空想歴史小説「仁=GIN(ジン)」


                 空想歴史小説「仁=GIN(ジン)」

2011年6月のその日、私は、ライブ終了後の打ち上げの飲み会で、チェーサーの水と間違 えて、アルコール度数の高い酒を一気に飲んでしまったらしい。“あ、これは違う”と気が付 いたときはすでに遅く、しばらくすると、スーッと吸い込まれるように気を失ってしまっ た・・・・・。

ふと気が付くと、周りの様子が変だ。アルコールのせいでガンガンする頭を奮い起こして 目をこらすと、私を取り囲む人たちは頭に髷(まげ)を乗せ、和服を着ている。へー、髷ってこんな になってんだ、月代(さかやき)ってのは、ちゃんと剃らないと毛が生えて見苦しいな、 って、え、髷?本物??
「お、気がつきなすったようだね。でえじょうぶかい」
「あ、はい、いえ・・・あのー、ここはどこなんでしょうか」
「どこって、ここぁ三味線の稽古場でさぁ。お前さん、どっからともなく現れて、みんなの 中に倒れこんで来なすったんで、ビックリしやしたぜ」
「三味線の稽古場?あのー、今はいつなんでしょうか」
「いつ?さあ、もうかれこれ、暮れ六つを打つころかな」
「いえ、そうではなくて、時代は、そのー、年号は?」
「年号?・・ってのは嘉永のことですかい、じゃ今は、嘉永六年の六月でさぁ」
「嘉永?って、ひょっとして江戸時代?!」
「江戸時代?たしかにここは江戸だが、江戸時代ってえ言い方は初めて聞きやすぜ。それ にしても、お前さん、妙な格好なさってやすが、ひょっとして、黒船で来なすったんじゃ」
「黒船?」
「ええ、今、浦賀じゃ黒船が来たってんで大騒ぎでさぁ。ペルリってえ鬼みてえな顔をし た大男が幕府に脅しをかけてる、ってね」
頭が混乱してきた。嘉永という年号はよくわからないが、ペリー来航は『いやでござんす ペリーさん』だから1853年、幕末の頃だ。いったいどうなってるんだ。これはメンバ ーの仕掛けたドッキリか、それとも、まさか、タイムスリップ?

「しかし、お前さんはどう見ても日本人だが、名前はなんと言いなさる」
「私ですか、私は、南片、南片仁(ジン)です」
「ふーん、仁さんでやすか。・・・ところで、その、手に持ってるのは、奇妙キテレツな形 をしていやすが、いったいそれゃ何でやす?」
言われてハッと気が付いた。左手にトロンボーンを持っている。そういえば、打ち上げの とき、みんなでシーデキ(デキシーランドジャズの略)を演奏しながら飲んでいたんだっ た。
「こ、これはその、トロンボーンという楽器です」
「渡来モーン?確かに渡来モンにゃ違ぇなさそうだが。楽器ってえからには、音が出るん でやしょ。ちょっとやってみておくんねえな、なあ、みんな」
自分が今どんな状況下にいるのか、ゆっくり考えているヒマはない。とにかく、なんとか この場を乗り切らなくては。
「はあ、それじゃ・・・プッププププァ、プワーッ、プッププププァ、プワーッ」
「ハハハ、こいつぁ面白れえや。ホラ貝みてぇな音だが、それとも違う、なーんか、ウキ ウキするような音でござんすね・・・そうだ、あっしの三味線と合わせてみやしょうか。 今やった音のカラクリを、ちょちょっと教えておくんなせえ」
「カラクリ、というか、そうですね、じゃ三味線で音を出していただいて・・・あ、その 音と、その音、それから・・あ、弦が3本しかないのか、じゃ、その音。それをジャ、ジ ャと、いっしょに鳴らしていただけますか・・・そうそう。それをリズム、じゃないか、拍 子に合わせて4回、また4回・・・次はこの音と、この音と、この音で・・・」
「へー、こうですかい・・・なんとも奇妙な、南蛮風な音になりやすね。今日はお師匠さ んがいねえからいいが、こんなとこを見られたら破門ですぜ」
「あ、そうだ、周りの皆さんは手拍子を打っていただけますか、こんな具合に・・ン、パ。 ン、パ。ン、パ。ン、パ」
「へえー、ン、のときじゃなくて、パ、のときにですかい。じゃ、こうか。ン、パ。ン、 パ・・・こりゃ難しいや。難しいがおもしれえ」
「じゃ、みなさんでいっしょにやってみましょう。いいですか、ヒー、フー、ミー、ヨー、 ハイ、
Oh, when the saints go marching in、Oh, when the saints go marching in・・・
はい、もう一度・・・」
驚いたことに、何回も繰り返すうちに、三味線は、リズムを刻むだけではなく、メロディ とは別の自由な旋律、つまりアドリブ演奏を始めた。また、手拍子を打つ人たちは、歌詞を 覚えて歌い出し、ある者はアフタービートのリズムに乗って、稽古場の中をグルグル回り ながら踊りはじめた。
「おーうぇんざせいん、ごーまちーにん、おーうぇんざせいん、ご ー、まーちーにん・・・」

ひとしきり盛り上がったところでやっと騒ぎが収まった。
「ああ、こりゃ愉快だ。お前さん、面白いことを知ってなさるね。ところで、いったいこ りゃ、なんてえ音曲(おんぎょく)です?」
「これはですね・・」
ジャズという音楽です、と言おうとして、はたと口をつぐんだ。
アメリカ南北戦争が終わるのが1865年、その後、軍楽隊の楽器の流出、奴隷解放、ニ ューオリンズの繁栄などがあって、1897年に区画されたストーリービルという娼婦街 から、徐々にジャズが芽生える。ところが、今はまだ1853年、アメリカでもジャズが 生まれていない時だ。それなのに、今この日本で私がジャズを広めたとすると、ジャズの 歴史はいったいどうなってしまうんだろう。2011年の私は、いったい何を演奏するこ とになるんだろう・・・。
いや、しかし、ここで私が頑張ってジャズを広めたとしたら、将 来のジャズ史において、私の名前が永遠に記録されることになるのではないか。そうだ、“神 は乗り越えられる試練しか与えない”。これが運命なら、運命に従うしかないのだ。 「これはですね、ペルリの国アメリカで、将来生まれることになる、ジ、ジャ・・」
そのときだ、猛烈な痛みが頭を襲ってきた。
「・・ウ、ウウウ、頭が、頭が割れるように痛い!」
「おい、どうしなすった、しっかりしなせえ。おい、誰か竹庵先生呼んでこい!」
頭の痛みはますますひどくなり、やがて薄れていく意識の中に、江戸弁の喧騒と鬢(ビン) 付け油の臭いだけが、かすかに残り続けた。しかし、次第にそれも感じなくなり、ついに 完全に意識がなくなった。

ふと気が付くと、バンドの連中がぐるりと取り囲む中、ひとりソファの上に横たわってい た。ウッ、まだ頭が割れるように痛い。
「あれ、ここは江戸か?今は嘉永か?そうだ、三味線の兄さんはどこに行った?」
「おい、何を言ってんだ、しっかりしろ」
「・・・ん?俺、どうしたんだ?」
「お前、急性アルコール中毒でブッ倒れちまったんだよ、あんまりムチャすんなよ」
「急性アルコール中毒?・・・じゃ、さっきのは夢か?しかし、確かに三味線の音が 聞こえたんだが」
「三味線?そりゃ、バンジョーの音だろ。さっきまでみんなでシーデキやってたからな」
「しかし、鬢付け油の臭いもしたし」
「そりゃ、髪のパフォーマンス用に相撲部屋から借りた、鬢付け油の臭いだ」
「そうか、じゃ、やっぱり夢か・・・あ、俺、南片仁、だよな」
「バカ、お前は南片凡太郎、ステージネームは南片ペルリだろ、自分の名前も忘れたのか」
「そうだっけ」
なんであのとき、仁、なんて名乗ったのかな・・・。
ガンガンする頭をかかえながら、水を 飲みにソファを降りた。メンバーのひとりが冗談ともつかない口調で言った。
「おい、水と間違えて、またそいつを飲むんじゃないぞ」
え、水と間違えて?ということは、あのとき飲んだのは、これか。
ミネラルウォーターの横にある、その酒のビンを手に取ったとき、ああ、あれは夢ではなく、 神様のいたずらだったんだ、と思った。
そのビンに書いてあった酒の名前は・・・「GIN(ジン)」


注)この物語はフィクションです。この世に存在する全てのものと一切関係ありません。なお、
ジンは主にカクテルのベースとして使われるアルコール度数の高い無色透明の蒸留酒です。