最初に投稿した内容 『千と千尋』は宮崎さんの最高傑作だと思います。 宮崎キャラの美形キャラに少々困っていたボクにとって、千尋のベーと舌をだす場面は喝采です。 |
『いつも何度でも』の勝手な自作歌詞
出口ない 日々の 上にひらく
青い空に のぞみ にじんでゆく
生きていくままに 過ぎる時間に
なにも変わらぬ うちに 変わってく
くだけた夢 だきしめ ふりむき そこに
知らなかった 意味が 見える
さだめつき 地にふす日 だれか はるかに
解き 放たれ 空を かけゆく
悲しみのなかに きえないもの
終わりゆく時間 開かれる思い
最後まで 今は 見えないけれど
やがて みんなに 出会って わかる
ぼくと すべてが いかされていく
私の結論から先に書きたい。 斎藤環氏による,「宮崎監督が○○○ァ○○である」という主張は納得できない。 宮崎監督はそのどれにも該当しないのは明かであって,なぜこのような表現の対象となるのか私には理解できない。侮辱とうけとられてもしかたなかろう。むしろこれは宮崎監督にではなく,この評論を書いた斎藤環氏に問題があるのではと思いたくなる。 繰り返すが,斎藤氏は断定している。 私は宮崎監督が斎藤氏に指摘されるような方向性を多くとっているのはエンターテイメントとしての営業的配慮が大きいからだと判断している。 これ以上は斎藤氏があの批評を書いた動機と責任に対しての言及はしない。どう考えても低レベルの雑言に近くなるからだ。
2001/8/31 ts.hp@net.email.ne.jp |
毛利さんの掲示板。その他への投稿です ID698-1 Re: 千と千尋のなぜ?どうして? 『千と千尋の神隠し』はいい映画ですね。傑作中の傑作です。 1湯婆婆は本当はいい魔女なのか悪い魔女なのか? 湯婆婆はどこにでもいる普通の強欲おばさんです。そうでない人の方が少ないはずです。けっして悪い人(魔女)ではないと思いますよ。 2なぜハクは名前を忘れたら帰り道がわからなくなると思ってるか? 名前は湯婆婆が奪ったのです。なぜ奪ったかといえば支配するため。手元において使うためでしょう。 うーん。そういえばむずかしいですね。川の神様はひもを引っ張って『汚れ物』に落ちた千を助けていますし,自分のトゲへ誘導して抜いてくれるようにうながしてもいます。 だから,名前を奪われた(はずの)千の役にたつものをあげたのです。 あんまんを食べるときに千はニガダンゴを試食?してますが,食べたときはあまりのマズサに悶絶してましたが後味はとてもすっきり爽快としたのでは?。 4千尋はどうして父と母ではなくカオナシにニガダンゴを与えたのか。←ハクの時は理由はわかりますが。 上のレスとも重なりますが,両親にあげようと思ったのは体の中の食べ物をはきださせて人間にもどすためでしょう。 自分が食べられてはハクも両親も助けられない。それに千尋はカオナシもこのままではなんとなく「かわいそう」だと感じたようにも思えるんです。 5ハクに「大切なものがすりかわったのに」と言われて真っ先に坊ではなく砂金の方を見て 単純に目の前にあったからではないかなーと。安直に考えてました。すみません。 それにしても湯婆婆が砂金をじっとみて本物かどうか見抜けなかったのは失態でしょうね。どうも湯婆婆は無理をして自分の本来の力を失いかけている(眼力がなくなっている)と考えるのは・・。 他の方のご意見はいかがでしょう? ID710-3 Re: 私はこの先には行けない 花さん、こんばんは。 >最後、千尋とハクが別れる時、ハクは「私は、この先には行けない」 と、いう質問ですが、ずいぶん迷いました。 と、いうことは、ハクは人間世界では実体が持てないのかもしれません。もてたとしてもトトロのように幼い子供の時にだけ出会えるのでしょう。 (ちなみに変身パターンを見ると、ハクの本性は竜型だと思います。知性を必要とするときや、体力にゆとりがある時に、人間型になっていますから。(脱線)) それにハクも湯婆婆と契約してるはずですから、結界から出られなくても不思議でないです。 (千尋と両親があの世界に入る前、すでにトンネルの赤い門の上に『油屋』の看板がかかっています(恐怖) 車を止めた場所も、すでに湯婆婆の勢力範囲内=結界内です。(再び脱線)) 花さんの前の質問のために勝手にでっちあげた答えで、 http://www1.obi.ne.jp/~hn7y-mur/forum/all5.cgi?ID=698 というのがあったのですが、名前はとりもどしてもハクはまだ湯婆婆との契約を解除する必要があります。 でも、ハクは千尋に約束します。 どうやってハクは元の世界で千尋に会えるのでしょう。 失礼しました−−。 荻野一家の車はまず大きな木の前にあるほこらを通過します。 最初に見たときはトンネルを通過してからが不思議の世界だと思っていたのですが、良く見るとトンネルに入る前の赤い門の上にすでに「湯屋」の看板がかかっています。(見にくいので注意) それから不思議の世界から帰ってきたときには門の前にあった車止の人面石像はただの石になっていて、赤い門も入るときは違ったものになっています。 と、いうことは、不思議の世界の結界の中に、大きな木の前のほこらを通過したときすでに入ってしまい、人面石像はマーキング、あるいは監視ポイントとなっているのかもしれません。少なくとも人面石像がある場所は、すでにこの世ではないのです。 トンネルを通過してからすぐに夜がやってきましたが、もともとこの土地にきた時点で昼食から時間がたっていて、午後かなり遅くと思われます。 遠くから初めてやってきた旅人が夕方少し前の「逢魔ガ刻」に結界をすり抜けたと考えれば、他に迷い込んだ人がいないのも当然かも。と思います。 遠くからきた神々のために、夕方少し前の時間にだけ、異世界の扉が開くのでしょう。
ハクが飛ばしたもの ハクが飛ばしたものは絵コンテによるとウロコらしいです。 この行為にどんな意味があるのかなーというのは映画みた人すべてが感じる疑問でしょうが,私の解釈を書いて見ます。 まず,ハクが橋の上にいたのはなぜかです。
なにをくい止めるのかと言えば湯屋からの追加部隊が逃げた千尋を捕まえるため出てくるのを防ぐためでしょう。 夜をくいとめるのはいくらなんでもちょっと無理でしょうし,めくらましで昼のように見せかけるとしてもおおがかりであからさますぎて,ハクが後から追求されそうです。 だから、ハクはウロコを飛ばして神様たちに見せかけて、橋のたもとなどにうろうろさせて接客を優先させようとしたのではないかと勝手に思ってます。 ID715-3 Re: かわいい千尋の行動 みなさんの意見にどれも賛成 千尋の表情、演技はとてもいいですね。 私が可愛いと思ったのは 1 新しい学校を見て舌を出すところ。(ジブリヒロインとは思えんところがイイ) ・・すでに多すぎますね。でも最後まで。 8 帰る電車がないといわれて「歩いてくるからいい」というところ。ここで強い意思がでてます。画面上じゃあ、変化ないけど、千尋の目が輝いているように錯覚しました(なんで? 愛じゃよ愛!) 12 番外で、ロマンブックのキャラクター設定にあった目をつりあげてイーとやっている千尋。 カワイイというのじゃなくて、印象に残った表情は他のキャラも含めて多数ありますが、際限ないので、これにて失礼いたします・・ ID790-3 Re: 『もののけ姫』論を書きました いまさらながらのレスですが・・。 千と千尋を見て、もののけ姫に輪をかけたストーリー上の混乱に「?」ときて、それから「トトロ」を最近偶然に見たことできまぐれで書き込みします。(10年ぶり) それにしても「トトロ」の完成度がこれほど高かったとは思わなかった。ほぼいうことなし。 昔読んだ雑誌ポップカルチャークリティークでの清水美行氏の「トトロ論」は秀抜でした。 なるほどです。確かにすべてが不安をのりこえるため、子供が頭の中で産み出したファンタジーであってもおかしくない構造になっています。 明るい歌にはさまれた現代のおとぎ話を意図的に作ってしまった監督の心境はどうだったのでしょう。(正統なおとぎ話はかならず毒や陰をもっているものです) 「もののけ」は「トトロ」をはるかにしのぐ徹底的な多重構造を持っています。くわしくはhttp://www.ne.jp/asahi/ts/hp/file1/file1013_mononoke2.html(現在無効) で書いています。 「千と千尋」はもってまわった構造は採用しませんが、美術的パワーやイメージのとどまるところを知らない展開は驚異的ですし、演技の凄さは圧巻です。 私は「トトロ」も「もののけ」も「千と千尋」も失敗だとは思わない。 「2001年宇宙の旅」(古い)なみの傑作! 採点: 2ヶ月ぶりで、2回目見てきました
11/10 YAHOO映画レビュー投稿 日比谷DLPで2回目を見てきました。 一言でいってこの映画は感性で見るなら初めから納得できますが、映画の形式とか起承転結にこだわると、一度見ただけでは絶対に理解できない構造になっています。 いろいろ批判がありますが、映画が終わってから、逆算してすべての描写を再解釈しないと製作者の意図は絶対にわかりません。 極めて綿密に組立てられた壮大なパズルなのですから、たかがアニメと思って、自分の批評能力を過信してはいけません。思わぬ恥をかくことになります。 物語を解明しようとしてリピータが多くなるわけです。
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2002/1/13投稿 人の感じ方はいろいろだと思います。 私個人の感想としては「千と千尋」は宮崎作品での最高傑作、「もののけ」は次点ではないかと思います。むしろ「ナウシカ」は娯楽としても総合芸術としても落第スレスレです。(監督自身が65点といっています) 宮崎監督は「魔女」までは観客にすりよった『商業作品』を作っていました。その完成度はいまさら言うまでもないでしょう。「カリオストロ」と「魔女」はほぼ完璧です。でもそれ以降、自分の作りたいものを素直に作るという意志をはっきりと打ち出しています。 もちろん観客への配慮(メッセージ)や,単純娯楽(サービス)を放棄したわけではないですが,作家性を最優先しているのです。 「もののけ」は非常に考え抜かれた多重構造をもっていて、表面をなぞっただけでは多くの部分の理解が抜けてしまいます。観客に挑戦しているわけです。 私は『計算された感動を押し付けられる』のは好きではありませんから(さあ泣け!とか),そんな作品を作ったらかえって心が冷ややかになり、見なくなるでしょう。 ts.hp@net.email.ne.jp |