三都物語 この年の3月ぐらいだっただろか、雑誌ブルータスで「三都物語」という特集があった。ウィーン、プラハ、ブダペストの3都市の特集で、読んでいるうちに、行ってみたくなった。当時東側という国は、西側に比べて情報が少なく、個人旅行ができないと漠然と思っていたため、私の行きたい国の対象ではなかったが、調べていくうちに「可能」であるとわかってきた。そうなると、「そうだ、東欧へ行こう!」である。
それまで、東側の国々(ブルガリア、ユーゴスラビア)を通過したことはあるが、列車でのトランジットだったため滞在はしていない。ひたすら列車にのったままの通過であった。この時も東側の国は勝手に個人では降りれないと自分で決めつけていた。また、その時はアジアから入ってきて、西側に抜けるためだけしか考えていなかったせいもある。それならばと、ということで手配を始めた。ここでいくつかの問題が発生。
一つが航空会社の問題。大阪発は、南回りでこの3都に便を飛ばしている航空会社はなかった(メジャーは当然、対象外)となると成田発になる。次に時期、8月上旬〜中旬にかけてはディスカウントチケットが殆どない、パックツアーばかりである。
最終的に、 アエロフロート・ソビエト航空ブダペストinウィーンoutのチケットを手配した。しかし、それでも30万円した・・・ほんとこの頃は高かった。
イブス(=IBUZU・国営旅行社。当時東側は国営旅行社が旅行の手配を一手に引き受けていた。個人の手配は不可能に近かった。)で民宿を手配しようとした、列に並んでやっとの自分の番になりお金を払おうとしたら「両替したときのレシートを見せて」と言われ、「持っていない」と答えると「隣で両替してください」と突っぱねられ、のこのことまた両替するはめになった。空港での両替は"レシート"をもらっていなかったため証明ができない。つまり「闇両替」をしたと解釈されてしまったわけである。そして、また宿泊手配のほうに並ぶことになり、これだけで2時間。共産主義国家を旅しようとしたら根気がいるのである。
地図に×印をつけてもらい、路面電車に乗り指定してところで降り、番地を頼りに歩いたが、ホテルらしきものはない。通りを行ったり来たりしていると、マンションの上から声がした。言葉は全くわからなかったが、ボクに声をかけているのは理解できた。見上げると女性が手招きして上がってこいという仕草をした。呼ばれるままにマンションを上がっていくと、家の中に招き入れられた。そして、その女性はジェスチャーで何かを伝えた。そこで、はたと思い立った。旅行社で貰った宿泊のバウチャーを見せた。どうやら正しかったようだ。(^^)
彼女は微笑んで、奥の部屋に案内してくれた。そこはまさしく「民宿」であった。普通の家が、空いた部屋の一室を旅行社と契約しているのである。おそらく、旅行社からは「右も左もわからない東洋人が行くからよろしく」というような連絡が入っていたのだろう。その家族構成は夫婦と6才と1才の子供だった。4日間、まるで居候状態だった。子供と遊び、主人とワインを飲んだ。言葉は全く通じなかったが、気持ちよく過ごさせてもらった。
さて、ブダペストの街だが、「ドナウの真珠」と呼ばれるだけあって、美しい街だった。なぜか、ただ、ドナウ川は「蒼い」という訳ではなかった。川面は茶色で「何が『蒼きドナウ』だと言いたかった」が、夕刻ゲレルトの丘から見たドナウ川は確かに蒼かった。空の色を反射して、たしかに『蒼』だった・・・
マーチャーシー教会、漁夫の砦などをまわって、一番気に入ったのは「温泉」だった。街中いたるところに温泉が湧いていて、毎日、ルダッシュ温泉にタオル一本持って浸かりにいっていた。番台(?)で褌を借りて、サウナと大きな浴槽、そしてマッサージと毎日、極楽だった。向こうでは温泉は「病気治療」の目的があるのだが、温泉の国から来た旅人にとっては湯につかることは極上の楽しみの一つである。
そうこうするウチにプラハへと移動する日が近づいてきた。そして、この頃になると、ストレスが溜まってきた。それは、言葉。
この切符を手に入れるのも一苦労であった。中国での切符購入を思い出させることとなった。窓口をたらいまわしにされ、その上、別のビルに行かされ、そこでやはり元の窓口を案内され・・・結局、最初の窓口で買うことができた。
そして、プラハ到着。ここでも、チェドック(=Chedok・国営旅行社)に行き、両替でレシートをもらい、宿の手配をした。この国は強制両替があるため(ベルリンの壁と湾岸戦争
参照)100DM両替した。(例の旅行者と交換したドイツマルク・・・)そして、コルナ(1Cr=5円)で泊まれる民宿を紹介してもらった。ここまで2時間。こちらもブダペスト同様、一般の家であったが、こちらは離れだったので民宿の人とはほとんど合わなかった。最初と最後の鍵の受け渡しの時だけだった。
プラハはさすが「千塔の街」と呼ばれるだけあり街中「塔」があり、中世の匂いを色濃く残した街並みである。路地を一歩入ると石畳の薄暗い細い道。一気に中世に引き戻される感覚になる。アルフォンヌ・ミシャの描くアールヌーボーのポスターもこの空気の中で画かれたのだろう。ビールとライ麦パンが似合う街である。
ここで、一つ"怖い"経験をした。ボクが悪いのだが、町外れで兵士達が休息していて、ここで共産主義国家ではやってはならないことをやってしまった。兵士を写真に撮ろうとした。カメラを向けた瞬間、兵士は立ち上がり、ボクを指さして言葉を発した。そして、その横で一人の兵士がマシンガン(おそらくAK-47か・・・)を構えての銃口をボクに向けた。その意味をすぐに悟った。パスポートを調べられ、しばらくしてからやっと開放された。何が怖かったかといえば、銃口を見た時だった。「黒く光る銃口」という言葉が小説でよく使われるが、そのとおりだった。それと「撃たれる」という感覚。足がすくんで動けなかった。
さて、すでにこの時点で日本語をしゃべらない日が8日、そして英語で会話をできたのは2日。つまり6日間は全く会話をしない日が続き、欲求不満がピークに達した。ともかく日本人に会わない。おそらく、ツァーで来ているはずなのだが、西側と違い、数が少ないのだろう。殆ど会わなかった。また個人旅行者もいるはずなのだが会うことはなかった。
千塔の街プラハを後にして、ウィーンへ。ハプスブルグ家の栄光を残す街。空気が変わった・・・。資本主義の空気。何かホットするものがあった。宿探し、両替、何をするのも制約を受けないというのはありがたかった。
なによりうれしかったのは、ポーランド、チェコ・スロバキアを抜けてきた日本人と話ができたこと。お互いストレスが溜まっていたため久しぶりの開放感だった。さすがにここまで来ると日本人旅行者も多く、観光名所と名のつくところにはツアー客、新婚旅行と思われる観光客も沢山見かけた。そして物価も上がった。ハンガリー、チェコ・スロバキアと比較して5倍ぐらい上がったような感覚であった。ドイツから来た日本人旅行者は、オーストリアは物価が安いと言っていた。う〜む・・・
街中はアールデコなどの建築様式で魅力的な建物がが多いので満足(^^)
そして、3年後、再びこの地を訪れた。( ベルリンの壁と湾岸戦争
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1987.8.3 〜8.15 |