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『イムジン川を歌わないために』

イムジン川を歌わないために
 

 2002年に復活した幻の歌謡曲があります。
 1968年に発売直前で廃盤にされたザ・フォーク・クールセーダーズの「イムジン川」です。ザ・フォーク・クールセーダーズは「帰ってきたヨッパライ」(♪おらはしんじまっただ〜)でいまも有名なグループです。

 でもわたしゃ特に関心はなくて、「イムジン川」は直接の再プレス版ではなく、奄美出身のRIKKIという女性シンガーのアルバムカバーで偶然聞くことになりました。

 なぜか胸にしみる懐かしげな旋律で、お気に入りとはいかなくても時折聞いてみたいなと思ったんですが、2度目に聞いたとき「あんだッ?」ととんでもないことに気がつきました。
 歌詞はこうです。

 

 ♪イムジン河水きよく とうとうとながる
  みずどり自由に   むらがりとびかうよ
  我が祖国南の地   おもいははるか
  イムジン河水きよく とうとうとながる

 

 これは日本人のフォークグループが朝鮮半島分断を背景に、韓国人の気持ちで故郷への懐かしさを歌ったものだと思っていました。でも

 

 ♪北の大地から 南の空へ
  飛びゆく鳥よ 自由の使者よ
  誰が祖国を  二つに分けてしまったの
  誰が祖国を  分けてしまったの

 

 えっ? するとこれは南から北を思うのではなく、北から南を歌っているのか?
 おいおい、北から南へ自由にいくことはできないのはわかるけど、これでは南の方に自由がないから、北にいる人は懐かしいけど南に故郷に帰れないことになるじゃない。
 と、ここでようやくニブイ私に、この歌の背景がわかってきました。
 これは北朝鮮の歌だったのです。
 

 奄美出身らしく、歌唱力に秀でた20代のRIKKIのどちらかというと幼く高い歌声で「とうとう」と歌われるといつのまにか胸にしみいるけど、しみいっちゃあダメなんだ。
 

 わかってるのRIKKIちゃん。
 わたしはあなたの出した5枚のアルバムのうち4枚(一枚は廃盤で未入手)を持っている相当なファンのつもりだけどさ。
 これはまずいよ。
 そしてなんでこの歌が発売中止になったか、よーくわかった。
 発売中止になって放送禁止曲に指定されたのは、むしろ良識というものだ。
 

 長い間、左翼に牛耳られていた日本の言論界において、
「韓国は軍事政権で自由と人権を抑圧するどうにもならない貧乏国であり、北朝鮮は、輝かしい社会主義の成果にあふれた、この世の楽園」

 といったプロパガンダが横行していた時代がたしかにあった。

 

 ♪誰が祖国を 分けてしまったの

 

 よくいうよ。ホントよくもいえたもんだ。
 恥を知れ恥を。と、ついつい熱くなっちゃいます。
 でも、曲を作った人、曲を歌った人を責めることはできません。
 当時はそういうものだったんです。
 

 これは自由と正義を純粋に求める若者が、理想を託して作った歌には間違いありません。でも韓国の人には実に迷惑な歌でしょう。
 

 ベトナム戦争が激化していく時代、中国の文化大革命が輝かしく紹介された時代でした。
 日本もアメリカも韓国も汚職と疑惑にまみれた汚らしい社会にみえるのは、今も当時も変わりません。
 まあ現実なんて、いつだってどこだって、そんなもんです。
 情報が自由に公開されていればいるほど、醜い部分が見えてくるものです。
 

 そこに情報遮断された、まだ破綻が明らかにならない社会主義国の誇大宣伝(プロパガンダ)に、世間ずれしていない若者はだまされますよ。

 経験の浅い若者が、親の言うことを聞かずに、勝手によその国を理想の国だと思い込んで、心情的に一体化して、こんな曲をうっかり歌っちゃうんです・・。

 もともと日本人の悪癖に、外国に理想をもとめることがあります。
 敗戦直後にアメリカにあこがれ、スイスにあこがれ、やがてはソ連や、中国や、北朝鮮にさえあこがれる。そして北ベトナムの平和勢力を支援するといってデモして歩く。

 それらの国を「我が心の祖国よ」「我が同志よ」とトンチンカンな妄想をたくましくして、それらのもともと無理な幻想が、時間の経過で当然のごとく、自然消滅すると「だまされた」などと、これまたトンチンカンな怒りをあらわにする。

 ずいぶんと恥ずかしいことを、たっくさん我々日本人はやってきたのである。
 ちなみに軍国主義の根拠となった尊王思想は、中国から輸入された朱子学の変形なのだから、この「病状」は数百年来つづいて、いまだ回復の見込みがないのかもしれない。

 

 いまとなっては誰の目にも明らかだが、1950年から朝鮮半島全土を戦火にまきこんだ韓民族の大悲劇である朝鮮戦争は、北朝鮮主席金日成の冒険的決断による奇襲作戦ではじまった。
 あの国は初めから「冒険」が大好きなようだ。
 

 ただし当時の宣伝では「南側の侵略に対応して戦火をまじえることになった」とされていて、日本のサヨク迎合マスコミも、それにのっかって偏向極まりない報道がされていた。
 

 当時、在韓米軍は1948年に撤退していて不在。
 北朝鮮は5年前にドイツ軍を圧倒した定評あるソ連製T-34戦車を300台大量投入。
 戦車・空軍皆無で弱体の韓国軍は総崩れで、首都ソウルは開戦からわずか70時間で陥落する。
 しかしアメリカは開戦わずか一日で海空軍の出撃を決定。
 一週間後には小倉駐屯の米陸軍を韓国へ上陸させる素早い電撃介入。
 国連安全保障理事会でソ連欠席のまま軍事制裁を可決させ、米軍主体の国連軍を編成することまで成功するが、北朝鮮軍は米軍をも撃破。
 その勢いはくいとめられず、約一ヶ月で韓国は領土の9割近くを喪失する。
 

 韓国残存部隊と国連軍は釜山周辺の土地においつめられ、連戦連勝で各方面から殺到する北朝鮮軍に対して、必死で最後の防衛を試みる。
 まさに背水の陣。世に名高い「釜山円陣」である。
 

 韓国は消滅し、朝鮮半島全土は北朝鮮で統一される。次の戦場は日本本土かも・・。
 と誰もが思ったが、事態を打開したのはアメリカの海軍と空軍だった。
 空母部隊を投入し、日本の米軍基地からも空軍を出動させて制海権と制空権を確立し、空から北朝鮮軍の補給路を叩きに叩いた。
 その一方、釜山には続々と、増援部隊と大量の物資を揚陸。
 北朝鮮軍は何度も攻勢をくりだすが、ついに前に進めなくなった。
 当時の日本の新聞に小さく北朝鮮軍は戦車の車体に土をかぶせたとあるが、これはガソリンがなくなったことを示していた。

 
 そして国連軍総指揮マッカーサーの決断によりソウル近くの仁川に国連軍を上陸させる。逆襲は見事に成功。今度は北朝鮮軍が総崩れ。
 韓国軍と国連軍は北上をつづけて北朝鮮軍は中国との国境まで押しこめられて消滅寸前になるが、ここで中国の人民解放軍が北朝鮮を応援して本格介入。
 国連軍は敗北して大きく後退する。
 すぐ再奪還したとはいえ、首都ソウルの二度目の陥落という大失態さえ演じる。
 

 つまりはこの時代は、まだ米軍に真正面から戦って勝てる国があったのである。
 その後は韓国も北朝鮮も、もはや脇役。
 アメリカと中国が、双方大兵力・新兵器を次々に投入。
 韓国李承晩大統領は敵にも味方(国連軍)にも激怒しまくり、金日成はソ連主席スターリンや毛沢東に泣きつく。

 
 密かにロシア人の操縦するジェット機が登場して史上初のジェット機同士の空中戦がおこなわれたり、
中国主席毛沢東の息子が戦死したり、
日本は戦争への物資補給で荒稼ぎしつつ憲法9条を無視して自衛隊(警察予備隊)を創設して再軍備はじめるし、
中国軍に手を焼いてトルーマン大統領が中国本土への原爆使用を口走ってイギリス首相から批判されたり、
マッカーサーが戦争終結には台湾の中華民国国民党軍を参加させ中国を完全海上封鎖するしかないと強硬進言して解任され、
黒幕スターリンも急死するなど、もうぐちゃぐちゃ。

 結局、戦線は開戦前の元の場所付近で膠着。
 双方どうにもならなくなり、休戦が成立する。
 ここで北も南も双方口を極めて悪口をいいあい、軍事力を増強しあう、長い長い、不毛の半世紀が始まる。
 中国とアメリカという超大国同士が、長い間、敵対するハメになったのも無理はない。

 

 この戦争は双方に200万人にのぼる損害と憎しみのみを残す。
 勝者のない、人類史上もっとも愚かな戦争の一つとまでいわれるのである。
 

 この泥沼の後遺症は世界的なものがある。
 おかげでせっかくの国連軍なるものは有名無実になり、国際紛争解決の手段として長く無力化する。
 

 また、朝鮮半島で失敗した共産勢力による分断国家の解消は1975年に北ベトナムが南ベトナムをのみこむことで成功させるのである。
(もっとも西ドイツによる東ドイツの併合は1991年に実現。そして直後にソ連は崩壊し、共産中国も資本主義化するのであるが・・)

 
 こんなどうにもやりきれない歴史が金日成の愚かな野望によって始まった。
「充分に準備した奇襲でなければ70時間で首都が落ちてたまるか。」誰が見てもそう思って当然のハズなのだが、1975発行の小学館の百科事典にはこのようにかかれている。

 

 朝鮮戦争 一九五〇年六月から一九五三年七月までの三年一ヶ月にわたるアメリカ帝国主義による朝鮮侵略戦争。朝鮮民主主義人民共和国政府・人民軍と祖国の統一をのぞむ朝鮮人民は、アメリカの侵略に対し武力をもって戦った。(中略)アメリカは、戦後の経済危機におそわれていたので、経済的困難の打開策を待望していたアメリカ独占資本は、朝鮮での開戦を干天の慈雨として歓迎した。(中略)アメリカはこの戦争に200億ドルの戦費と陸海空軍の大半、「国連軍」全体で200万人の大兵力を投入したが、米軍史上最大の敗北をなめた。ナパーム弾、細菌兵器などの非人道的兵器を用い、原爆投下まで計画したが、全世界の平和勢力の激励をうけた朝鮮人民を屈服させることができなかった。(後略)

 

 すごいでしょ。中立であるべき百科事典にここまで書かれているのである。
 小学館の雑誌SAPIOは現在、もっとも右よりの雑誌といわれているのに、当時は小学館もこのありさまだった。
 

 この捻じ曲がった世界観は「イムジン川」と同一であり、それが社会的常識の一部として受けいられていたから「イムジン川」が歌われた。

 こんな簡単なウソでも当時は見ぬくことは難しかったし、実体を知っていた人は口をつぐんだ。
 暴力をいとわない勢力が現実に存在し、恐ろしかったからだ。
 

 ベトナム戦争も安保締結も、理想主義の日本の若者は反対した。
 しかしベトナム戦争後に起きたことは100万人のポートピープル流失であり、クメールルージュの虐殺である。
 それがほんとうに必要だったのかどうか、私は疑問を持たざるを得ない。
 日米安全保障条約がなかったら、日本だってどうなっていただろう。
 

 いったい何が「祖国」を二つに裂き、ベトナム戦争に反対させたのか。
 社会主義陣営は「革新」と自称し、選挙で候補が当選すると「ともし火」と表現し、「解放」を叫び、アメリカと自民党政府を攻撃しつづけ、北朝鮮の拉致問題は「そんなもん、しらん」といいつづけた。
 

 5日前に通りかかった霞ヶ関三宅坂の社民党本部には「がんこに平和 元気に福祉」のタレ幕がぶらさげられていたが、その平和とは、だれのための平和、どんなかたちの平和なのだろう。
 

 もう一度はっきり書くが、日本国憲法がホネ抜きになったのは金日成のおかげだともいえるのだ。
 目の前で超大国が死闘するこんな大戦争やられたら、どんな高邁な理想も消し飛んでおかしくない。
 だから左翼勢力が過去の自分達の言動をタナあげにしながら、平和を口にしたり、憲法を守れと主張するのは、私にとってはちゃんちゃらおかしいのである。
 

 日本国憲法の非戦の誓いは、崇高だと思う。
 「押付け」だとか「非現実的」だとか、ケチをつけて足元をすくうのはたやすい。
 だが、この憲法の精神は、なんのかんのいっても、ボロボロの敗戦を迎えた日本人のほとんどの実感が後押しした、国民総意に近い賛意のあらわれだったと思う。だったと思いたい。

 
 しかし、あまりに理想的過ぎたのだろう。
 この理想はもっとも忍耐と勇気とコストのかかる、尋常ではない勇者にのみ実現可能なのかもしれない。
 

 敗戦の惨禍と苦労をなめた日本人には、その苦労をも甘受してもいいからやり抜こうと素朴に、思ったのだろうと思う。
 太平洋戦争で、あれだけの(ムダな)努力ができたのだから、同じ努力を別の方向でやって、平和がもたらされるなら「いいはず」だと、覚悟したのではなかっただろうか?
 でも無理だったようだ。
 いままでやりとげた国のない、極めて高い理想なのだから仕方も無いとは思う。
 また、この憲法を起草して日本に残した連合国は、こうまでしなければ、いまの北朝鮮にも勝るとも劣らず狂暴凶悪だった軍国日本を押さえることはできないと、徹底的に日本人を不信の目で見ていた事も、事実だろう。

 安保反対もベトナム戦争反対も、当時の若者達をして「平和と理想をもとめた」結果なのは間違いない。彼らは日本国憲法を評価していたはずであり、その実現に努力している。とカンチガイしていた。
「オレ達は、平和を求めているのだ」と。
 でも、それが北朝鮮国内に、いまも恐怖で保たれている「平和」であってはならないのはいうまでもない。

 
「帝国主義だ、拝金主義だ。陰謀だ。打算だ。」とムチャクチャ悪口を言いつづけられていて、いまもあちこちで「出てけ」とか「軍国主義」とか言われているアメリカの守ったものとはなんだったのか。
 そして、ただいまアフガニスタンやイラクでまさに戦い、戦おうとしているアメリカに向かって「戦争反対」を叫んでいいのだろうか?
 うっかり叫びたくなるが、本当に本当に、その判断は正しいのだろうか?
 

 おぞましいことだが、単純に「戦争はイヤ」とは、安直に考えてはならないのである。
 むしろ「戦争反対」で平和を求めることこそ「悪」に手を貸し、不幸を増幅させる危険性があることを、直視しなければならない。
 

 どちらにせよ、理想は実現するための、適切な判断力と、手段と、決意がなければ「机上の空論」になり、あっさり現実の必要性に屈服し、ねじまげられてしまう。
 平和を求めること(目的)と、平和を現実にもたらすこと(成果)は、まったく別なのだ。

 

 真実を見ぬくことはいつの時代も至難のわざなのだろう。
 この文章も、多分に後知恵でしかない。
 それにしても、「♪北の大地から 南の空へ」むかう、「♪自由の使者」とは、なんであろうか?。
 

 自由と繁栄と秩序の北朝鮮から、抑圧と腐敗と混乱に苦しんでいる南の韓国へ向かう、自分の命の危険をかえりみずに潜入する「破壊工作員」のことだろうか?

 彼ら工作員は、歯をくいしばり涙を流し、「イムジン川」を口ずさむことを心のはげましとして、敵対国(韓国・日本)に潜伏する不安や恐怖や困難に打ち勝とうとしたのではなかろうか?

 
 韓国が「♪我が祖国 南の地」なら、そこにいすわる「アメリカ帝国主義の傀儡(かいらい)政権=韓国」の都合なんか無視し、勝手に侵入して「祖国を解放するために我が身を犠牲にする努力」をして「何が悪い」のか。素晴らしいではないか。

 そして南の不幸な人たちを、北へご招待(拉致とも言う)するのは、慈しみ深き金日成(今は金正日)様の「恩恵」ではないか。
 と、なっても、おかしくはない。
 まったくいい気なものである。
(韓国における拉致被害者は日本の比ではないそうだ)

 

 今にしてみれば「イムジン川」は過去のプロパガンダである。
 旋律やこめられた情感などでは名曲だと思う。
 だが、心から歌ってはいけない曲である。
 そして、そのほかの、知らずに歌ってしまいそうな多くの「イムジン川」を、神経をはりつめて、注意深く取り除かなければならない。
 

 今度、「イムジン川」をカラオケで歌ってみようと思う。
 いったい、どんな気持ちになるのだろう?
 

 人間という存在が、あまりにバカバカしくすぎて嘲(わら)ってしまうのか、それとも、あまりに情けなくて泣いてしまうのか?
 いまはまだ・・、自分でもよくわからない。

 

20021226

 

以下参考資料

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イムジン河

 

松山 猛 訳詞
朴世永 原詩
高宗漢 作曲

 

イムジン河水きよく
とうとうとながる
みずどり自由に
むらがりとびかうよ
 

我が祖国南の地
おもいははるか
イムジン河水きよく
とうとうとながる

 

北の大地から南の空へ
飛びゆく鳥よ自由の使者よ
誰が祖国を二つに分けてしまったの
誰が祖国を分けてしまったの

 

イムジン河空遠く
虹よかかっておくれ
河よ思いを伝えておくれ
ふるさとをいつまでも忘れはしない
イムジン河水きよく
とうとうとながる
 

http://www.fukuchan.ac/music/j-folk1/imujingawa.htmlより転載
 

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2001年の大晦日、紅白歌合戦でキム・ヨンジャが歌った歌詞

イムジン川 いつの日も 清らな 水たたえ
鳥は 楽しげに 自由に 川に舞う
帰ろうふるさとへ 翼あるなら
イムジンの流れよ 答えておくれ

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<リムジン川>は北朝鮮=朝鮮民主主義人民共和国で1960年代に作られたもので、作詞はパク・セヨン(朴世永)、作曲はコ・ジョンハン(高宗漢)である。作詞者パク・セヨンは解放前からのプロレタリア文学運動にも加わった詩人で『山つばめ』などの詩集で知られている。京畿道出身のパクは解放後、北朝鮮に移り多くの詩を発表しているが、最も知られているのは北朝鮮の国歌『愛国歌』を作詞したことであろう。また1960年代の日本でよく歌われた<ピョンヤンは心のふるさと>の作詞者でもある。

 この<リムジン川>は在日朝鮮人のあいだで1960年代に歌われていたものを、松山猛が詩をつけ、当時のフォークソンググループ<ザ・フォーク・クルセダーズ>が歌ったものである。1968年になって<ザ・フォーク・クルセダーズ>はシングルレコード「イムジン河」をリリースすることになったが、発売の直前になって発売元の東芝は突如中止を発表したのであった。そのいきさつは次のようなものであったとされる。

 「原詩に忠実でないと朝鮮総連から抗議をうけたというのがその理由であった。しかし、実は総連側の抗議内容は、<イムジン河>の原詩は、北側にとっては重要な人が作ったものなので、発表する場合は、朝鮮民主主義人民共和国の何某が作った歌と、はっきり明記すること、というものだったのだ。国交のない共産圏の国の正式名称を併記することを東芝は親会社の手前、躊躇したのである。」(黒沢進 CD「ザ・フォーク・クルセダーズ ハレンチ+1」解説 1995)

 しかしこの解説だけでは、「朝鮮総連から抗議をうけた」ことや、東芝(レコード)がなぜ「親会社の手前、躊躇した」のかは理解しがたい。筆者の記憶では、当時このレコードの発売に際しては、作詞・作曲者不明とされていたが、明らかに北朝鮮の詩人と音楽家によるものであり、この点に対して朝鮮総連はそれを明記するよう要求したのであったし、北朝鮮の歌が日本で広がることを好ましく思わなかった韓国大使館が東芝に圧力をかけ、発売中止に至ったと聞いている。つまりここで言う「親会社の手前、躊躇した」とは、韓国に進出していた東芝が韓国との経済的関係を優先し、北朝鮮の歌のレコードの発売を中止したとのことなのであろう。

 <ザ・フォーク・クルセダーズ>のシングルレコード「イムジン河」が、当時世に出ていたならば日本の人々、とりわけ若い人々のあいだにこの歌が確実に広がっていたことであろう。しかし、上に述べたようなこともあり、放送などでも禁止曲(放送局には内規があり、戦時中の軍歌・政治的色彩がこい歌・男女のあいだをうたった一部の歌・商品名などが歌詞に含まれている歌などは放送されないことがある。)となってしまったのである。

http://www1.odn.ne.jp/~cab34730/korea-ongaku.htmlより転載
 

 

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