そして再びの香港


 クリスマスイルミネーションに映えるスターフェリーに、「また、来たよ・・・」と挨拶した。1989年12月27日22:00。
前回香港を離れるとき「また来るよ・・・」と挨拶してから、わずか4ヶ月しかたっていない。

 前回香港から戻った直後、悪友amanoに電話した。「おい、香港ははまる!!。おまえも必ず行かなければならない・・・mustだ!」彼は電話の向こうで「う〜む」とうなっていた。そして一言「そうか!」。しかし、この時点では「行こう」という話にはならなかった。


 夏休みも終わり、会社で支社長と話をしていた。
「ogawa君、来年の社員旅行は香港と決まったよ」
「へぇ〜そうですか。あそこは面白いですから良いですね」
「そうか君はこの夏いってたんだね」
「面白かったですよ、また行きたいですね。支社長、年末にでも下見だてら行ってみますか?」と冗談半分で言った。
「そうか・・・私は海外へ行ったことがないが、ogawa君一緒に行かないか?」
「へっ・・・??・・・・本気ですか?」
「そうだよ!」
「・・・それでは手配しますけど・・・ほんとにいいですか?」
「アア、かまわない」ということでひょんなことから香港行きが決まってしまった。そこで悪友Aも誘い、社内の先輩が夫婦で参加ということで5名ということになった。前回と同じ飛行機、同じホテルということで手配は完了。
 とかなんとかしているうちに年末となり、 JAL701 便の乗客となっていた。まいどおなじみのアクロバットで啓徳空港に着陸。お迎えの現地旅行社のバスで、私とAはしっかりと市内ツアーをキャンセル。3人は参加ということで話はまとまる。そして、夏とおなじガンドンホテルにチェックイン。さてここまでは何も問題なし。

 といってこの後トラブルが発生したかというと格別のトラブルはなかったのが今回の旅であった。amanoと一緒でトラブルらしいトラブルがなかったのはこの時だけだった。翌年の中国ではこのツケが廻ってきたようだ・・・(^^;;
 チェックインの後、近くの粥麺店で焼肉飯や麺を食べ、廟街、女人街を歩き、スターフェリーに乗り、貧民夜總会で食事をして、ビクトリアピークに行き、トラムに乗った。一通りの観光ツアーというところですか。

 気温は夏の蒸し暑さと違い、暑くもなく寒くもなく街歩きにはちょうど良い感じであった。

翌日、市内ツアーに参加したグループと別行動の私とAは、amano を案内だてら赤柱に向かった、香港島に渡り、中環から2階建バスに乗り、香港島の曲がりくねった道を半分傾きながら、道路に張り出した木の枝を「ビシッ」「バシッ」と言わせながら走っていくのは怖いものがある。それも2階の最前列に座っていた2人はどうしていたかというとゲラゲラ笑いながら、必死に横の棒にしがみついていた・・・
車内には乗客への注意事項が書いてあり「2階席では立つな」「飲食禁止」などフムフムと思わせることが書いてったが最後に「台風の時には2階のすべての窓を全開にせよ」と書いてあった。
漢文なのでamanoに「これ台風の時には窓全部開けろ、という意味だよな?」と聞いてみた。
彼もしばらくして、「やっぱり、その意味やろな」
「まぁ、言いたいことはわかるけど、窓あけたぐらいなら気休めにしかならないのじゃないか?」
「これだけの車体だから窓を開けてても横風もろに受けたら倒れるだろうな・・・」
「それより、暴風雨の中、このクネクネした道を、窓全開にして走っている姿を想像してみろよ」
「・・・・!?」
「・・・***」
爆笑した・・・・

なんやかんやで30分ほどで赤柱(スタンレー)に着いた。ここは、本物も偽物も怪しいモノもガラクタも細い路地をはさんで売っている。ここを冷やかしながら、海岸に出て、一軒のイギリス風PUBでビール休憩をした。
「やはりここまでイギリス風PUBをまねるなら、ビターぐらい置いてほしいよな」と私は言った。
「あきらめろ、そりゃ無理だ。このサンミゲールの生もいけるで、おまえいつも言っているやないか、地元のビールは地元で呑むのが一番旨い、って」と諭されてしまった。
彼の言うことはもっともである。サンミゲールの生も香港で呑むから旨いのであって、別の土地で呑むと味気ないのは容易に察しがついた。

 適当なバスで中環に戻り、湾仔で飲茶の昼食、そして九龍サイドに戻り、旺角の市場に行った。生きている鶏、鯉、鮒が、野菜が、そして無許可だろうと推測される、屋台で干物が売られている、それを地元に人は喧嘩をするかのように買っている。
「買っているのかなぁ」
「喧嘩をしているように見えるよな・・・」
「でも、お金渡してるぜ、あっ商品受け取った」
「やっぱ買い物だ・・」
「パワフル・・・!!」

   

 今回、私は香港に来たらどうしても買いたいモノがあった。それは「海鴎」(シーガル)という中国製の二眼レフであった。何件かのカメラ屋を覗いたが、どこにも売っていなかった。
「やっぱ、ないなぁ〜。一昔前の代物だからなしかたがないか。中国ではまだ生産しているのになぁ」
「中国行くか?」
「また、いじめるぅ〜・・・・!?・・・・たぶんあそこなら売っているはず!!・・・悪いけどもう少しつきあえ」
「どこへ」
「裕華百貨店。あそこは中国からの品物を売っているところだから、あそこの中にあるカメラ屋にならあるはずだ」
予想は当たった!!約5000円で買うことができた。(amanoも海鴎を中国杭州で買うことになる)

 そして夜は全員そろって翡翠楼へ「北京ダック」を食べに。そう前回と同じである。さすがに5人で食べると食べでがある中華はやはり人数が多い方が良い。ウエイターは、前回とおなじ、右足を引きずる初老の男性であった。勘定してもらう段になりボクは言った。
「あのウエイターは、チップ分の小銭に分けて釣り銭を持ってきますから・・・」結果は予想通りであった。

気持ちよく支払いをすませ、腹ごなしに廟街へ。中国式麻雀をやろうと「雀荘」へ入ったら、あっさりの店の主人から拒否されてしまった。でかい牌をたたきつけてやる中国式麻雀をやってみたかったが、うさんくさい日本人は入れてもらえなかった。無用のトラブルを引き起こしてもらいたくなかったのだろう・・・残念。

 2日目の最後は「上海風呂」へ、今回は不思議な香港人にも会わず、気持ちよくマッサージと垢擦りをしてもらった。私より重そうなおばちゃんにマッサージをしてもらいながら、amanoや支社長からは「最初、よく一人でこんなところ来れたな。入り口は真っ黒のドアで中は見えないし、雰囲気は胡散臭そうだし。誰かに教えてもらったの?」
「いいえ、上海風呂探して、看板見て入ったのですよ。でも白状しますと、お金は最小限、パスポートやカメラは持たず。そして、連れ合いには、ここに行くからと教えておいてから行きました・・・ハハハ」

 この2日間はほんと前回の復習みたいなものであった。前回は驚きが多くて、ゆっくりするということができなかったが、今回は楽しみながら街を歩いていた。
となりのamanoは驚きの連続みたいだが・・・・(^^)

 3日目、みんなであちらこちらウロウロしていた。が記憶にあまりない。ただ、夜、廟街の大牌當で食べた鍋が印象に残っている、丸い鍋の真ん中に仕切がしてあって片方がミソ味、片方が鳥出汁で、こちらは醤油だれで食べる。具を好きなほうに入れて食べる。鍋料理では驚かないが仕切というのはアイディアである。

 そして最終日、空港へのバスで旅行社に一人20HK$(約400円)のチップを払わされ。(ほとんど強制)みんなで「5人分だとタクシー使ってもお釣りがくるぞ」とブウブウ言っていた。
搭乗前、待合室でamanoと話していたら「来て良かったよ。おまえがmustだ、といった意味がわかったよ。こんな面白い刺激的な街だとは思わなかった。」
私はamanoなら香港という土地を面白がると思ったが、予想どおりだった。
2回目の私はさらに香港の魅力に取り付かれていった。

1989.12.27〜12.30

海外旅行目次へ