ファンタジーは非ユークリッド幾何学の世界?(ジブリ作品によせて)
(千尋フォーラムへの投稿より)
大変興味深く読ませていただきました。私はこの手の文学論には皆目接したことのない一般の道楽者ですが,ちょっとだけ意見を述べさせてもらいたいと思ってお邪魔しました。
私の解釈では、ファンタジーと非ファンタジーの違いは,公理を変更したか,変更していないか。で、定義できるとおもいます。
現実世界には,さまざまな法則があり,例えば『人は動物』『動物は食事しなければならない』『必ず死ぬ』『各種の自然法則に従わなければならない』といった,最終的には科学的実証が可能な要素に拘束されているわけです。その中で,常識的にまず間違いないものを判断基準とします。これを仮に『公理』と呼びます。
公理は現実の世界を認識するための我々の道具であるとし、我々の認識と世界観はすべて現実の粗雑なコピー,つまりすべてフィクションであるとここでは定義しておきます。
公理に従ってシミュレーションをすると普通の小説なり,映画になると考えてください。
現実世界の公理(世界観)は物語(シミュレーション)の制約として働き,同時に読者に現実感をもたらしています。現実に使っている公理と物語の公理とが一致している場合は仮想ではありますが、現実的なものとして,物語(小説とか映画やすべてのリアルな芸術作品など)は存在しているわけです。
ところが,公理は定義の集合体ですので,変更は可能なわけです。
始めから現実にはありえない公理を導入して,それを元にして作った世界を舞台にしてお話を作ることもできるわけで,私はそれがファンタジーだと考えています。
だからSFはファンタジーではありません。SFはあくまでも現実の世界にとどまってシミュレーションをしている作品と私は解釈します。ただ,使用されたのが最新の科学知識であって,新しい現実の公理が発見されたことによって可能となった新しい現実の描写がSFの本質であると思います。
同様に,神話もファンタジーではありません。たとえ魔女や竜が出てきてもです。なぜなら過去において,現在では現実的でない(根拠がない)と放棄された設定・仮説(公理)でも,現実であると認識されて人間の精神に作用していたからです。
神話の作られた当時の知識では,説明のつかないことへの合理的説明として,架空の公理(竜とか八百万の神様とか)が設定されてそれが現実に想定して,想定しているが故に人間精神にとって機能していましたので,フィクションではありますが,ファンタジーではないのです。
たとえば,古事記や日本書紀には日本神話が収録されているが,あれは当時の事実として扱われています。でなければ,後半でその神の末裔として当時の天皇の物語になるわけがないのです。
古事記を現代風に言えば,湯屋の世界からこの世界に復帰したハクがやがて総理大臣(またはどこかの会社の社長)になりましたと、学校の教科書に書いてあるようなものである。だから,神話はもともとファンタジーではありません。
現代人にはファンタジーの「ように」読めてしまうだけです。そして,神話を信じている人は神話を現実としてとらえて,機能させて自分が生きているわけです。この点、最初から現実的根拠のないファンタジーとは意味がまったく違うのです。
なんでこんなことを思いついたかというと,数学のお話からです。
非ユークリッド幾何学は,それまでの幾何学の公理の一部を変更しても世界観が論理的に崩壊しないことを証明しました。
同様に,現実の公理に仮に「竜が存在する」という過去には可能性の高い仮説であった廃品公理を復活されて組み込んだとしますと,それでもフィクションとしての世界は成立するのです。
ハリーポッターはファンタジーですし,ルパンはかろうじて非ファンタジーです。
宮崎・高畑関連作品で分類するなら
純ファンタジー
千と千尋の神隠し、もののけ姫,紅の豚,魔女の宅配便,バンダコバンダ、ホルスの大冒険、ポンポコ、長靴をはいた猫,白蛇伝、火垂るの墓
中間ファンタジー
トトロ(ひょっとしたら),ラピュタ(うーん),ナウシカ(まあいいか,SFなら非ファンタジーになるがナウシカの超能力はなあ・・),セロ弾きのゴーシュ、不思議の国のアリス(ジブリではありませんが夢オチの典型)、銀河鉄道の夜(これも夢オチ)
非ファンタジー
カリオストロ、耳をすませば、未来少年コナン(迷うけどSFです)、山田くん
となるのでしょうか。中間ファンタジーとは、夢や比喩としてファンタジー的要素を取り入れているが,あくまで現実世界にとどまるもの。という分類です。
なぜ,典型的で純ファンタジーに見えるトトロをこう分類するかはトトロの背後に隠された恐るべき仮定が払拭されていないからです。(くわしくは改めて)なにしろトトロは大人には見えないのですから。
単なる寝ている間の夢や、個人的妄想や幻想による擬似体験は,現実にもありえる現象ですからこのように分類しました。
そして「千と千尋の神隠し」が純ファンタジーになった決定的理由は銭婆の髪止め(大人にもみえる物体)の存在です。
ちなみに公理の違いは,なかなか深刻な問題を人類の精神に与えています。
なぜなら,科学的に証明されない公理が非常に多く,かつ人間の感情的継続性に基づいた科学的根拠を失った伝統的公理を保持している場合が非常に多いのです。
そのため,人類には,おそらく永遠に統一された普遍的な公理の集合に基づく『世界観』などは持てないのでしょう。
世界観の違いは,文明の間の衝突を生み出しますし,その衝突は,結局のところ,それぞれの文化に属する人々が勝手に頭の中に思い描いた世界観(フィクション)のぶつけあいです。
どちらの世界観が正しいかは最終的にはどちらのフィクション(仮説)が現実に対して,より近いか,より現実的で,より実力があって,他を圧倒するかの腕力勝負になるのである。頭の痛い問題であるが,これも致し方ない部分があります。
だが,ここで,ファンタジーの効用もあると思われます。
ファンタジーは一種の架空世界であって,自由度が極めて高い。
従って現実と完全に切り離して、様々な実験が可能なのです。論理的な整合性を求めるとどうしても現実との対応において深刻な意見の対立を引き起こしますが,ファンタジーなら、メクジラたててもしょうがないんです。
ファンタジーは人間の精神の本当の形を浮かび上がらせてくれる可能性もあります。
ファンタジーは我々を遠くて近くて、すごいところにつれていってくれるのです。
tshp 2002/1/20
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