紅茶とビターと倫敦と


早朝、田園風景に機影を落として シンガポール航空(SQ) ロンドン便はヒースロー空港に着陸態勢に入った。トランジットを含めて20時間以上も乗っていたためにいささかグロッキー状態であった。「二度と南回りなんて乗るか!」と思ったが、この後ヨーロッパに来るたびにシンガポール航空を利用することになる・・・(^^;;

 就職して2年目、新入社員の頃は余裕がなく2年目にしてやっと気持ちにも金銭的にも余裕ができて海外脱出が計画できた。それでも学生の頃と違い、夏休みの調整で出発日時が確定できない、期間が9日間と短い、航空運賃がピーク時期なのを承知で購入しなければならないなど、制約の多い中での出国となった。後に回数を重ねることに手配のしかたも上手くなってくるが、この時はまだ「社会人の海外旅行の手配」の要領がつかめてなく、8月5日出発、13日帰国と日を限定したうえロンドン往復でないとダメ、運賃の高いメジャーはダメ等融通のきかないオーダーをしたためなかなかOKが出なかった。バンコクや香港での海外発券は利用したこともあり買い方も知っていたが、今回はそれを買う時間がないというのも事実だった。

 今なら「5日を第一希望としてその前後の出発で取れる日、帰国は13日を第一希望でその前後の日、ロンドンがだめならパリでもフランクフルトでもかまわない、そこから陸路で行くから・・・」というオーダーでそれも夏休みの見当をつけて早い時期から名前を入れてもらうことなど要領を得たやり方で手配してしまうのでほとんど希望どおりのチケットを手に入れることが可能なのだが、この頃は経験不足のためそのような考えには至らなかった。やはり経験は必要ですね(^^)

 それと航空運賃が安くなったこと。この時の大阪−ヨーロッパの8月上旬のディスカウントチケットでSQで293,000円、JALやBAやLHなどのメジャーだと40万円していた。それが、1996年8月上旬だとSQで約150,000円、BAなどのヨーロッパ系で約230,000円など1994年4月の航空運賃の改訂により逆に安くなるという現象が起こっている。10年前と比べて半値近い値段である。関空ができたことにより便の絶対数が増えたという影響もあると思うが、ともかく安くなったというは嬉しいかぎりである。

 さて、ヒースローに無事到着。しかし、こんな長い時間飛行機に乗るのは初めてだったので、寝不足と時差ボケと疲れで空港を出たときのはボーっとした状態だった。UNDERGROUND(地下鉄)に乗りビクトリア駅に向かった、その裏手にあるB&B・PYMSHOTELに部屋を取った。ここにはイクコさんという日系(もしくは日本人?・・・今も知らない)と旦那のJHONという夫婦で切り盛りしている良い宿である。朝早くだったが、チェックインさせてもらえとりあえず休憩。食堂で紅茶を飲み「やっと着いた」という実感を得ることができた。 

 日本ではほとんど紅茶なんか飲まないのに、英国に来ると紅茶ばかり飲んでいる。駅構内の立ち飲みの20ペンス(=70円)の紅茶でさえ美味しく思えてしまうから不思議である。食堂の鏡を見ると、飛行機疲れと時差ボケで疲れた顔をしている自分が写っていたが同時にそこにはホッとしている自分自身があった。日常、平日は広告営業、土日はイベントと仕事に追われ、学生の頃みたいに「好きなことを好きな時間にやる」ということができなくなり、忙しいのが当たり前みたいになっている自分があった。久しぶりに仕事からはなれ、一人になることができた。これ以降、毎年海外に行くことになる。特に夏休みは”行くのが当然”という感じになる。海外に行くのが好きなのと好奇心もあるが、もう一つ、自分自身を仕事から切り離せられるということも大きかった。これ以降1996年までに約20回ぐらい海外旅行に出かけているが、その原点はB&Bの鏡に写った自分の姿があると思う。

 紅茶を飲み終え、街に出た。何処へ行こうかと思いつつグリーンパークをブラブラしていた。時差ボケで身体が重い。

 ベンチでうつらうつらしていると、リスが足下に現れた、ネズミかと思ったが、尻尾が立派なのでリスなんだと、なんの脈絡もなく結論に至った。ちょうど機内食の残りのクラッカーがあったので、ちらつかせてみたら寄ってくる。「こりゃ、面白い」と手持ちの機内食の残りを全部出してみた。クラッカー、バター、チーズ、塩、胡椒、飴。さすがに塩、胡椒は無理だが、後は全部食べるのには驚いた。飴をカリカリ囓るのを見ていると、「喉詰めるなよ!」と言いたくなってきた。リスって雑食性だったんだ・・・!!

さて、リスとひとしきり遊んだ後、UNDERGROUNDに乗り、アビーロードのEMIスタジオに向かった、あのBeatlesのABBEYROADのジャケット写真になった横断歩道を渡りEMIスタジオを眺めて、スタジオの階段に座ってみたり、近くをブラブラしていた。そうして、ボクの身体の中にやっと旅の感覚が戻ってきた。普段は1分も惜しいような生活だが、旅にでて時間が流れるままに過ごす感覚。本や音楽がなくても時間をつぶしていくことができる感覚。やっとその感覚が戻ってきた。

 さて、お昼、イギリスに来たらPUBに行かなければならない。これは、旅行者として当然の努めである(^^) 時差ボケで食欲がなく、ともかくビール!ということで手近のPUBに飛び込み。カウンターで「A paint of bitter,please!」と一言!1パイントグラスにつがれたビターが出てくる。通常のピルスナービールと異なり泡立ちがなく、苦みが強くて、冷えていないけど・・・でも病みつきになってしまう。カウンターにもたれかかって飲んでいると、サラリーマン風の人がサンドイッチやパイとビールで昼食を取っている。地元の人らしきお爺さんがゆっくりとビター飲んでいる。おそらく毎日繰り返されている光景なのだろう。その中に一人異質の者が紛れ込んでいる、ひよっとしたら今ボクがもたれているカウンターのこの場所もいつもなら誰かの指定席なのかもしれない。ゆっくりとビターを飲み干すとPUBを出た。

 さて、どうしよう?今回の旅行の目的というのはとりたててなく、なんとなくヨーロッパ、なんとなくロンドン、ともかく海外脱出という感じで決めたので、ロンドンで何々をするという目的はなかった。中心部のピカデリーサーカスにでて、市内観光バスに乗り込んだ、これは、2階建てバスの2階部分の屋根を取り外してオープンにしたものである。3£(=1050円)払って2回の最前列に乗り込んだ。ビクトリア宮殿、ビッグベン、ロンドン塔、セント・ポール寺院、トラファルガー広場と市内名所を回っていく。これまでは、観光バスツアーなんてお上りさんのする事であって、ボクには関係ないと信じていた。どの国に行っても乗ろうと思わなかった。まぁ、お金がなかったというのもあったが・・・しかしボクも間違いなくお上りさんの1人である。乗ってみると土地勘はつかめるし、2階建てのバスだから視点が変わって道路から見上げるのと違うし、時間つぶしにもなるし、「こりゃ、いいわ」と素直に思った。

 さて、夕方になってきて猛烈に眠くなってきた。日本時間では午前1時、その上機内では殆ど寝れなかったので睡眠不足状態。でも、これで寝てしまうと明日以降がきついということもわかっている。ここは我慢我慢・・・夕食はFish&Chipsに塩とビネガーをザブザブふったのをテイクアウトして、ハイドパークのベンチで夕食とした。もう8時になろうかというのにまだ充分に明るい。そしてPUBでビターを飲んで、ホテルに戻りバタン・・・

翌日以降は、気ままにベイカーストリートでホームズを忍び、大英博物館で一日中、大英帝国の略奪品の数々を鑑賞していた。

バッキンガム宮殿では衛兵の交代よりそれを見物する人をみているほうが面白かった。

またある日は日がな一日ロンドン動物園で時間をつぶしていた。
何かしなくてなならない事はなくのんびりしたものである。

 とある昼下がり、ロンドンブリッジのたもとで指を油だらけにしてFish&Chipsの昼食をとっていた。その前をボーイスカウトの団体が通りかかった。その中でボクとおない年ぐらいのリーダーがボクに「写真を撮ってもらえませんか」と声をかけてきた。写真を撮ってあげて、「ロンドンのボーイスカウトですか?」と声をかけた。
年配の方が「いいえ、イングランドの北、マンチェスターから少し西に行ったのバリーという町の団です。ロンドン郊外にあるギルエル・パークにキャンプに来ました。」
「ギルエル・パークですか!ここから近いのですか!ボクも日本のボーイスカウトのリーダーをしています。(小学校からボーイスカウト活動にかかわっていた、就職してからも折りを見ては顔を出していた。)」と答えると、向こうも喜んで「ギルエル・パークはここから近いですよ。車で1時間かかりませんよ。どうですか、明日、キャンプ地に遊びに来ませんか?」と言ってくれた。

「もちろん、ぜひ行かせてもらいます。」と言って握手をして別れた。ギルエル・パークはボーイスカウト運動に関わった事のある人にとっては知らない人はいないはず。この地でベーデンパウエル卿がボーイスカウト運動を起こしたのである。まさしくイスラム教のメッカ、仏教のブッダガヤ、キリスト教のパレスチナと同様の聖地である。(おおげさな!!)
 彼らも子供達を引き連れててキャンプ地に行く前に市内観光をしていたのだろう。誘いを受けたことと漠然とした旅の中で目的ができたことが嬉しくなって、宿に戻った後、ガイドブックでギルエル・パークまでの行き方を調べたがわからない!イクコさんに尋ねると、「地下鉄のノーザンラインで終点まで行ってそこから212番のバスの終点からあるいて15分ぐらいよ、1時間もかからないから」と即回答が帰ってきた。へぇ〜みんな知っているんだ!

翌日、地下鉄、バスと乗り継いで、イクコさんの言葉どおり1時間もかからず到着した。途中庭仕事をしている人に道を聞いて10分ぐらいで到着。

受付で確認すると幾つかの団がキャンプをしている、広い敷地をウロウロしていたら、ボクに気がついた子供達が駆け寄ってきてサイトに案内してくれた。
 そこには、昨日「遊びに来ませんか」と誘ってくださった年配の方と最初に声をかけてきたおない年ぐらいの人がいた。握手をして改めて挨拶したところ、年配の方は団委員長のバーナード・マーシュ氏、おない年のほうはリーダーの長男のビル・マーシュ氏。
さて大人の挨拶の回りでは、子供達が好奇心いっぱいの顔つきで取り囲んでいる。バーナード氏が子供達に「この人は日本のボーイスカウトの方・・・」と説明をはじめると「わぁっ!!」と歓声があがり、子供達の輪に引きずりこまれてしまった。やっていることは、ほとんど日本のボーイスカウトと同じなので言葉は通じなくても、体を動かせば通じるということが有り難かった。しかし、質問責めには参った。ただでさえ弱い語学力の上、同じ英語でこうも通じないというのは・・・(^^;; お昼も一緒に食べて夕方まで彼らと動いて、遊んだ。
「泊まっていかないか」と魅力的な誘いがあったが、装備はないし(というか手ぶらだった)、ボクのために予定していたプログラムをこれ以上変更させるのも悪いので夕方には戻ることにした。ほんとに楽しかった(^^)

またマーシュ家の人達とは、この後もやり取りが続き、新婚旅行でもすっかりお世話になり( 新婚旅行もバックパック )、「イギリスの親戚」として今もつきあいが続いている。

 のんびりした1週間も終わり、帰国便に乗った。シンガポールに夜到着。シンガポールは全く初めてだったのと夜着ということもあり安宿ではなく50S$(=6000円)ぐらいのホテル(ホテル名忘れた)を空港で予約して、タクシーに乗った。
「××ホテルまで」
「日本人?シンガポールは初めて?」
「ハイ」
「女いらないか?」
「いらない」
「私の妹、美人よ、一晩100S$でいいよ」
「いや疲れているからいらない」
「そう・・・日本人好きでしょ。気が向いたらこちらに電話したらいい」と名刺をくれた。このことは「売春ツアー」真っ盛りの時代、アジアでは珍しい事ではなかったが、「ガーデン・シティ」「観光立国」と言われているシンガポールでも、このような誘いがあるとは驚いた。この国もアジアの1国であることを認識させられた。この後、何度もシンガポールに立ち寄るが、このような誘いはこの時だけである。(土産物の誘いはあるが(^^;; )
ホテルの近くのホーカーズで8日ぶりに焼飯(米)を食べたら感動してしまった。(^^)
 翌朝10時のフライトだったので朝早く空港へ向かったので市内観光はしなかったが、車の中から見たシンガポールは印象の薄い都市だった。
帰国翌日、何事もなかったように出勤した。
その日御巣嶽山にJAL123便が墜落した・・・・

1985.8.5〜8.11

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