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『エリ・エリ』について

・ ・第一回小松左京賞受賞作(2000年9月発表)

 平谷美樹(ひらやよしき)
 角川春樹事務所刊『エリエリ』に対する評論

作品のあらすじ

 21世紀中頃,自らの信仰心に懐疑を抱く神父・榊和人は,「神を論理的に解釈することがカトリックの衰退を押しとどめる」とする論文を教皇庁で評価されるが,巡礼先のエルサレムでテロにあって死に瀕する。彼の脳はバチカンにより木星にある地球外生命探査線ホメロスIに送られ「神を探すセンサー」としてコンピュータに組み込まれる。だが出発まぎわに,異星人の船が太陽系内を通過するのがわかる。人類側は異星人の意図が不明なままあらゆる方法でコンタクトを試みるが失敗。榊をのせた船は異星船を追って,神を探す果てしない旅へと出発する。
 「エリ・エリ」とは,イエス・キリストが十字架上で叫んだ「我が神,我が神,なんぞ我を見捨てたまいし?」を意味している。

 総評

 抑制のきいた文章。巧みな構成。現代科学の情報を充分におりこんだ堂々たる作品である。
 また,私は現地に足を運んだことがあるのだが,エルサレムの描写はかつて自分が歩いた光景が再現できるくらいに書き込まれ,実際に取材にいったのかと思わせるほどである。作者の力量は,一級品である。
 ただ,作品自体は日本国内で通用はしても,国際的に評価されることはあるまい。
 日本人が一神教を扱う難しさは,なかなか克服できないことを改めて実感した。
 この作品のテーマ,前提は「あらゆる宗教は急速に衰え,人類は共同幻想としての宗教を必要としなくなった」時代に突入したというものだ。
 日本人なら同じようなことを感じていた人は多かろうが,実際にはっきりと設定に使ったのは目新しいように思える。いかにも我々らしい発想であり,同時にこれがこの作品の限界になっている。
 この問題は宗教の発生当時から存在している。
 宗教への懐疑は健全な理性の機能の一つであろう。
 だから一神教宗教がこれほど長く続いてきて,この問題が宗教側から解決されていないと思うのは少々勇み足であろう。残念である。(宗教はなくなることはないであろう。)
 この一文は残念ながら平谷氏にとっては,手厳しいものになってしまったが,平谷氏の力量は疑い様もなく一流である。
 問題点は平谷氏だけのものではなく,一種,我々の民族の構造に由来するものなのだ。
 このような批評を試みるつもりになったのも,『エリ・エリ』が非常に高い水準にあり,かつエンターテイメント性も十分にあるがゆえに瑕疵がかえってめだってしまうからだ。
 凡百の駄作なら,黙殺すればすむ。
 作者は『エリ・エリ2』にとりかかっているとのことだが,私は平谷氏の努力に対して胸が痛んでいる。

 問題点その1

 根本的な問題点のひとつは,宗教とは信じなければ偽善以外の何物でもないことがはっきりと書かれていないことだ。
 なぜ,信仰の揺らいだ神父が神父をしていられるのか。それは,明白に詐欺行為である。
 日本人の多くは,「本当に信仰をもっている。神は実在している」とホンキで信じる人を見ると衝撃をうける。
 まさか本心からこんなデタラメな伝説(…死人が生き返るだの,生まれ変わりがあるだの,海が真っ二つに割れるだの)を信じている(バカな)人間が存在するのか? と,感じるのが普通であろう。
 信仰を持っている人が知的で分別があり,どこからみても尊敬できる人物である場合はなおさらそうだ。
 もし,信仰を持つ人が迷信にこりかたまった,心の弱い人間であるなら,許容できるであろうが,そうでない場合は理解不能となる。
 だが,ここで理解不能となる日本人を,欧米人や多くの一神教徒は,かえってわからなくなる。
 神や仏の存在を『自明の理』としなくては,どうして宗教的指導者なる存在があるのだろう。
 信仰の揺らいだ神父や牧師,戒律を無視する僧侶など,存在自体が矛盾している。
 それらは,自分が導く信徒に対してはもとより,もし神なり仏がいたなら裏切者でしかないと考える方が正論であろう。
 目先の体面や生活上の都合や,過去からの精神的なしがらみ,惰性で信じてもいないのに信仰があるふりをしているのは,堕落であるのはもちろん,虚偽の人生であって,一見平穏無事で,豊かな生活であっても,実は唾棄すべき恐るべき状態にあるのであり,そんなものは無価値な人生と信仰者は考える。彼らにはこんな無規範(アノミー)の状態は,長くは続けられまい。
 そして信仰,信念,確信をもって「神に仕える人間」はアンニョイな状態とは無縁で,果てしなくエネルギッシュなのだ。
(日本では,金儲けや世襲のための宗教家の方が大多数であろう。すんなりと「あれはあれ,これはこれ」が通用してしまい,我々日本人はそれで平気である。これを欧米人は驚くべき鈍感としてとらえてしまい,少なくとも好意はもたない。)
 作品の中に,カトリックの男性信者が唐突に自殺する場面がある。
 これまで教会の信徒の中心となって働いてきた男性信者の拒否(自殺)は主人公の榊神父に衝撃をあたえる。
 この場面は実に日本的である。どう考えてもこのエピソードは日本でしか起こりそうにないし,日本人読者にしか共感も得られまい。
 ある特定の信仰はたいてい「わが身の可愛さ」との相対的なものであって,それを失ったからといって,自殺の動機には,なかなかならないからだ。
 信仰,信念,確信,真実,思想を守るために,人は死ぬことはあっても,信仰から逃げるために死ぬことは難しい。
 むしろこの場合,内面的信仰が別にあって,それを守るために外面的信仰を否定し,その結果として自殺することはありうる。
 男性信者の自殺はこの点で『正当な宗教観』からは理解しにくい。彼はなぜ死んだのか。
 普通,信仰から逃げたいなら逃げればいいだけなのである。
 ナチスや十字軍やロシアの皇帝(ツアー)など,例に困ることがないほど多くが失敗したように,強制改宗はどの時代でもどの場所でもうまく行かない。
 信仰は押し付けられないし,逃げ出すものには無力である。
 作者がキリスト教カトリックを取り上げたのは強力な力を持っていそうなバチカンを出したいためと,理知的に見えやすいキリスト教プロテスタントにくらべて一見,隙の多い点があるからかもしれない。
 カトリックは西欧の土着的要素がつよく,従って日本人には教義もあいまいに見えて,科学的に拒否しやすいように見える。
 だが,自殺した男性信者が榊神父にサクラメントの終油(キリスト教徒としての救済儀礼)を拒否する情景は,実はこれまでも日本では当たり前にみられる光景であって,これはもともと日本人にキリスト教的論理体系がなじんでいないことを示すだけだ。目新しいことではない。
 同様のことが世界中でおきるだろうと考える仮定は,あまりに日本的で作品にとってマイナスであろう。
 さて『エリ・エリ』の作者はキリスト者としての信仰をもっていないというのは,作品に対するインタビューで答えているのだが,では作者はなにを信じているのか。
 実は作者自身自覚していまいが,彼は伝統的日本教徒なのである。
 「日本教」とはベンダサンが発見し,小室直樹氏が体系化した日本人の内面にある伝統的価値体系,思想体系である。
 これまで外部に説明できる明確な形で抽出されたことがなかったため,一種,見えざる宗教として,全体を捉えるのが非常に難しい,世界的にも特異な「宗教」なのだ。
 日本人自身がほとんど自覚していないから困ってしまうのだが,日本人はほとんど――おそらく99.9%。もしくはそれ以上――が,自らの信仰に疑いすらもたない日本教徒である。
(こう断言してしまうと不信をいだく方もおいででしょうが,興味をもたれた方には『日本教の社会学』(1981年講談社刊)をお勧めします)
 日本人の約一パーセントはキリスト教徒といわれるが,主観的にはキリスト教徒であってもなかなかキリスト教的に生きられるわけではない。
 無意識のうちに,必ず日本教の影響を強くうけるのである。日本人は厳密な意味でキリスト教社会に住んだり,キリスト教をはじめとする一神教を理解するのは至難の技であろう。
 作品中の男性信者の自殺は,『隠れ日本教徒』が外来のキリスト教に愛想をつかして,本来の自分の信念,信仰に殉じたと見れば,すんなり理解可能となる。作者は期せずして,そのような描写をしてしまっている。

 問題点その2

 それからSFを描くときに・・と,いうか科学・学問としての当然のチャックポイントであるのだが,過去の思想を現代の概念に当てはめて,新しく解釈しなおすことは非常に危険であるという認識が希薄だということである。
 ステラの定常波はまだいいとして,作品の最後に出てくる「宇宙にみちるブッタの真言」とか,ヨハネ福音書冒頭の「初めに言葉あり」の言葉を科学的概念としてとらえるのは,飛躍のしすぎである。
 これらの非常に古い言葉は,その言葉の語られた当時の概念や社会情勢を当然に前提としているわけであって,筆記者が現代の科学的知識や概念をもっていたわけではないのはあたりまえである。
 また,現代人には当時の人が合理的であり,究極だと思った短い言葉の本当の意味をとらえにくくなっているのも当然である。
 古典は理解しがたいのがあたりまえであって,それを読んだなりに,現代の常識を使って解釈することは誤読以外の何物でもない。
 従って,古典から,特に異文化の古典から,断片的な概念なり言葉を借用することは「トンデモ本」への道をまっしぐらに進む危険性が非常に強い。
 わかりやすい例をあげるなら,朱子学の陰陽にもとずく世界観を,現代物理学的世界観にあてはめるのは,両者をよく知る研究者ならだれでもかられる誘惑であるが,現実問題15世紀に生きていた朱子が量子力学を知っていたわけはないのであって,儒教の用語を使って現代的世界観を語るのは誤りであることは言うまでもない。
 それはしょせん儒教用語の誤った使い方であって,儒教的世界観をかえって理解できないものにしてしまい,できあがった世界観はグロテスクなものとならざるをえない。
 平谷氏は断定をさけて,かろうじてトンデモは回避しておられるが,この危険性を充分に認識しているかというと,少々疑問があるといわざるをえない。
 「我が神,我が神,なんぞ我を見捨てたまいし?」の言葉も,当時の社会常識,社会状況とイエス個人のパーソナリティを充分に把握し,なおかつそれを記録した記録者,それを伝えた二千年前の原始キリスト教会の内部の状況をも考慮にいれて,ようやく本来の意図がおぼろげに見えてくるのである。
 一見,神を否定したこの言葉を,はたしてイエス自身が叫んだのかすら,実はあいまいである。
 言葉自体は強烈であるから,ついつい印象に残って,現代的解釈で(日本的な解釈で)一人歩きしてしまうが,それですむなら苦労はない。
 この言葉を収録した新約聖書の福音書は,宣教のための特異な文学である。
 いわばフィクションであって,正確で客観的な記録ではない。
 もちろん記述の背後に,実際の出来事はあったに違いないが,福音書自体が宣教のためにあることは疑いようもない。
 したがって十字架上でイエス自身が行った神の否定は,後におこるイエスの復活による神自身からの「そんなことはない」という回答の前振りにすぎない。
 日本教徒は自らの宗教的心情「絶対の神などいない」にぴたりとはまるから「我が神,我が神,なんぞ我を見捨てたまいし?」はついつい注目してしまいがちだが,そのすぐ後にくる復活は,意識的にも無意識的にも「目をそむけて」しまう。
 いわば福音書の「前菜」を食べて,メインを「まずい」といって食べないようなものだ。
 異文化の理解とは,まったくもって並大抵のことではない。私ももちろん,他人事ではないのである。

 問題点その3

 平谷氏の前作は『エンディミオン エンディミオン』である。
 この作品の内容解説は省略するが,エリ・エリの前哨となるテーマの作品であり,ここで作者は「神を殺した」はずである。
 もはや人間の心には「神聖」なる神は存在せず,ただ物質とエネルギーの物理的宇宙が茫漠と広がっているはずではなかったのだろうか? なぜ,『エリ・エリ』で神を探さねばならないのだろう。
 それで見つかる神は,殺したはずの,人間が必要とする精神の認識上の神にすぎないのではなかろうか。
 新たに見つける神と,古代人が合理的に科学的に,当時の知識で納得できる形で作り上げた神々を比べたら,時間と洗練さと知識の差はあれ,本質は同一ではないのか?
 結局,人間が見つけられる神,あがめられる神,殺せる神は神ではない。それは単なる人間のオモチャであり,フェティシズムの汚い対象であろう。
 だが,人間が作ったものでない,究極点としての実在の神を自己の知識,能力,究極の限界の外にある,世界の本質として想定するなら話は違ってくる。
 それは科学でもある意味では同じ所があるのだが,主観的でなければ客観性をもてるという当たり前の現象である。
 主観はどこまでいっても主観であろう。
 主観はいわば自らの頭の中に描いたパーチャルなものである。
 主観は人それぞれの頭の中にある知識や能力で結果が違ってくる。
 データ量でモデルに優劣が出来てしまうのだ。
 しかし,客観的な究極点をめざすなら,知識,能力の違いは問題とならなくなる。
 結果や,成果は違ってこようがベクトルは同じなのだから,どちらが優れているとはいえなくなってしまう。
 ここに古代の「教祖」「始祖」が宗教上の権威として,いつまでも尊重されるポイントがある。
 過去の偉大な科学者の成果は,いまでは中学生の学ぶような初歩にすぎなくなっても,その科学者自身が中学生なみの未熟な人物として評価されるわけではないのと同じである。

 『エンディミオン エンディミオン』では従来の神は,人間の潜在願望のエネルギーが未知の自然法則によって具象化,現実化したものとしている。つまり神の力の源泉は人間のむやみやたらと信じる心にあるとしている。
 だから,神は従であり,人は主である。こんな神は,はじめから神ではあるまい。単なるオバケだ。
 オバケなら光を当てれば消えもしよう。だが,神とはもともと,人間とは無関係の他者であり,人間や宇宙の方こそ,神のオモチャであるような関係を想定されている。
 人間の主観的自尊心からいえば,とんでもない存在であり,神のオモチャや奴隷として扱われるなどまっぴらごめんといいたがるのも当然の感情であろう。
 だが,実際に「神」がいたならどうなるのだろう。
 反抗する奴隷がどうなるか。
 反抗して負けた奴隷がどうなるか。
 現実問題として考えていただきたい。

 あなたがカリギュラやネロのような狂気(凶器?)のローマ皇帝(のごとき絶対者)のドレイのひとりであったらどうだろう。
 そして皇帝その人の前に立って(これにくらべたらヒットラーなど文化的で可愛いものだ)「皇帝などただの人間だ,そんなもの必要ない,廃止してしまえ」と言えば,たちどころにズタズタにされるであろう。だから誰もそんなことは言えまい。あまりに恐ろしすぎるから。
 地上の人間の暴君は「死」という支配力をもっていた。(今も持っているであろう)
 恐怖で権力をにぎっていた。
 「死」さえ握っていれば,すべての人間を奴隷にできた。
 この恐怖に立ち向かうにはどうしたらいいのだろう。
 主観が絶対なら「死」の恐怖に,おそらく勝てはしまい。
 なぜなら,死んだら自分がなくなってしまうからだ。なくなってしまうものに絶対的価値をおいては,「死」という「世界の終わり」には耐えられない。
 暴君に対抗するもっとも一般的な方法は,暴君以上の力をもって,暴君に「死」を与えることである。つまり「死」という権力を暴君と争奪戦をやって,暴君の力よりも大きな暴力で相手の手から権力をむしりとることだ。これは毛沢東の「革命は銃口から生まれる」の真意である。
 だけど,そうやって暴君を倒しても,倒したものが新たな暴君になるなら,下層の人間はドレイのままである。
 ドレイたちは,相変わらずヒーコラヒーコラいいながら新たな暴君の顔色をうかがって,いつの日か自分が権力をにぎることを夢見るのだ。
 かつて旧暴君を倒し,自分を現在踏みつけている新暴君が,自分の足元に土下座して命乞いするのを冷笑をもって見,おもむろにひねりつぶすのを想像してわくわくするのだろう。新々暴君の誕生である。
 人間の考える神は,暴君に似ている。
 それは人間そのものであり,はったりで権力をにぎり,人を惑わし,冷酷である。
 そして,やがては消え去る。そんなものには価値はなかろう。
 しょせんは,終わりなき人間の自意識の投影であり,自画像でしかない。
 人間の作った古い神々をひねりつぶしたとしても,科学的根拠とやらを身にまとった新しい「神」を人間が勝手に作ってしまえば,そこに進歩などひとかけらもあるまい。
 『エリ・エリ』の最後で榊牧師は『神』の存在を具体的に知覚しかけるが,知覚した瞬間,それは偶像に変わってしまう。
 そのへんに,実は人類はとっくの昔に気がついていた。
 少なくとも古代ローマがキリスト教化した西暦392年には。あるいは,モーセが出エジプトした紀元前1230年頃には。である。ギリシャの古き神々は,その時にもう死んでいる。
 人類のセントラルドグマからは主観的な神々は,はるか昔に死んだのだ。いまさら『エンディミオン エンディミオン』で再度死ぬ必要はないし,『エリ・エリ』で再生する必要もない。近代現代の「神の死の神学」も結局は,それらを補強するものである。
 だから,もし死ぬ必要のある神々がいるとしたら,それは作者の信じている神々。つまり,セントラルドグマと対立する,別系統ドグマの日本土着の八百万の神々ではなかろうか・・?
 『エンディミオン エンディミオン』が欧米を舞台にして描かれたのは,わざと日本を描写しないためではなかろうか?(ここで私はちょっと恐くなってしまった。)

 そして暴君の一面は,客観的な絶対神にも似ている。
 暴君が目の前にいるごとく,絶対神が目の前にいたら,生きていたら,どうなるのか。
 この辺の実感がわかる日本人は極めて少ない。
 それは絶対勝てない暴君なのだ。反攻したら殺されるどころではない。もっと想像をはるかに越えて恐ろしい目にあっても,どうしょうもない。なすすべがない。
 ダンテの描く地獄に落された人間や,ノアの箱舟に乗れなかった人間のようにだ。
 中世の地獄の描写や古代の神の罰は,現代では噴飯モノであろうが,当時として想像力の限りをつくした恐怖がアレだった。いまではもっと恐ろしい光景が想像できるのではないか?
 もし絶対の神があれば,人間も宇宙もドレイであり,おもちゃにすぎないであろう。
 もしそうでない関係がもてる絶対神なるものを想像しようとしても,それはすでに人間の考えた神にすぎない。
 言葉の上だけの,論理上のお遊びといえば,まさしくそうだ。
 日本人は,幸か不幸か,こんな空理を本気で信じたことはなかった。すりこまれても拒否してきた。
 だから,現代でも理解していないし,絶対神を想定したうえで構築した社会に,日本は作られていない。
 欧米との摩擦の大半は,この基本思想の違いに基づくものであろう。

 結論にかえて

 日本と西洋。あるいは日本とそれ以外の世界との断絶は,どれほど深いのだろうか。
 日本人ははたして世界を理解できるのだろうか。世界は日本を理解できるのだろうか。
 地道に努力するしかあるまい。
 それは,個々の科学的知識が描き出す驚異に満ちた現実宇宙の姿を,どうやって我々人類全体が理解するのかに似ている。
 一般的に想像できる宇宙像と,最新の宇宙像とは,もはや似ても似つかないほど断絶している。
 それを橋渡すのがSFの文学的使命ではあるのだが,なかなか手に負えたものではない。
 そして『エリ・エリ』が落ち込んだように人文系の断絶の橋渡しも生易しいものではない。
 前々から思っていたのだが,日本人は,ひょっとしたら人類にとって,もっとも異星人に近いのかもしれない。
 日本的としかいいようのない独立した文化をもち,しかも強力で柔軟な力量と,長い歴史の中で自滅しない健全さももっていた。
 かなり重要な概念(契約,組織,自由など)において,日本は世界を代表する思想たちとはまるで反対の関係をもっていて,人間のもちうる思想の一方の極に位置するとまで思えることさえある。
 最終的には日本的な思想体系は,人類の中心思想の体系とは勝負になるまい。
 いずれはとりこまれ,牙を抜かれて消化されてしまおう。
 
 しかし,最後にして最も特異な対抗勢力として日本人の存在は,人類にとって,異星人との遭遇を準備する,かけがえのないチャンスなのかもしれない。
 SF的妄想と笑っていただきたい。

2001/06

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