『日本教についてのメモランダム』
「さよなら日本教」を読んでの感想

日本教についてのメモランダム

 ウェブ上での様々な記述を見てみますと,山本七平の提唱した『日本教』について,概念が混乱しているようですのでまとめてみました。

 

 前提

 

1 宗教とは「人間の精神」を形成する根本的なルールの集まりである。

 
 宗教は,いわば,自分の良心,信念,意欲,家族,社会を形作るルール(憲法)である。
 人間生活の根拠といってもいい。
(・・なぜ,これをするのか? に対する答えです。)
 

 それは,ある集団に共通する「思想」であり,その思想と自分自身の関係を繰り返して考えることによって,自分の行動に影響を与えるものです。
 

(ここらへんは多くの日本人には極めて理解しづらいと思いますが,この前提がないと、日本人にはキリスト教もイスラム教も,ひいては自分自身の行動さえも絶対に理解できませんよ)

 

 

2 日本教とは,日本人の伝統的思想体系である。

 
 日本人が縄文以前から現代に至るまで,さまざまな思想家,宗教家や,外来文化などに影響されつつ形成してきた,生活する上で絶対に必要な,自分たちの「精神を支える」ものです。

 従って,日本教を失っては文化的に日本人ではなくなると思ってください。 
 日本人でクリスチャンを自称する人がいます。
 もし,本当にクリスチャンなら,棄教する時には精神的破滅状態になりますが,そのような方は少ないようです。

 山本七平は,日本人クリスチャンを日本教徒キリスト派ではないかと問題提起しました。同じように,日本人に仏教徒はいません。日本教徒仏教派がいるだけなのだと言います。

 ちなみに「神道」は日本教の中核ではありません。要素(エレメント)です。

 

 

3 日本人ほど宗教に対して,排他的な文化は珍しい

 
 なぜなら,日本社会には『日本教徒』しかいないからです。

 日本人が教会で結婚式をあげ,神社に初詣や七五三にいき,葬式で寺にいっても,それは決して宗教に寛容で多様性があるからではありません。

 これらは実質はすべて日本教なのですから、他の宗教に対してこれほど侮蔑的な対応を行っているのは戦慄すべき事態です。

 本格的一神教へ日本人が行っている迫害・差別は,いまも終わってはいません。

 キリシタン弾圧はけっして昔話ではなく,日本教の宿命なのです。
(これは日本人が持っている最大級の自己認識の誤りです)

 

4 なぜ日本には日本教しかないのか。
 

 日本教が『見えない宗教』だからです。

 日本教はこれまで体系的に研究されたことはおろか,山本七平が発見するまで概念的にすら、指摘されたこともありません。

 まだ発見されていなかったものが、他の宗教と対決することはありえません。
 無自覚の宗教(思想)は検討・評価・発展の対象にできません。

 同時に、その欠点の克服もできず、同じ失敗を繰り返す根本原因となります。
(呪縛・・という言葉を山本七平は使用しました)

 

 

 ここで「日本教の特徴とはなにか。」に移りましょう。

 

1 体系的宗教ではありません。(文字化されていない)

 
 キリスト教の聖書、イスラム教のコーランなどようなの絶対契約文書がないため,正確な定義ができない

(仏教の経典は絶対契約文書ではなく,単に悟りを開くためのノウハウ集である。従って日本教と仏教に似たような一面があるとはいえる)

 

 

2 絶対的超越者(神など)を想定しない水平的宗教である。

 
 日本教は徹底的に「人間的」な宗教であって,ここにキリスト教や仏教を表面的にとりこめる秘密があります。


 人間同士の力関係と感情の関係によって、話し合われたことがその場その場の「絶対」となり,その証人として八百万の神様でもお釈迦さまでもひっぱりだされます。

 それらは,しょせん便宜上の存在であって、「役にたちそう」ならなんでもいいのです。

 キリスト教,イスラム教などの一神教は、個人別の垂直的構造をとっていて「自分個人が契約した神」が絶対なのであって,それ以外のものは『無価値』です。

 だから同じ文書によって同じ契約を結んだ同一教徒の間では,人間同士の約束も信用できますが,異教徒は一切信用できない存在となります。

(ちなみに戦前の天皇絶対の尊王思想は、江戸時代に幕府が導入した朱子学が変形したもので,日本の思想の中では異常な一時期だったといえます)

 この特徴によって,日本教徒は『成文宗教』にたいして敬意を持つことはありません。
 日本人が他の宗教に対して時に侮蔑的態度をとるのは当然に発生する現象なのです。

 同時に異教徒からは,契約による拘束の通用しない「狡猾で信用のおけない。最後には必ず裏切る民族」として評価されるのもムリはありません。

 日本人自身の主観では日本教に従って,誠心誠意・全力をつくしてまごころあふれた行動をとっているとしてもです。

 

3 組織原理が,共同体原理である。そして、秩序は敬語で保たれる。

 
 ここまでで解説したように,日本教にはもともと神聖文章との契約――つまり「成文憲法」といった発想はありません。
 契約という考えも,神による自由という発想もありません。

 
 一神教では契約による「組織化」がおこなわれますが,日本ではこの方法がとれません。

 
 日本人は組織を作る場合,縄文弥生から続く「村社会」と同じ「擬似家族共同体」以外の原理を思いついていないのです。

 したがって,会社にも「全人格的」参加が求められてしまうのです。
 (それが自分の全世界だとして。)

 
 日本の社会で、秩序を保つには相手との力関係によって極めて複雑に変化する「敬語」が発達しました。

 
 これは「敬語」しか相手との関係をはっきりさせて、秩序を維持する方法がないからなのです。(言葉は正しく使いましょう。日本人ならね。)

ちなみに欧米でいう「組織」とは,血縁,地縁,階級,共同体から離れて,契約によって機能を遂行するための集団」というのが定義です。

 従って,「組織」は断じて家族やコミュニティなどの共同体ではなく,むしろ対立,反対する概念です。

 契約以外には,血も涙もありませんからレイオフに躊躇があるはずないのです。(日本で会社からリストラされると、生きるの、死ぬの、はては生きがいがどうのといった事態になるのは極めて興味深い現象です)

 

4 血縁主義がない,家族制度に原則がない,能力主義である

 
 これらについては別の機会に補足したいと思います。あまりに長くなりますので。

 


 なお,ここにあげたメモは,文学的,神学的定義ではなく,あくまでも社会学的,文化人類学的で,科学的手法によって実証可能なものです。
 つまり事実(仮説)なわけです。

 
 駆け足で記述しましたので根本的に舌足らずですが,参考になれば幸いです。

 
 ご意見,ご感想があれば,お気軽にどうぞ。
 

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「さよなら日本教」を読んでの感想

「さよなら日本教」という本がある。
 インターネット上で見つけたのだが山本七平や小室直樹氏の熱心な読者による自費出版で,手にとって見たことのある人は少なかろう。
 その本に対するかなり手厳しい評論がこの小文である。


 このような批評を書くのは失礼かもしれないし、あるいは私の考え方の欠陥をさらしているかもしれない。
 しかし著者の努力と、倫理的で前向きな方向性は高い評価したいと思う。議論の進め方も普通の日本人にはあまり見られない論理的な手法を使っている。

 そして違うかもしれないが著者とはもしかしたら会った事があるかもしれない。
 資料がなくなってしまって確認できないが,数年前の銀座で出会ったのがこの本の著者であるならもう一度お会いして,語り合ってみたいと思っている。


紹介


題名 「さよなら日本教」 〜私の宇宙観による日本教の清算〜

◆目次
    まえがき
    第1章  序論
    第2章  人間行動の原理
    第3章  人間社会の特徴
    第4章  キリスト教の構造
    第5章  日本教の構造
    第6章  私の宇宙観


 以下,上記の本を読んでの感想

 著者の言いたいことはだいたいわかる。(わかったと思う)
 でも。『人類の栄光をます行為』に何の意味があるのかなあ。と思った。
 意味が無いとはいえないだろうが,それは別の表現にもできてしまう。

 つまり絶対神の栄光ではなく,相対的に有限な存在である人類に無常の価値を置くということである。
 これは,「天皇の栄光を増すため」や「(オウムの麻原みたいな)教祖の栄光を増すため」といった,ごく一部の限定的対象への忠誠とさほど変わるまい。
 『人類が特別で大切な存在だという思想』は人類にとって意味があろうが,他の動物にとってどういった意味があろうか。

 人間の栄光が増すことを,山にすんでいるケモノや海のサカナが、無常の栄光・幸福と感じることはあるまい。あったら,腹をかかえて笑ってもよかろう。
 人間でしかない日本の天皇が,全世界の人間が服従すべき対象だと『尊王思想家』は考えたことがある。『人類の栄光』も結局は、それと同じことででしょう?。

 繰り返すが,人間の栄光と幸福と快楽と自己満足に、最高・至上の価値があると考えるなら、それはそれでよかろう。勝手にやっておくれ。ただし私はそれに反対の立場をとるつもりだ。

 絶対と相対,無限と有限の差ははてしなく大きい。
 有限なものを無限と認識してしまったら,どんな世界となるのか。さらにはそんなもんが本当に、現実的に、カンペキに機能しうる世界なのかどうか。考えてみるのは面白い実験である。

 『絶対』を硬直的に扱った思想や社会運動は,歴史上に数限りなくある。
 ユダヤ教やキリスト教の原理主義,イスラム教,近代ヨーロッパの絶対王制,戦前日本の尊王思想,二十世紀に世界を二分した片方である社会主義もそうであったろう。
 それらは,どう評価すべきなのだろう。

 どの思想もある程度の実力と現実性・正統性・妥当性をもっていたが,最終的には本当に「存在するに足る」堂々たる思想であるのか、実はそうではないのか。が,問題ではなかろうか。
 それらの思想たちは,はたして過去・現在・未来のいずれにおいても「現実的」であり、柔軟で、実力ある思想であるのだろうか。
 そして勝利者として、現代に生き残っているのか?。
 将来も発展していくのか?。
 結果論で言えば、どの思想も破綻においやられて消滅するか、硬直化して身動きできなくなっていったように思える。

 ユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教の一部にある原理主義は、聖書やコーランなどの『文書を絶対』とするため、新しい科学上の発見をどうやって『神聖文書』の中の記述と折り合いをつけるのか七転八倒して、部外者からみたら抱腹絶倒の迷走を続けている。ソ連時代の社会主義擁護の文章もいまから読めば、よくできた喜劇になろう。

 思想の方を先にカタメテしまえば,その思想から出発して、どう解釈しても、取り込めないものがでてくる。想定していなかった部分が後から出てくるのである。
 取り込めないものは、思想を守るために、新しい矛盾を抑えこみたくなる。
 いわば排除・粛清したくもなるのだ。
 しかし,都合の悪いものを抹殺したところで、実は抹殺したほうが次の瞬間に現実から遊離して,「逆排除」されて機能できなくなっていったわけである。

 それにそもそも絶対を考えるときに、それがなぜ絶対なのかの根拠を示されなければ安易に「それは絶対に正しい」と賛成するわけにいくまい。
 原理主義,絶対主義の落とし穴は,この説明ができないところにある。質問に質問を重ねていくと必ずどこかで「わからない」といわざるをえない。

 当然の事ながら「わからない」といった瞬間,それは根拠を失い,いかなる権威も消失する。思想は無力となる。
 本当の絶対的思想なら、すべてに対してちゃんと答えが出せるはずだから、「わかりません」と言いたくなければ、ここで人は「ウソ」をつく。
 そうでなければ、自分で自分の思想を『根拠がありません』と言わざるをえないのだ。これは自分を権威にしたい「人間」にとっては,実にカッコウが悪い。

 ごまかして自らの権威を維持するためには,「だまれ」とか「この悪魔め」とかいって質問者を倫理的に糾弾して抹殺・粛清・消去してしまいたくなるのも感情としては当然である。
 そして,いろいろな形での粛清がおこなわれることで,逆にその思想が実は破綻してしまっていることを自白してしまうのだ。

 事実のみを取り扱う科学は原理主義をとった瞬間に消滅してしまう。だから,徹底的な相対主義をとっている。とらざるをえない。科学には『真実』も『絶対』もなく,ただ『限定的事実』と『仮説』しかないのだ。

 だが,人間が生活するには必ず何らかの思想が必要であり、相対主義だけでは生きられないことも確かなのだろう。
 思想は,人間という入れ物にいれるために,必ず有限なものになる。
 我々はこの有限な思想で,この宇宙・世界のすべてを取り扱い、生きていこうとしている。考えてみれば憐れなものである。

 不可能なことをやらねば生きてはいけないのが「我々の知性という変テコな存在」なのだ。
 原理主義をとれば実に楽だが,それは安易な逃げ道と呼ばざるをえない。
 限定的なものを絶対とした瞬間に我々は知性的とはいえない存在になってしまうのだ。
 人間という有限な存在が無限を考えることは,無謀で悲惨だ。それでも考えようとする。せざるをえない。
 風の前のローソクのともし火のようである。
 なんと可憐なことであろう。

 つまらない小文の最後にガリレオのようにいってみたい。

「それでも我々は存在しているんだ」(それでも地球はまわっている。)

 なんてね・・。(ああ,絶対なるものよ。我々をあわれみたまえ)
 

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