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宗教のリセット

 中世が終わって、現代人が生まれたとき、驚くべきことがおきた

 すべての経典、文章は人間が書いたものであり、歴史的、考古学的、科学的 研究対象として自由に取り扱えるという科学的立場の導入である。
 ここに、神聖な経典は消滅したといえるわけで、このすさまじいプロテスト (改革)は、あまりにすごすぎて、ほぼ全員の人類がぼうぜんと言葉を失って、惰性によって津波をやりすごすしかなかった。


 しかし大波は確実にやってきて、そしてすべてを押し流したのであり、その後、主観による絶対主義は、正統性を主張することが、事実上できなくなってしまった。
 これがどれほど大きな衝撃であったことか。

 伝統は,過去の権威によって維持されるが,その権威とは個人個人の確信によってささえられ,どこかで何らかの根拠に支えられる必要がある。
 その根拠の多くは過去から伝えられた『文書』が正しいとすることによって担保されているのが普通であった。


 しかし,その文書そのものではなく,文書に書かれている背後にある事実のみが根拠の根源とすることは『絶対的神聖文書』の否定となる。
 文書が神聖なら,かえってその文書をただ読んで勝手に解釈しても正統性を主張できるのだが、文書そのものに権威がなくなれば恣意的な解釈,誤読はいっさい許されなくなるのだ。

 もちろんこの態度は従来にもないわけではなかったが,力関係では伝統主義のほうが主流であった。しかし科学知識の増大と,技術の力量のすさまじさは伝統主義と科学的態度のバランスを完全に崩壊させ,もはや伝統をあくまで堅持しようという抵抗は,驚くべき短期間に不可能となった。

 人間は,頼るべき確実な神の言葉を失ってしまって,荒野に放り出された。
 その結果が世界各地での王制の崩壊と共産主義の誕生に現れているのだろう。
 しかし、共産主義は人類全体をカバーできなかった。
 人間は無思想では生きられない生き物としてできている。
 自らの自我をささえるコアとなる思想を必要とするのだ。救済のため,精神の安定のため,そして社会の維持のためにだ。

 しかし、不完全帰納法を採用し、仮説を提示するしかない科学はそれに(=絶対的な思想)になりえない。
 当然のことだが,共産主義も科学を中心とするかに見えた本末転倒な思想を選んでしまったがゆえに本質的な欠陥をもってしまい,長い生命はもてなかった。

 結局、米、西欧はキリスト教を従来どおり根拠なく選択することで存続することとなった。 緊急避難的とはいえ、まったくもって、キリスト教が選択に値する宗教であるということは人類への恵みなのだろう。
 合理的、科学的精神をのみこめる倫理的な宗教が存在し得たというのは幸運であった。

 キリスト教の基本はいうまでもなく絶対神である。
 これは人間の思考、限界の外にあるものであるがゆえに、現代的思想においても,そして予測できる将来においても,『絶対』として存在してもかまわない。
 想定してもかまわないし,恐らく破綻しないのである。
 ということは、絶対神は信じる人間の精神の中心に仮定し、それを基準にしても支障ない。ということになる。(日本人にとっては奇妙なあきれた論理だが、欧米の基本にはこれがあって、今も未来も機能しつづけるだろう)
 それを土台として、ナザレのイエスがやったように、倫理・・『愛』を接続するなら、キリスト教は再生するのである。

 もちろん、すべての『伝説』は消滅する。
 天国、地獄、聖人伝説は無意味となる。
 古代以来積み上げられた膨大な解釈、歴史、美術、伝説、民間信仰は大量にごみ箱行きである。
 それらは現代人にとって、ある意味で過去の遺物でしかないのだ。

 しかしながら、一神教キリスト教はその打撃によって、スリムに、より本質的となり、当初の姿に・・。 いや、当初から期待されながら、実現していなかった、理想的な形に生まれ変われたのではないかと私は思っている。

 驚くべきことに、聖書は、現代人にもちゃんと読めて、メッセージを発することができるのである。
 なぜか? 現代につながる中心思想の通過点記録としての価値だからである。

 絶対神信仰(の論理的な帰結)は古代であれ、科学をガチガチに構築した現代であれ、ゆるぎないがゆえに、導きだされる結論は変化しないのである。
(間違いなく日本人のほとんどが、この部分を理解できず、下手すると私を狂信者として誤解するかもしれない。でも、それはほとんどの日本人が欧米の正体を理解できていないことを証明するにすぎない。だから、いつまでたっても彼らに「勝てない」のだ。)

 その結論を受け入れる人間の側が、知識や文化的背景、歴史状況によって変化しているため、受け入れやすいようにその時々で化粧直ししていたわけであり、その化粧をバッサリおとすことによって、キリスト教は本質的に致命傷は負わず、むしろ積極的によい影響が長期的に現れてくるであろう。

 キリスト教に比べて、はるかに甚大な打撃をこうむったのは、その他の宗教だ。
 仏教にせよ、ヒンズーにせよ、儒教にせよ、その根拠となるものは、もはやない。

 もともと絶対的思想ではなく、便益的手法で倫理を確立する手法をとっていたがゆえに、化粧を落とし始めるととどまる最終ラインがないのである。
 あるとしてもそれは、信じようとする自分自身にすら無意識の反発をまねくものになりかねない。
 (つまり神経症的狂信にならざるをえない)
 いわば、個人的な自己絶対主義の袋小路に入ってしまいかねない。
 戦前日本を支配した尊王思想(朱子学の日本的変形思想)は思想としての正統性を早々と失った。根無し草の思想は,社会を機能させる能力を失って内部では硬直化し,外部からの干渉に対処もできなくなって,自滅同然に滅ぼされてしまった。この例はけっして珍しいものではない。

 これらの宗教が,自己の正統性を再び主張できるような画期的打開策が見つかる可能性は,否定できない。
 が、そうでない限り、過去の惰性のみが唯一の存在基盤となり、長期的に苦しい立場にどんどんと追いやられていくと予想可能である。
 これはゆるやかな解体過程に他ならず、どうか重大なトラブル(文化的戦争)なく、あるべきところにあるように、ソフトランディングできるよう、祈るのみである。

 イスラムについては、少々事情が違うと思われる。
 いまだに過去の化粧にこだわっているがゆえに現代化できず、苦しんでいるのは仏教など同じであるが、絶対神を基盤とする点においては徹底的転覆はない。
 また、キリスト教の福音書を聖典として採用してきた歴史も受容を可能にする要因と思えないこともない。
 いわば道はひらかれているわけであり、イスラムが急速に現代化できる可能性はある。
 現在、もっとも中世的宗教体制なのはイスラムであり、そのため現代の大波にもっとも対応が遅れているように表面的には見える。
 だが、長期的には現代とイスラムの和解はありうると思いたい。
(蛇足だが、石油資源がたまたまイスラム世界に集中してしまったというのはなんという、アッラーの恵みであろうか。石油資源と、第2次世界大戦の反省による帝国主義の抑制がなければ、現代におけるアラブの世界的存在、世界的影響力などは皆無のはずである。
 この場合、19世紀的帝国主義の単なるカモとして、あるいは見るべき価値なき後進地方という存在に、たちまち転落したはずである。神様は不思議なことをすると、つくづく思う)

 そして最後に、特殊ケースとして日本をあげたい。
 日本には尊王思想の下層に,堅固な伝統思想があったゆえ,社会の完全崩壊をせずに,スムーズに外装を脱ぎ捨てることができた。
 この思想は『日本教』という一見見えない宗教の一種であるとしてベンダサンが発見し、小室直樹氏が体系を整理したものだ。(詳しくは『日本教の社会学』講談社刊を参照ください。)

 日本教が存在するがゆえに、日本は現代の大波を無事すり抜けたように見える。
 でも、問題は他の宗教と変わらず、実のところはケッコウな迷走を行っているのが最近明らかになってきている。
 この見えない宗教というのはタチが実に悪い。始末に困る。
 日本は現代の先端を突っ走っているように見える。
 事実、たいした力量で,現代の担い手として,欧米と共に中心勢力の一翼をになっているがゆえに困るのである。

 日本はいわば平走している、あるいは先をゆく欧米の姿を目にして必死で足を動かしている。時にはおいつき、追い抜く時もある。たいしたものである。
 ところが。 ところがである。
 日本人はだいたいにおいて、『現代』を理解していない。
 日本教の特徴でもあるが,「自己を律する原理を自己把握しない」という手法をこれまでとってきたがゆえに、である。

 もちろん絶対神を思想のコアにおくなどという芸当は考えたこともない。
(これも世界的に実に珍しいことであるが・・)

 したがって、欧米のランナーが走っているトラックが見えていない。
 追いつき、追い抜いたと思った瞬間、自分の走るべきトラックがなくなり、壁に激突するわけである。
 感心と驚嘆をもって日本を見ていた欧米は、その瞬間、ボウゼンとして、失礼だからイケナイと思いつつも失笑してしまうのだ。(ナンダコイツハ…。なんか変だゾ。)

 その典型的な例が幕府の崩壊であり、太平洋戦争であり、また現在の日本全体の構造疲労であろう。
 いずれもその前に戦国時代、日露戦争の勝利、高度経済成長+バブルと、世界を震撼させるに十分な力量をしめして、『恐るべき競争相手』と欧米をすら本気にさせるのに、トップとして、ではどう振舞うか注目していたら、見事に自滅してくれるのだ。

 トップとなるまで、あらゆる努力と手段を極めて巧妙に使えるのに、トップとなったとたんに陥る独創性のなさと、判断力のなさは、マイナスの意味で不可解というしかないではないか。
 その原因もようやく解明できてきたのは小室直樹の業績によってなのだが、ではこれから日本はどこへいくのか。
 永遠なるセカンドランナーとして世界史の脇役、敵役にとどまるのか。
 私ごときにわかろうはずもない。
 ただ、この状況を客観的に見た場合、「それでもいい」と思える日本人は少ないと思いたい。
 日本は日本教があるがゆえに日本なのであり、平行ランナーとして無敵の実力を持つことができる。
 この肝心なところで構造的失敗を繰り返す自らの姿を見て、シラケテしまえば日本教は腐食をはじめる。
 次の世代に日本教をコピーできなくなる。そうなれば突出した経済力が維持できなくなる可能性は高いのではないだろうか。
 日本教も結局は過去の遺産に頼っているわけであり、その伝統を再把握して、再徹底して、再生しようにも根拠が失われているのは、他の多くの宗教と同じといわざるを得ないのだ。

 ただし、日本の将来は暗いと決まったわけでもない。
 日本には日本の役割があり、それはこれまで十分に果たしてきている。
 今後も、世界史に貢献できることはいくらでもある。
 なにしろ、日本ほど平和的な歴史を耐えてきた文化圏はないのだ。
 (昨今の社会不安、治安悪化になすすべがなさそうに見えるのは不安だが)

 地球という世界は、徐々に単一の地域としての輪郭をとり始めている。
 統一された地域から戦乱が減少するのはごくありふれた現象である。

 そこから考えると従来型の戦争はどんどん起こりにくくなるはずであり、事実、なっているようにも思える。

 平和な社会にいかにして適応するか。
 (どうせ他の思想もすでに根拠はないのだ)
 たとえ根拠はなくとも,日本教のすぐれた特性はあえて捨てる必要はないのである。
 

 1998/12/10


 

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