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知りたいこと

 頭の中に何が入っているかと聞けば,『脳みそがはいっている』と現代人はシッテイル。
 それは正しい。

 では,脳みそのなかに何が入っているかと聞くと,これはまだ現代人には簡単に答えられない。
 あるいは未来であれば,容易に答えが誰の口からもでるのかもしれないが,いまは曖昧模糊とした,わけのわからない答えがでてくるのが普通ではないだろうか。


 わたしも,もちろん答えられない一人であるが,それでも空っぽではあるまいとは思っている。
 いったい「脳みそ」の中には何が詰まっているのだろう。

 我々が生まれてから現在このときにいたるまで,目や耳や鼻,皮膚で感じたあらゆる(でも限定された)情報と,我々が生まれる前から長い年月をかけて構築されたDNAと肉体と神経の物質システムによって形成された何かが入っていると考えるのが妥当だろう。


 それを「生きている脳」と称するか,意識というか,文化というか,文明というか,はたまた生活様式というか,宗教というのか,いったい本質的に何に属していると言えば正確なのか。
 しつこいだろうが,わたしは知らない。

 我々は,このわけのわからない何かを頭の中に住まわせて,日々暮らしている。
 その下す命令に従って飲み食いし,社会生活をおこない,はては地球をおかしくしてしまうほど大きな影響をもつにいたっている。
 不気味といえば少々ぶきみである。
 
 もっとも脳の中に入っているものは一つではあるまい。
 おそらくそれはいくつもの要素にわかれている。
 幼児期の意識と,青年期,成年期,老年期と,ハードウェアとしての脳の機能と性能は明らかに違っている。
 情報量も違っている。

 はたしてそれが同じ肉体であり,同じ中身かといえば当然違うわけである。
 パーツや要素は時間の経過で変化するものは,全体ではない。
 また一時期の全体は,全存在時間を通じた全体ではない。
 では,パーツの調和をはかる「指揮者」が本質かといえば,そんな指揮者はどうもなさそうである。

 社会は人間という構成員でできている。
 社会はちゃんと動いている。
 新陳代謝は見事であるし,じつに統制のとれた合理的生命体にみえることさえある。
 でもその社会の首相なり,大統領なりがそれを動かしているのかといえば,とんでもなかろう。首相も部品である。
 毎日,数百万が移動する東京の通勤ラッシュの見事な秩序を具体的に首相が動かしているなどと表現するのは,ナンセンスどころかシュールでさえある。(そうだったら,さぞ面白かろう)
 脳の中身もこれに似ていまいか?


 意識や自我なるものは,どんな部品であろう。
 それは「首相」のような,ごく一部の制御装置と考えるのが無難で,脳の中身でございますと胸をはっていられるほど安定もしてないし,継続性もない。

 ふらふらといつもどこかに動いていて,しょちゅうばったり倒れて休む。
 そして,すぐになにかの壁にぶつかるかのようにもとの道を引き返していき,なにかのためになにかを懸命にやっている。
 大勢の泣き出す赤ん坊のおしめをかえるべく必死でかけずりまわっている保育園の保母さんみたいではないか。
 実は保育園の2階には園長さんがいて,保母さんの働くさまをふむふむといって見ているのかもしれん。
 だったら,我々の意識の裏側には,保母さんのうかがいしれない高度な制御をつかさどる「裏の」または「第2,第三の」自我というか制御のためのフィードバック回路があって,「そいつ」が働いていて,通常の我々の自我はそれを感知できないのかもしれない。

 だいぶ妄想もたくましくなってきた。
 さて,我々の体は肉体でできていて(循環論法こまったな),それは肉とDNAで最初つくられる。
 そこに制御機関として「意識」がやどる。
 ここまではまあよかろう。

 赤ん坊にだって記憶力はあるし,外からみたところ意識もあるとしか思えない。
 愛らしい赤ちゃんの脳みそが,お人形につまっているスポンジじゃあかわいそうだ。

 経験的に感じられるところによれば,DNAも確実に支配者ではない。
 設計図は設計図だが,パソコンにだって設計図はある。
 ハードの設計図が,ソフトを制約することはたしかだが,ワープロに使うか,DTPか,作曲か,どんな使われかたをするのかはわからない。
 まさかDNAが核兵器や宇宙船を作るわけではあるまい。
 ましてそれらがどんな働きをもって,どんな効果をもつにいたるか想定したうえで,DNAができているわけない。

 空母から飛び立ったジェット機から敵の頭上に爆弾を落とす。・・なんていう絶句で野蛮でハイパーな行為をDNAがやっていたら,これもたいそう面白かろう。
 でも,現実はそこまでは楽しくないのだ。
 実態があるからには,実態をささえる何かがある。
 幻想なら,フィクションなら楽だろうが,面白がっているだけですもうが,残念ながら?我々は存在し生きてしまっている。

 もし,劇を見ている人が,劇の中で人が殺される場面を見て,それが劇だと思わずに本当におこっていると思ったなら,恐怖によって,劇場は悲鳴と戦慄でみたされ,震え上がるだろう。とある人が書いていたが,そのとおりだ。

 多様な環境に人は適応できるのだ。
 さもなければ戦記にでてくるように,戦場で死体のとなりで寝たりできっこないが,そんな時でも目をとじたら死体がなくなるわけでもない。
 つまりさっきと逆の意味で,それが気にならなくなれば,本当の殺人現場でも劇をみているように思えてしまえるわけだ。

 さて。我々の支配者。
 我々を制御しているもの。
 我々を戦いにかりたてるもの。
 それはなんだろう。

 それは確実に「ある」なにかである。
 意識や自我ではない。べつのもの。
 DNAではないもの。
 東京の通勤ラッシュを整然とさせているもの。
 正体をみたら,たぶん戦慄するに値するもの。

 パソコンのソフトがひょっとして「自我」に相当するなら,もしかして我々の「OS」に相当するかもしれないもの。
 ソフトは個々のパソコンに入っているが,OSはたいてい共通なのだ。
 くりかえすが,あまりに漠然としていて,わたしにはわからない。

 この世界は地獄ではないし,牧歌的でもないし,満足のいく世界でもない。
 でも,絶望するには少々はやすぎるようになんとなく思える。
 見込みのありそうな世界であると思い込みたい。

 わたしは誰かを傷つけたくないし,不幸にしたくはない。
 だから,わたしの正体を知りたいと思う。

 自分の頭のなかに何がどこから入ってきて,わたしをどうやって制御しているのかを。

                                2001・3・22
 

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