●ユージン・オーマンディ・クロノロジー

1899 11.18.
  イェーネ・ブラウとして、ブダペストに生まれる。父ベンジャミンは歯科医でアマチュアのヴァイオリニスト。母ロザリー。幼少時から父にヴァイオリンの手ほどきを受ける。

1905 5歳のとき、ブダペスト王立音楽院に入学、コダーイに作曲を学ぶ。

1908 9歳のとき、名匠イェーネ・フバイにヴァイオリンを師事。

1914 学士の称号を得る。

1916 ヴァイオリン演奏で国家ディプロマを取得。

1917 ヴァイオリン教授の資格を得て、王立音楽院を卒業。

1917-21
  ヴァイオリニストとして、リサイタル、オーケストラとの共演を開始。ブダペスト国立音楽学校教授に就く。ブリュットナー管弦楽団との共演で、メンデルスゾーン、ブラームス、ヴュータンの協奏曲を弾いてドイツ・デビュー(一時期同1917-22オーケストラのコンサートマスターもつとめる)。

1919-21 フバイの引退に伴い、王立音楽院のヴァイオリン科の主任教授に就任。

1921
  オーストリア・ツアーで成功を収めた後、アメリカへ渡る。ツアーは行われず。ニューヨーク・キャピトル劇場のオーケストラのメンバーとなる。すぐにコンサートマスターに就任。

1922
  最初の妻、ステファニー・ゴールドナー(NYフィルのハープ奏者)と結婚。

1924 9月
  急病の指揮者の代役としてキャピトル劇場のオーケストラを指揮、チャイコスフキーの交響曲第4番の一部を演奏。これがオーマンディの「指揮デビュー」。

1926
  キャピトル劇場の準指揮者に任命される。アンナ・ダンカンのダンス・リサイタルのために、NYフィルのメンバーを指揮して、初めてカーネギーホールに登場。

1927
  アメリカ国籍を取得。アーサー・ジャドソンと契約。キャピトル劇場を離れ、CBSラジオの放送コンサートでの指揮を開始。

1930 ルイゾーン・スタジアムでニューヨーク・フィルを指揮。

1931 ロビンフッド・デルでフィラデルフィア管弦楽団を初めて指揮。

1932 10.30.
  トスカニーニの代役として、フィラデルフィア管の定期演奏会にデビュー(ブラームスの交響曲第4番、R,シュトラウスの「ティル」「ばらの騎士」)。

1931-36 アンリ・フェルブリュッヘンの後任として、ミネアポリス管弦楽団の指揮者に就任。

1934 ミネアポリスでのRCAへの初録音。

1936−37
  ストコフスキーとともに、フィラデルフィア管の共同指揮者となる。10.9シーズン最初の演奏会(バッハ=カイエ編の主よ、人の望みの喜びよ、シューベルトの交響曲第9番ほか)。フィラデルフィア近郊のグラドウィンに居を構える。12.13.フィラデルフィア管とRCAへの初録音(チャイコフスキー:悲愴交響曲)[RCA第1期]。

1938-39 フィラデルフィア管の音楽監督に就任。10.7 シーズン最初の演奏会(シューマン:交響曲第2番、シベリウス:トゥオネラの白鳥、レスピーギ:ローマの松)。

1939 作曲者を迎えてのラフマニノフ・チクルス開催。12.29.タンスマンのヴィオラ協奏曲アメリカ初演。
1940 シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲世界初演(クラスナー、vn)。

1941 1.3.
  ラフマニノフの交響的舞曲世界初演。1.17.F.シュミットの交響曲第2番アメリカ初演。2.7.バーバーのヴァイオリン協奏曲世界初演(スポールディング、vn)。。

1942 1.16.ブリテンの「ディヴァージョンズ」世界初演。

1944
  フィラデルフィア管初のオーストラリア・ツアー。コロンビア・レコードに移籍。11.19.コロンビアへの初録音。

1945
  11.16.ミヨー「ヴァイオリンとオーケストラのための組曲」世界初演。
  11.30.マルティヌーの交響曲第4番世界初演。

1946 2.8. バルトークのピアノ協奏曲第3番世界初演(シャーンドル、pf)。

1947
  最初の妻ステファニーと離婚。12.5.バーバーの「メデア」組曲世界初演。12.13.ブリテン「青少年のための管弦楽入門」アメリカ初演。

1948
  3.19.ラフマノノフの交響曲第1番アメリカ初演。3.21.初のTV放送に出演(CBSでのラフマニノフの交響曲第1番)。夏、ハリウッド・ボウルの音楽監督をつとめる。マーラーの「一千人の交響曲」、プッチーニの「蝶々夫人」などを指揮。12.31.アンタイルの交響曲第5番世界初演。

1949 フィラデルフィア管初のイギリス・ツアー。

1950
  2番目の妻、マーガレット・ヒッチ(「グレーテル」)と結婚。12.11.ヒンデミットのクラリネット協奏曲世界初演。

1952  12.5.メノッティのヴァイオリン協奏曲世界初演。

1955  フィラデルフィア管とのヨーロッパ・ツアー。

1956  10.5.V=ウィリアムスの交響曲第8番アメリカ初演。

1957  9.27.プロコフィエフの交響曲第4番(改訂版)西側初演および録音。

1958  フィラデルフィア管と初のソ連ツアー。

1959 11.6.
  ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番アメリカ初演(ロストロポーヴィチ、vc)、および世界初録音。12.2.バルトークのヴァイオリン協奏曲第1番アメリカ初演

1962
  2.16.チャイコフスキーの交響曲第7番西側初演。5.25.ウェーベルン「夏風の中で」世界初演。

1963 2.15. ショスタコーヴィチの交響曲第4番アメリカ初演。

1965
  2.18.ヒナステラのハープ協奏曲世界初演(ザバレタ、hp)。11.5.マーラーの交響曲第10番(クック版)アメリカ初演および録音。

1966 4.14.
  ウェーベルン「管弦楽のための3つの小品」世界初演。4.27.團伊玖磨の交響曲第4番アメリカ初演。 

1967 5.3.-5.19. 最初の日本ツアー。

1968 コロンビア・レコードを離れ、RCAへ復帰[RCA第2期]。

1971
  1.10.W.シューマンの交響曲第9番世界初演。11.7.バルトークの「管弦楽のための4つの小品」アメリカ初演および録音。

1972 1.16. ショスタコーヴィチの交響曲第13番ソ連外初演および録音。

1971 1. 1. ショスタコーヴィチの交響曲第14番アメリカ初演および録音。

1972 5.16.-5.27. 2度目の日本ツアー。

1973 フィラデルフィア管との中国ツアー。

1972
  9.28.ショスタコーヴィチの交響曲第15番西側初演および録音。8.25.ピアノ協奏曲「黄河」西側初演。

1976 8.4. メノッティの交響曲第1番世界初演。

1978 2月、EMIへの初録音。5.17.-6.3. 3度目の日本ツアー。

1979 4.16.初のデジタル録音(バルトークの「オケコン」)。

1980
  2月、テラークへの初録音。5.3.フィラデルフィア管の音楽監督として最後の演奏会。「ユージン・オーマンディ賞」受賞、音楽監督の地位を勇退、桂冠指揮者の称号を贈られる。12月、RCAへの最後の録音。

1982 4月、デロスへの初録音。 5.31−6.2.4度目の日本ツアー(ムーティとともに)。

1982
  5月、最後の録音(ヨーヨー・マとのショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番。ソニー)。9月、ロッテルダム・フィルのヨーロッパ・ツアー。

1984 1.10.
 フィラデルフィア管と最後の演奏会(カーネギー・ホール。ベートーヴェンの「田園」とバルトークのオケコン)。

1985 3.12. フィラデルフィアで死去。享年85歳。

※オーマンディ夫妻には子供が無かったため、マーガレット夫人が1998年に亡くなってからは、その遺品はペンシルヴァニア大学に寄贈された。同大学の図書館の中には「ユージン・オーマンディ・リスニング・センター」が設置され、オーマンディの所持していたレコード、テープなどの録音物を聴くことができるようになっている。また、オーマンディが実際に使っていたスコアやパート譜は丁寧にカタログ化されており、所定の申し込み手続きをすれば閲覧することが出来る。

University of Pennsylvania : Eugene Ormandy A Centennial Celebration
  University of Pennsylvaniaの図書館による、Eugene Ormandy生誕100周年記念企画。本文・写真ともに非常に貴重で興味深いものばかり。Pennsylvania に行ったら(いつ?)必ずここに行きましょう。
  
    Caricature by Al Hirschfeld,ca.1970

アカデミー・オブ・ミュージック
  タンチンさん主催のページ。「証言!フィラデルフィアサウンド」は必見。私も含めて生演奏を聞けなかった方は、これを読みながら残された録音聞いて、今は失われたサウンドに思いを馳せましょう。
  また、「ユージン=オーマンディの生涯」は「オーマンディって、名前は聞くけど良く知らないな・・」という方には最適な入門文章ですのでご一読をお勧め致します。



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