまいな点など、どこにもなくなるのである。それは呪縛からの解放であろうし、世界的思想との真剣勝負が始まることでもある。もっとすごい世界があるのだ。
 実は宮崎駿は、その世界をうすうす感じている。だから「ナウシカ」を尻切れトンボで終わらせたのだ。本能的カンでそうしたのだとしたら、やはりスゴイ人である。
 もちろん私は無名の一凡人にすぎない。それが当代一線級の知的巨人である思想家や識者に意見するのは無謀そのものである。しかし、私は「別の世界観」を知識として把握する機会がたまたまあったのだと思う。だからこそ凡人の私が、彼らの思考の外に限定的に出て、客観的視点が持てただけだろう。私の主張に、もし正しい部分があるのなら……である。

 

参考資料
 『風の谷のナウシカ』1-7 ANIMAGE COMICS ワイド版 徳間書店
 『風の谷のナウシカ』映画 アニメージュビデオ
 『千と千尋の神隠しを読む40の目』キネ旬ムック キネマ句報社
 『宮崎駿を読む 母性とカオスのファンタジー』清水正著 鳥影社
  その他

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