天安門事件と香港


 「・・・・只今、戦車が動き出しました。天安門広場の人民は・・・」とニュースで流れていた。1989年6月4日のことであった。この国のことであるから、民主化運動は簡単に行かないだろうとは予測していたが、やはり強行手段での終幕であった。
「やっぱり・・・」と口に出した。横で妻が「怖い・・・」と言った。実はこの時に、8月3日大阪発上海往復のチケットの手配を済ませて、代理店からOKの返事をもらっていた。「まぁ、2ヶ月もしたら情勢は落ち着いているだろうから大丈夫だろう」と楽観的に考えていた。しかし、6月下旬、妻が「やっぱり上海怖い・・・・行き先変えよう」と言い出した。私は大丈夫と踏んでいたが、不安を持って旅行すると、予期せぬトラブルに巻き込まれる可能性があるので、今回は行き先を変えることにした。

 翌日、代理店 に電話。
「上海行きキャンセルして、8月上旬東南アジア方面で8万円以下で往復チケット取れるかなぁ」
「・・・バンコク、シンガポール・・・K.L、デンパ・・・だめですね、どれもキャンセル待ちです。パックツアーならまだ空きありますよ。」
「・・・どっち方面」
「え〜と、台湾、香港、韓国ぐらいですか。」
「一番、俗っぽいのはどれかな・・・」
「・・・そりゃ香港ですよ。ogawaさん、香港行かれたことないのですか?」
「ない。買い物に興味ないし、団体専用のまずい中華食べたくないし・・・」
「ogawaさん、それ偏見!!ぜひ行くべきです!!!現地ツアーキャンセルしてもらってかまいませんし、ただし料金その分は払い戻ししませんけど。」といつもお世話になっているかわいいN嬢が断言するので「そこまで言うなら香港にしましょう(^^) 」で香港行きが決まった。(最近はこの手のやり方は安いツアーは認めていないし、このような営業はまずしない。)
香港は沢木耕太郎氏が「はまった土地」ということで、「いつかは香港!」とは考えていたが、3泊4日の香港ツアーとは・・・まっ、いっか!

JAL701 便は、ビルを押しつぶすような感じで啓徳空港に着陸した。「世界一危ない空港」と言われるのも納得。なかなかの迫力。お迎えの現地旅行社のバンに乗り九龍サイドのガンドンホテルへ、「明日の市内観光についてですが、集合は・・・」と説明をはじめた。
 私が「明日キャンセルしたいのですが」と言うと、案の定嫌な顔をされて「ツアー料金お返ししませんよ」と言われた。そりゃ、現地旅行社にとってはほとんど利益なしで日本の旅行代理店と契約、「市内買物ツアー」で店に連れて行って、そのキックバックで利益を出すという構造である以上、キャンセルされると利益が出なくなるのは当然であり、そのような客は一番いやがられるのも当然のことである。
そんなこんなでホテルに到着。
 ホテルは立地の良いところにあり、ネイザンロードから一歩入ったところに位置していて、ペニンシュラホテルやスターフェリーターミナルにも近く、街歩きには絶好のロケーションであった。

 とりあえず、何か食べようということになり、近くの粥麺の店に行った。もう午後だったので粥は終わっていたが、麺を頼んで食べると2人そろって「美味しい!!」の一言。その後、妻は言った「これで大丈夫」どうやらスペインでの食事の辛さを思い出したようだ。ともかく、たかが10HK$(1HK$=20円)もしない麺がこれほど美味しいとは・・・さすが食の都香港。結局この店には毎朝通うことになった。


もう一つは叉焼飯。ご飯に叉焼がのっているだけだが、実に美味。
後に、香港に来るたびに「叉焼飯を食べなければ香港に来た気がしない」と言いつつむさぼり食うこととなる。

 今回ガイドブック「 地球の歩き方・香港編」を持っていったが、ほとんど使わなかった。それ以上に役にたったのが、山口文憲氏「香港旅の雑学ノート」だった。勿論ガイドブックではないが、飲茶の作法、街の歩き方、スターフェリーのこと等、買い物とグルメ以外はなんでもござれの本である。読んでも面白い本だが、こんなに役に立つとは思わなかった。

 さて、ブランド品も高級中華料理にも興味のない2人がいったところは、スターフェリーに乗ること。沢木耕太郎氏をして「60セントの素敵な航海」と言わしめたスターフェリー。わずか6〜7分だが、何度乗ったことか。特に朝の通勤ラッシュ時の人の臭い、夕方の夕日の中、そして、深夜疲れた顔をして乗っている人達のけだるい雰囲気、よそ行きの顔をしていないフェリーである。

 そして、夜は廟街。噂に違わず、何百という屋台。服、偽ブランドからおもちゃ、がらくた、そして皇后廟に近づくと怪しげな歯医者、占い、京劇とウロウロしているだけで時間は過ぎていく。
廟街中程に魚、貝、海老などをザルに盛って客の注文に応じて調理してくれる食堂がある。そこで「海老はボイル」でとか「蟹は炒めて」と注文して夕食とした。これが、また美味。どれを食べてもはずれがない。テーブルの上がゴミの山となった。ビールは向かいの酒屋で買ってきて持ち込み。蒸し暑い中、道にはみ出してのテーブルでの食事だったが暑さを忘れるほどの美味であった。

 廟街で10HK$で買った一枚のTシャツ。その図柄はユニオンジャックの上から中国国旗を書いている途中の図柄であり、その図の下には「香港1997」と書いてある。勿論、香港の中国返還の意味である。後日、日本でもテレビ等で紹介されたTシャツだが、まだ8年先というのにこの国の人達は着々と手を打っているようである。 家族や資産をカナダ、オーストラリア等に移して保険をかけておくこともこの国の人達にとっては珍しいことではないらしい。まして天安門事件の直後であったためか、中国は信用できないという人もいるということである。
 ここで、天安門事件にかかわった亡命者にでも会っていたら、話は面白くなったのだが、普通の旅行者にはそのような事件は望むべくもないことである。 天安門事件は日本では、もうすでに過去のものとなりつつあったが、地元新聞、雑誌を読んでいるとこの国の人達にとってはまだまだ進行形の事件であることが理解できた。街には張り紙がなされ集会なども行われているようであった。

 2日目の夜、「上海風呂」でマッサージを受けているときに隣りでマッサージを受けているおじさんから日本語で声をかけられた。ボクが「そこそこ・・きくぅ〜」「そこ痛い!」なんて日本語でうめいているのを聞いたらしい。
「日本人?」
「そうです」
「一人?」
「ハイ・・・」
「香港で働いているのか?」
「いえ、単なる旅行者です。妻と来ています、今、妻はホテルで休んでいます。」
「ひとりでこんな所(上海風呂)に来る日本人はめずらしい」
「あっ、そうですか?上海に行ったときに気に入ったから、香港にもあると知って来たのです。」
「ほ〜っ大陸に行かれたのですね?」
「はい5年前に。おじさん中国の人?」
「いや香港だが、福建の出身です。どこにあるかわかる?」
「はい、わかります」などしばらく雑談をしていたら
「今回の事件、日本人としてどう思います」と聞かれた。
「天安門のことですか?」
「そうです」
「やはり今の中国の体制では民主化は難しいのではありませんか?文化大革命が終わって10年ちょっと、経済特別区などの政策が軌道に乗り出したところだし、国としてはそのような変化は望んでいないのではないでしょうか。私個人としては民主化というのは良いと思いますが、為政者からすれば起こってほしくない事であるのも事実なのでは?」
「やはりそう思われますか、返還後の香港もそうなりますかね」
「う〜ん、でも金を生むこの土地をつぶすようなことはしないと思いますが、何とも言えないですね、おじさんはどうされるのですか?」
「さて、どうしましょう」と笑ってはぐらかされてしまった。
 ただ、上海風呂に来るような現地の人であるのと流暢な日本語、普通一般の人ではないだろうという見当はついたが、その人の背景が見えないためにボクもそれ以上突っ込むことはしなかった。向こうもそれ以上の事はボクに聞いてこなかった。おじさんが先にマッサージが済み部屋を出ていった後に、天安門のことと言い、返還後の事と言いボクにはしゃべらせたがその人自身は何一つ個人的な意見を言っていなかったことに気づいた。いったいあの人は何者だったのだろう・・・?いまだ謎である。

 3日目も2人でレパルスベイ、アバディーン、キャットストリートなど香港島を歩いていて気がついた。
「時間が足りない!」
 別に何をしている訳ではないが、街をぶらぶらしているだけで時間が立ってしまう。旺角みたいな下町で市場を冷やかしているだけで半日つぶれてしまう。3泊4日なんてあっという間でないか・・・明日の午後には帰国便に乗ることになる。
出発前には「香港なんてどうせ狭いエリアなんだし行くところが無くなってしまうから」なんてうそぶいていたが、なんのなんの2人とも香港という土地が出す磁力に引き込まれてしまった。まだスタンレーにも国境にも新界も行っていないランタオ島も行こうなんて行っていたのに九龍サイドの一部と香港島をちょっと囓っただけで2日がたってしまった。
なんて面白い土地なんだ・・・。

 食べ物も、あれも食べたい、これも食べたい。でも、胃袋には限界がある・・・朝はお粥をあれこれ試し(ホテルの朝食券は全く使わず残ってしまった)、昼は飲茶、合間にお菓子、麺、夜は廟街の屋台で、それさえも食べたい物はたくさん残っている。
 とりあえず、あわててどこかへ行くということは今回はやめる。裕華百貨店で買い物をする。晩飯はどこかシーツあるところで食べよう。ということに方針決定した。まず裕華百貨店に行き、茶器のセットとお茶を購入。茶器のセットは前からほしいなと思って、日本でも何度か買おうと思っていたが、そんな高い物でもないしいつでも買えるという意識もあり延ばし延ばしにしていたが、とうとう買ってしまった。とりあえず、目的を一つ果たしたので、次は食事の店探し。

妻が「北京ダック食べたい」と言い出した。香港で北京料理っ・・とも思ったが、5年前に北京で北京ダックを食べたときの感動を思いだしボクも唾が出てきた。香港で有名な「北京楼」ではなく、ホテルで勧めてもらった「翡翠楼」にした。夜、翡翠楼へ行くとちゃんとテーブルにはシーツがあり、茶器がセットされていた。それだけで感激してしまい、メニューがあるということでまた感激してしまった。当たり前か・・・・(^^;;
北京ダックもホントに美味しいかった。最後に、勘定を済ましてお釣りを持ってきたときに、53HK$のお釣りが10HK$札4枚、5HK$コイン2枚、1HK $コイン3枚で戻ってきた。計算されたお釣りの返しかたで、お札だけ受け取って残りのコインをチップとして渡した。ウェイターはにっこりとして「Thank you,sir 」と言った。もし50HK$札だったらチップを渡すのに躊躇したかもしれないが、これだと自然にチップを渡すことができる。実に計算されたやりかたで感心してしまった。

 腹ごなしにぶらぶらと歩いていたら。旧九龍駅の時計塔が見えてきた。その時計に向かって「また、香港にくるからな」とつぶやいた。
 天安門事件がなければ香港に来ることはなかったと思うと,個人的には影響があったかな・・・?
しかしこの時点で4ヶ月後に再び来るとは思いもしなかった・・・・

1989.8.3〜8.6


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