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目次

『いつも何度でも』の勝手な自作歌詞 2001/7/28

雑誌「ユリイカ」掲載記事への感想 8/31


最初に投稿した内容

『千と千尋』は宮崎さんの最高傑作だと思います。
人物像と演技の厚み、圧倒的な世界観、こめられた情感。
圧倒的ではないですか。決まりきった説明やストーリーを
はしょったから、それがなんだというのです。
そんなものがそろっていたって、駄作は駄作。傑作は傑作。
それにしても、なんて凄い映画なんだろう。これは天からの贈物かも・・・。

宮崎キャラの美形キャラに少々困っていたボクにとって、千尋のベーと舌をだす場面は喝采です。

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  『いつも何度でも』の勝手な自作歌詞


  出口ない 日々の 上にひらく
  青い空に のぞみ にじんでゆく

  生きていくままに 過ぎる時間に
  なにも変わらぬ うちに 変わってく

  くだけた夢 だきしめ ふりむき そこに
  知らなかった 意味が 見える
  さだめつき 地にふす日 だれか はるかに
  解き 放たれ 空を かけゆく

  悲しみのなかに きえないもの
  終わりゆく時間 開かれる思い

  最後まで 今は 見えないけれど
  やがて みんなに 出会って わかる
  ぼくと すべてが いかされていく
 
            

2001/7/28

映画を見終わって一時間で一気に書いた自分なりの歌詞と感想。
歌詞については,もしかして製作者の意図とだいぶ違うかもしれないが,
ボクの内部ではちゃんと理由があるんです。


雑誌「ユリイカ」8月臨時増刊号掲載記事への感想

 私の結論から先に書きたい。

 斎藤環氏による,「宮崎監督が○○○ァ○○である」という主張は納得できない。
 まず○○○ァ○○の言葉は,異常犯罪者に対して使われることの多い,極めて侮辱的と受け取られかねない表現である。
 これを使われてふさわしいのは実際に犯罪を犯して逮捕され,刑の確定した人物か,もしくは刑は確定していないがほぼ明白に事実関係が判明している人物である。
 しかし,このように事実として呼称してよいであろう場合でも,対象者が社会更正を果たすには,慎重に使わなければならないのは言うまでも無い。人前で,または不特定多数のメディアに載せて特定の人物に向かって使用するには不適切なのだ。

 宮崎監督はそのどれにも該当しないのは明かであって,なぜこのような表現の対象となるのか私には理解できない。侮辱とうけとられてもしかたなかろう。むしろこれは宮崎監督にではなく,この評論を書いた斎藤環氏に問題があるのではと思いたくなる。

 繰り返すが,斎藤氏は断定している。
 その根拠は斎藤氏の「分析による結論」であり,「主観」である。つまり,明白な事実とは無縁な仮説にすぎない。
だから批評で言えるのは,せいぜい「ではなかろうか」「だと思われる」程度の推測にすぎないのに,いきなり「これは間違いないのだ」と断定し飛躍している。
 なぜ,刺激的,侮辱的な表現を空前のヒットを記録する傑作をつくる有名な人物に対して投げつけるのだろう。
 それも自分の思いこみを根拠にしてである。責任は宮崎監督にではなく,斎藤氏自身にとってもらわねばならない。

 自己の認識なり結論を公表することは、同時に自分の内面をあらわにすることであって、他者を一方的に裁定できるものではない。
 同じ対象を分析しても、分析者が違えば別の結論がでよう。
 
 私も宮崎監督の作品を自分なりに分析・解釈しているが、斎藤氏のような結論を出すことがなかった自分にホッとしている。

 私は宮崎監督が斎藤氏に指摘されるような方向性を多くとっているのはエンターテイメントとしての営業的配慮が大きいからだと判断している。
 宮崎監督がたびたび「アニメは駄菓子で,私は風俗営業だ」という趣旨のことを謙虚に語っている。

 監督自身は子供向けの漫画映画の製作者であるという自己規定と自己統制をストイックに守っており,芸術家だの思想家だのいう気取った意識はないし,そういったカッコつけに嫌悪もしているはずだ。

 「神のごとき創造性をもった天才」というマスコミにたびたび喧伝される評価を肯定したことも、私の知り得た範囲の資料にはない。
 間接的に見る人間にとっては、実に気持ちのよい人物である。

 商業アニメはなによりもまず商品であって,ヒットさせねばならず,口当たりよくなければならない宿命をもつ。
 従って観客の嗜好にそった表現手法をとるのは「駄菓子職人」にとって当然ではないか。
 (もっとも,いまやこの駄菓子は国宝級で,存在することを多くの人が感謝するものである)

 私の判断では宮崎監督は育ちのよい,地に足のついた実行の人である。
 実践の人は、観念論で現実をとらえる人種にとって、予想をこえてしたたかで、行動が早く,常に目測を上回ってしまうのだ。

 宮崎監督の作品製作過程は即興に近い。しかも、あらゆる通俗的パターンを、それが自分がもっとも得意とする手法であっても、こだわることなく厳しく回避しようとする。
 だからこそ作品のエネルギーは極めて高い。恐ろしいほどのリスクとひきかえに、である。
 そして,静止状態での形式分析では作品の完成度は低いと判断せざるをえないことがたびたびあるが,そんなものよりはるかに『芸術』にとって大切なものが息づいている。ミケランジェロの晩年の未完成作品の素晴らしさと同じように。
 その作品は、誰にも真似ができず、鋭い刃(やいば)のように観客を無関心にはさせない。
 肯定であれ、否定であれだ。

 そんな作家に対して,斎藤氏の批評は礼を失しているといわざるをえない。もし,私が同様なことを目の前にいる人物にされたら「ただではおかない」と憤怒してもしかたない言葉と思う。
 ついでにまったくつまらない指摘をすれば,裸体を表現する芸術家の動機が、すべて性欲にもとづくものだとすれば美術館は必要あるまい。

 これ以上は斎藤氏があの批評を書いた動機と責任に対しての言及はしない。どう考えても低レベルの雑言に近くなるからだ。

 最後に言いたいのは,宮崎監督も、斎藤氏も、私も、人間はその創作物で判断されるべきだということだ。
 何を語り,何をし,それが創作者の内面をどう表現しているのか。である。そして,斎藤氏の創造物に,私は興味がまったく無い。

 いずれにせよ,価値があって残るものは残り,消え去るものはどんなに歯軋りしても時間の流れという審判に押しつぶされて、跡形も無く消え去るであろう。


 我ながらつまらない文章を書いたものである。

2001/8/31
 

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投稿集

毛利さんの掲示板。その他への投稿です


ID698-1 Re: 千と千尋のなぜ?どうして?
2001/10/30 21:43:22 - ts/hp

『千と千尋の神隠し』はいい映画ですね。傑作中の傑作です。
カンペキにはまっちまいました。
わたしの勝手な推測で申し訳ないですが,書いてみます。

湯婆婆は本当はいい魔女なのか悪い魔女なのか?
 ↑これは銭婆が「これは妹(湯婆婆)がハク竜にかけた呪いだよ」と言っていたからです。
また坊にはやさしいし・・・

 湯婆婆はどこにでもいる普通の強欲おばさんです。そうでない人の方が少ないはずです。けっして悪い人(魔女)ではないと思いますよ。
 自分の利益になることだったら、平気で他人を利用するのはホメラレタことではありませんが,ごく普通のことですもの。子供をべたべたに可愛がるだけでも悪人ではないとわかります。
 生き方が下手なんですね。きっと。

なぜハクは名前を忘れたら帰り道がわからなくなると思ってるか?
 またなぜ名前を思い出したら帰り道を思い出せると思ってるか?

 名前は湯婆婆が奪ったのです。なぜ奪ったかといえば支配するため。手元において使うためでしょう。
 これは契約書に書かれているはずです。契約書にはきっと「辞めるときには雇い主の出したナゾをとかなければならない」とでも書いてあって,そこに名前をかかせてから,名前を奪います。
 絶対にわからないナゾなら,もともと質問にならないし,かといってあっさりわかったならナゾにはなりません。
 きっと名前を奪われた者のみが,『答えられない』ような質問となっているのではないでしょうか。
 推測に推測を重ねてますが,これが千尋が『豚の中に両親はいない』とわかった理由でしょう。自分の名前を取り戻していたからわかったと私は思います。
 ただし両親を解放するという取引は、ハクがしてくれなくてはダメだったでしょう。千尋が名前を取り戻した時点で,契約は解けた(帰り道がわかった)のも同然だったのですが,両親が一緒でなければ意味はありませんからね。

河の神様はなぜ千尋にニガダンゴを与えたのか?

 うーん。そういえばむずかしいですね。川の神様はひもを引っ張って『汚れ物』に落ちた千を助けていますし,自分のトゲへ誘導して抜いてくれるようにうながしてもいます。
 さっぱりとした川の神様が千に感謝したのは間違いありません。
 また,千がふつうは湯屋で働くはずのない人間の子だとわかったのか,あるいは同じような川の神(ハク)のまじないで元気が出ているのかわかったのか? そこらへんはナゾですが可能性はあります。
 好意をもった相手に感謝のしるしとして変なものをあげるわけはないし,神様ですからトンチンカンなものをあげるわけもないでしょう(モーロクしてたら困るけど)

 だから,名前を奪われた(はずの)千の役にたつものをあげたのです。
 ニガダンゴは使い方からして,食べた者の中にある不純なもの,あるいは外から入り込んだものを取り除き,本来の自分をとりもどす効果があるようです。

 あんまんを食べるときに千はニガダンゴを試食?してますが,食べたときはあまりのマズサに悶絶してましたが後味はとてもすっきり爽快としたのでは?。
 あるいは湯婆婆に魔法をかけられて薄らいでいた人間世界の記憶がくっきりとよみがえってきて,効果を実感したのかもしれません。

千尋はどうして父と母ではなくカオナシにニガダンゴを与えたのか。←ハクの時は理由はわかりますが。

 上のレスとも重なりますが,両親にあげようと思ったのは体の中の食べ物をはきださせて人間にもどすためでしょう。
 それから千尋と巨大カオナシとの対決は,もはや危機的状況です。千尋は明らかに「いけにえ」としてたった一人でバケモノと対決します。もっとも千尋はカオナシが本質的には自分に敵対するものだと思ってないので怖くありません。
 でも,カオナシに不純なもの,汚れたものの感触を感じて,それをさっぱりさせれば『自分は食べられない』だろうから先にあげちゃえ。としたのでしょう。

 自分が食べられてはハクも両親も助けられない。それに千尋はカオナシもこのままではなんとなく「かわいそう」だと感じたようにも思えるんです。
 考えすぎでしょうか?

5ハクに「大切なものがすりかわったのに」と言われて真っ先に坊ではなく砂金の方を見て
あとで坊を見たのはなぜか?

 単純に目の前にあったからではないかなーと。安直に考えてました。すみません。

 それにしても湯婆婆が砂金をじっとみて本物かどうか見抜けなかったのは失態でしょうね。どうも湯婆婆は無理をして自分の本来の力を失いかけている(眼力がなくなっている)と考えるのは・・。
 そろそろ推測もオーバランのようなのでここでやめます。

 他の方のご意見はいかがでしょう?


ID710-3 Re: 私はこの先には行けない
2001/11/05 23:03:20 - ts/hp

 花さん、こんばんは。
 勝手な解釈がわいて出たので、おじゃまします。

>最後、千尋とハクが別れる時、ハクは「私は、この先には行けない」
>と言ってましたが、行ったらどうなるんでしょうか?
>またなんで行けないとわかるんですか?

 と、いう質問ですが、ずいぶん迷いました。
 湯屋の世界とこちらの世界は裏返しの世界のような気がします。(特に夜)
 この世では、八百万の神様は実体を持たないけど、あの世界では具体化できます。
 反対に人間は消えてしまうか、別の存在に変えられてしまいます。千尋も何も食べないと消えてしまいそうになりました。(この場面の緊迫感は凄かったねー!)

 と、いうことは、ハクは人間世界では実体が持てないのかもしれません。もてたとしてもトトロのように幼い子供の時にだけ出会えるのでしょう。
 もともと宿っていた川がすでにないのですから、もし強引に戻ると、完全に消えてしまうのかもしれません。埋められた川のそばに小さな祠でも残っていればいいのですが・・。

(ちなみに変身パターンを見ると、ハクの本性は竜型だと思います。知性を必要とするときや、体力にゆとりがある時に、人間型になっていますから。(脱線))

 それにハクも湯婆婆と契約してるはずですから、結界から出られなくても不思議でないです。

(千尋と両親があの世界に入る前、すでにトンネルの赤い門の上に『油屋』の看板がかかっています(恐怖) 車を止めた場所も、すでに湯婆婆の勢力範囲内=結界内です。(再び脱線))

 花さんの前の質問のために勝手にでっちあげた答えで、

http://www1.obi.ne.jp/~hn7y-mur/forum/all5.cgi?ID=698

 というのがあったのですが、名前はとりもどしてもハクはまだ湯婆婆との契約を解除する必要があります。
 名前を取り戻しているから、帰れるとはわかっていても、すぐに千尋と一緒にいくことはできないのは当然です。そして帰っても居場所がないかもしれない。

 でも、ハクは千尋に約束します。
「元の世界に私も戻るよ」「またどこかで会える?」「ウン。きっと」「きっとよ」「きっと。 さあ行きな。振り向かないで」

 どうやってハクは元の世界で千尋に会えるのでしょう。
 銭婆の髪留めが残っていても、千尋は湯屋のこともハクのことも忘れてしまいます。大人になっていきます。
 完全に忘れることはなくても、いつか思いだせることがあるでしょうか。

 
 これ以上は映画の内容から想像はできません。
 宮崎監督にゴメンナサイで創作すると、あの髪留めが『神泊め』の依白(よりしろ)になってくれればいいと思ったりして・・。

 失礼しました−−。


 
 不思議の世界に入るときの描写はとても興味深いです。
 

 荻野一家の車はまず大きな木の前にあるほこらを通過します。
 それから木々に隠れそうですが千尋がはっきりと見ることができた人面石像の前を通過して、赤い門の前に出ます。

 最初に見たときはトンネルを通過してからが不思議の世界だと思っていたのですが、良く見るとトンネルに入る前の赤い門の上にすでに「湯屋」の看板がかかっています。(見にくいので注意)

 それから不思議の世界から帰ってきたときには門の前にあった車止の人面石像はただの石になっていて、赤い門も入るときは違ったものになっています。

 と、いうことは、不思議の世界の結界の中に、大きな木の前のほこらを通過したときすでに入ってしまい、人面石像はマーキング、あるいは監視ポイントとなっているのかもしれません。少なくとも人面石像がある場所は、すでにこの世ではないのです。

 トンネルを通過してからすぐに夜がやってきましたが、もともとこの土地にきた時点で昼食から時間がたっていて、午後かなり遅くと思われます。
(加筆です。この部分は訂正致します。午後かなり遅くというのはサンドイッチを三時ごろの軽食と考えたからですが、フィルムブックをいろいろ見てみると父親の腕時計や,時計台の針などで、トンネルに入ったのは午前11時ごろのようです。異常な日没をもっと重視すべきでした。)

 両親の会話から荻野一家ははじめてこの土地にきた可能性もあります。

 遠くから初めてやってきた旅人が夕方少し前の「逢魔ガ刻」に結界をすり抜けたと考えれば、他に迷い込んだ人がいないのも当然かも。と思います。

 遠くからきた神々のために、夕方少し前の時間にだけ、異世界の扉が開くのでしょう。
 千尋の世界は、呪術的要素がふんだんに盛り込まれているようです。


 

 

 ハクが飛ばしたもの

 ハクが飛ばしたものは絵コンテによるとウロコらしいです。

 この行為にどんな意味があるのかなーというのは映画みた人すべてが感じる疑問でしょうが,私の解釈を書いて見ます。

 まず,ハクが橋の上にいたのはなぜかです。
 ハクは,たったいま湯屋から出てきた様子でした。普通昼間には湯屋関係者は、外にはでないはずなのになぜハクがいたのか。これは千尋の両親が湯婆婆に豚にされたのを豚舎に引っ張っていって押し込める後始末するためだと思います。

 普通の従業員には荷が重い仕事ですが,弟子であるハクにはできるということでしょう。でも,つかいっぱしりのような仕事でアゴで使われているわけです。


 そして千尋を逃がしたあと,自分のウロコを飛ばすのですが,そのしぐさから『孫悟空』の分身の術のようなものを使ったのではないでしょうか。

 なにをくい止めるのかと言えば湯屋からの追加部隊が逃げた千尋を捕まえるため出てくるのを防ぐためでしょう。

 後から湯バードが上空から追跡していますが,見えないところで地上部隊が出られなかったと考えれば湯バード出動の意味がわかりますから。

 夜をくいとめるのはいくらなんでもちょっと無理でしょうし,めくらましで昼のように見せかけるとしてもおおがかりであからさますぎて,ハクが後から追求されそうです。

 だから、ハクはウロコを飛ばして神様たちに見せかけて、橋のたもとなどにうろうろさせて接客を優先させようとしたのではないかと勝手に思ってます。


ID715-3 Re: かわいい千尋の行動
2001/11/09 05:11:26 - ts/hp

みなさんの意見にどれも賛成

千尋の表情、演技はとてもいいですね。
声も柊さんが実年齢で、とってもリアルに聞こえるし。
全編にわたって拍手したいです。

私が可愛いと思ったのは

1 新しい学校を見て舌を出すところ。(ジブリヒロインとは思えんところがイイ)
2 がたがたゆれる車の中で目を丸くしているところ。
3 トンネルを抜けて「もう帰ろうよ ねえー」と伸び上がっていうところ。
4 釜爺をみておののき震えてあとずさりするところ。(妖怪だああ)
5 花の間を通りぬけるところ。(わざとらしいCGは失敗ではなく、あえて幻想的にしてるのです)
6 オクサレさまから代金をうけとるところはもちろん、ルアーを引き抜いた直後水のうずまきにつつまれて千尋が洗われるシーン。(川の神からの「洗礼」になるのかな? 呆然とした表情に注目)
7 廊下でカオナシに「いらない」という表情。(直後のカオナシの表情もカワイイ?!)

 ・・すでに多すぎますね。でも最後まで。

8 帰る電車がないといわれて「歩いてくるからいい」というところ。ここで強い意思がでてます。画面上じゃあ、変化ないけど、千尋の目が輝いているように錯覚しました(なんで? 愛じゃよ愛!)
9 巨大カオナシとの対決場面はカッコよすぎるけど、湯婆婆に背中押されて後ろでピシャリとふすまを閉められるところ。とまどったような、むむむの表情。
10 髪留めの場面、到着したハク竜の鼻づらに顔を埋めるところ、空中でのおでここっつんはもちろんいいですね。
11 小さくて見にくかったけど、大当たりの歓声に「みんなありがとう」そして「お世話になりました」の時の、解放されたほがらかな笑顔。千尋の笑顔と言うのは少ないから貴重。

12 番外で、ロマンブックのキャラクター設定にあった目をつりあげてイーとやっている千尋。
 あれが最高に楽しかった。

 カワイイというのじゃなくて、印象に残った表情は他のキャラも含めて多数ありますが、際限ないので、これにて失礼いたします・・


ID790-3 Re: 『もののけ姫』論を書きました
2001/10/25 00:04:15 - ts/hp

 いまさらながらのレスですが・・。

 千と千尋を見て、もののけ姫に輪をかけたストーリー上の混乱に「?」ときて、それから「トトロ」を最近偶然に見たことできまぐれで書き込みします。(10年ぶり)

 それにしても「トトロ」の完成度がこれほど高かったとは思わなかった。ほぼいうことなし。
 トトロの完成度の高さとは、背後に構築された驚異的構造です。

 昔読んだ雑誌ポップカルチャークリティークでの清水美行氏の「トトロ論」は秀抜でした。
 二人の少女の「異世界」との出会いは、不安や喪失感などで押しつぶされそうな現実に、少女たちが得た現実の印象断片と願望と大人の語ったわずかな情報によって空想された世界が、トトロやネコバスとの出会いだったとしています。

 なるほどです。確かにすべてが不安をのりこえるため、子供が頭の中で産み出したファンタジーであってもおかしくない構造になっています。
 トトロのエンディングは、メイが見つからないというパニックの中で産み出された、サツキの幻想だと考えるのがもっとも妥当なのです。現実にメイとサツキが病院にまでいけたら、二人が母親に会わないはずがないのですから。
 結局、いまだメイは見つかっていないし、探すつもりで実は不安であてどなく走り回り、草むらかどこかの軒下で、疲れきって眠っているサツキは夢の中でネコバスに乗っているのです。メイとトトロの最初の出会いで、結局メイはなんの変哲もない地面で眠っていたようにです。
 いいかえれば恐ろしいほどつきはなした、希望のない映画としてトトロは見ることさえできます。

 明るい歌にはさまれた現代のおとぎ話を意図的に作ってしまった監督の心境はどうだったのでしょう。(正統なおとぎ話はかならず毒や陰をもっているものです)

 「もののけ」は「トトロ」をはるかにしのぐ徹底的な多重構造を持っています。くわしくはhttp://www.ne.jp/asahi/ts/hp/file1/file1013_mononoke2.html(現在無効) で書いています。

 「千と千尋」はもってまわった構造は採用しませんが、美術的パワーやイメージのとどまるところを知らない展開は驚異的ですし、演技の凄さは圧巻です。
 宮崎監督がトトロのような完成度は追求しなくなったのが「もののけ」からの特徴で、「千と千尋」の二作で、映画という総合芸術の中で二つの高峰を形成している。

 私は「トトロ」も「もののけ」も「千と千尋」も失敗だとは思わない。


「2001年宇宙の旅」(古い)なみの傑作!
投稿者: 2001年10月18日 午前 5時41分

採点:

 2ヶ月ぶりで、2回目見てきました
 最初見たときは「?」でしたが、時間がたって効いてきました。いやーすごい。
 宮崎監督の最高傑作でしょう。
「もののけ」から作風が変わって、観客へのサービスは忘れないまでも再優先とせずに、自分の中身を出してますなあ。
「2001年宇宙の旅」も公開当時は「よくわからん」「支離滅裂」とさんざん言われましたがヒットしましたし、内容理解もやがて観客の方がおいついてきました。
 この映画は既成概念で見れば凡作に見えなくもないですが、子供になったつもりで「右脳」で見てみると感動です。


メッセージ: 2348 / 2348



11/10 YAHOO映画レビュー投稿

 日比谷DLPで2回目を見てきました。
 7月に見て疑問点が山ほどでましたが、絵コンテまでチェックしてようやく理解できた点が多々ありました。

 一言でいってこの映画は感性で見るなら初めから納得できますが、映画の形式とか起承転結にこだわると、一度見ただけでは絶対に理解できない構造になっています。

 いろいろ批判がありますが、映画が終わってから、逆算してすべての描写を再解釈しないと製作者の意図は絶対にわかりません。

 極めて綿密に組立てられた壮大なパズルなのですから、たかがアニメと思って、自分の批評能力を過信してはいけません。思わぬ恥をかくことになります。
 アニメという既成概念ではなく総合芸術として捉えるべき作品でした。

 物語を解明しようとしてリピータが多くなるわけです。




 

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2002/1/13投稿

「今後の宮崎作品に期待するもの」へのレス

 人の感じ方はいろいろだと思います。
 宮崎監督がつくりたいと思って作ったものを、たとえ誰一人評価しなくたってご本人が満足ならそれでいいという極論もできます。
 確かに既成概念にすりよった「ウケ狙いのよくわかりやすい映画」としては「千と千尋の神隠し」も「もののけ姫」も失格でしょう。
 監督自身がそんなものに価値を認めていないからです。もともと狙っていないのですから、両作品とも失敗ではありません。

 私個人の感想としては「千と千尋」は宮崎作品での最高傑作、「もののけ」は次点ではないかと思います。むしろ「ナウシカ」は娯楽としても総合芸術としても落第スレスレです。(監督自身が65点といっています)
 封切りで見たとき映画としてはまあまあだが,メッセージ的(環境にせよ,宗教性にせよ)には「こりゃまずい」と、とても落胆したのを覚えています。

 宮崎監督は「魔女」までは観客にすりよった『商業作品』を作っていました。その完成度はいまさら言うまでもないでしょう。「カリオストロ」と「魔女」はほぼ完璧です。でもそれ以降、自分の作りたいものを素直に作るという意志をはっきりと打ち出しています。

 もちろん観客への配慮(メッセージ)や,単純娯楽(サービス)を放棄したわけではないですが,作家性を最優先しているのです。
 「紅の豚」は興行的には成功し作家的には失敗した作品ですが,作家性のもっとも強い「もののけ」はそれまでの宮崎作品から完全に一歩突き抜けた存在です。(ちなみに「ナウシカ」も作家性の強い作品です。これも映画としては成功ですが作家としては失敗作でしょう。コケタのが立ち直れたのが「トトロ」です。トトロは重層構造を初めて使用したすばらしい作品でした。)

 「もののけ」は非常に考え抜かれた多重構造をもっていて、表面をなぞっただけでは多くの部分の理解が抜けてしまいます。観客に挑戦しているわけです。
 この映画がすごいのは『ご親切に説明されてはいないがちゃんとパーツはそろっていて,見た観客があとからパーツをつなぎ合わせて,秘められたメッセージなりストーリーを再解釈して発見可能』な点です。ですから見てもすぐに理解できません。
 「千尋」は多重構造としては一歩引いたかわりに,世界観や演技では過去最高で、娯楽的にもバランスをとって,深いメッセージの発信にも成功しているというとんでもない作品だったと思います。荒っぽい点はいくらかあると思いますが、私は好きです。感動した。

 私は『計算された感動を押し付けられる』のは好きではありませんから(さあ泣け!とか),そんな作品を作ったらかえって心が冷ややかになり、見なくなるでしょう。
 それから進歩のための進歩など自己中毒の一歩手前でしょうから「なんとかのタメ」などという「タメ」の映画も見たくないです。
 人の好みはそれぞれだと思いますよ。なんにも考えないで素直に次回作をワクワクしてます。

 

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