7年ぶりの中国は

悪友amanoと3月上旬電話での会話。
ogawa「GWどうする?」
amano「イギリス・ハイランドにシングルモルト飲みにいかへん?」
ogawa「お〜それはいい、飛行機代の分まで飲もうぜ!!」と決定した。
しかし3日後、4月29日に共通の友人の結婚式が入って来たために日程変更となった。とろが4月30日や5月1日となると、希望するフライトがキャンセル待ちばかり。そうなると「スコッチ」に拘るわけにはいかない、相談の上「紹興酒」に変更ということになった。中国は彼は昨年行っているし、私も大学の卒業旅行で1ヶ月行っているので、全く見知らぬ土地ではない、といっても7年前だが・・・。
日程もそんな取れないし、「紹興で紹興酒を」のコンセプトは酒飲みの二人にとっては魅力的であった。

ただ、amanoと私が一緒に旅行すると何かが起こるのが常である。トラブルといえるほどのモノではないが「有馬玉砂利事件」「六甲山アブ事件」「 エア・インディア・ディレイ事件 」「奈良・十津川イエローライン事件」と話題には事欠かない。それも、何人メンバーがいても、なぜかボクとamanoが一緒に旅行する時にかぎって爆笑モノの事件が起こる。それが心配の種といえば種である。現に行き先が変わってしまった。 中国国際航空 で上海までいくことになった。
現地着が夕方となるので、とりあえず宿1泊分を押さえておこうということになった。 いつもの代理店 にそのことを伝えると、ホテルの値段を教えてくれた、
「・・・和平飯店はツイン8000円、××ホテルは・・・」
「ちょっと待ってください、和平飯店がその値段で泊まれるのですか・・・それにします」ということで、いつもより軟弱になり由緒あるホテルに泊まることになった。

事件簿その1・・・ホテルまでは遠かった
 上海・虹僑空港に到着した2人はタクシー代が惜しいため、路線バスのある通りまで歩いて行くことにした。上海(虹橋)空港は路線バス、AIRバス、鉄道のたぐいが全く無くタクシーしかない。したがって市内まで安くあげたい輩はバス停まで歩いて行かなければならない。amanoの記憶をたどって、歩き始めた二人だが、と・お・い
10分以上歩いたろうか「amanoまだかよ」
「もうすぐもうすぐ・・・こんな遠かったかな・・・」。
さらに10分以上歩いてやっとバス停到着。中国人民と押し合いへし合いして、途中乗り換えて空港から和平飯店にたどり着くのに2.5時間かかってチェックインしたのは20:00をまわっていた。タクシーだと30分で済むのに・・・。そして追い打ちをかけるようにレストランはすべてオーダーストップ、ホテル近場の市場に行ってもすべて閉店・・・結局ホテルに戻り、2人とも一階の和平飯店名物ジャズ・バーでひたすらビールを飲みお腹を膨らますしかなかった。翌日朝、市場に行き小籠包を食べてやっと一息つけた・・・

和平飯店のこと
 イギリス・サッスーン財閥が建てた南京東路の端、外灘にあるコロニアル建築ホテルである。南京東路をはさんで北楼と南楼がある。古い時代の匂いを残している数少ないホテルの一つである。これ以降アジア各国に残っているコロニアル形式のホテルに好んでとまるようになる。(植民地主義に賛成しているわけではない、純粋にコロニアル建築様式が好きなのである)

 一息ついたわれわれは豫園商場に向かった。
amanoは昨年に引き続きだが私は初めてだった。
中央の楼でお茶を飲みながらAは言った。
「ogawa、さっきから話を聞いていたら、豫園も人民公園も上海雑技団にも行ってない見たいやけど7年前、おまえは上海5日もいてどこに行ったんや?」
「う〜む、どうもよく思い出されへんのや、どこに行ってたのだろう?」
ほんとどこに行ってたのだろう・・・??

事件簿その2・・・駅はどこだ
 豫園商場に行った後上海駅に「紹興」行きの切符を買いに行った。まず、上海駅の場所が変わっていた。「amanoいい加減にせ〜よ。古い地図で捜すからや」人に聞き回ってやっと駅へ、2Kぐらい離れていた。そこで軟弱にも外国人専用窓口へ。こちらだと1等しか売ってくれないが、ともかく並ばなくていい。そして、紹興行きは満席。日に余裕がないから何日も後というわけにはいかない。紹興で紹興酒はあきらめて手前の杭州へと予定を変更。
しかし駅前は相変わらずの人である。

上海の街。
 7年前と比較できるものではなかった。街には車が増え、人民服は殆ど見ず、ミニスカートなども珍しくなかった。闇両替も以前ほどレートは良くないし、新しいビルも増えていた。浦江飯店の横に中国初の証券取引所ができたばかりである。勿論、物価も上がっていた。冷えたビールも飲めるようになった・・・これは画期的。そして「没有」の言葉が消えていた。


でも人民公園での老人達やちょっと裏通りに入れば、イメージどおり中国が残っていた。





街角を曲がるといい匂いが漂ってきた。
それはシシカバブを焼いている屋台であった。amanoと私は迷うことなく缶ビールを仕入れてこの店の前で飲み食べた。5本で5元(50円ぐらい)だった。
「好、好(美味しい、美味しい)」と言って食べていると、もう一本おまけしてくれた・・・ほんとスパイスがきいて美味しかったですよ(^^)

そして杭州へ向かうこととなった。


事件簿その3・・・ああ時代は流れている
 列車は遅れることなく、無事杭州に着いた。私は「7年前、杭州飯店のドミトリーに400円ほどで泊まった。ホテルはそこにしようぜ。」とamanoに言ってバスに乗った。
杭州飯店・・・はたしかにあった。
ただし、シャングリラ・杭州飯店(外資・世界的に有名な高級ホテル・チェーン)になっていた。
ogawa「 シャングリラ になってる・・・」
amano「まさかドミトリーなんてないやろな」
ogawa「シャングリラにないと思うけど7年前はあったから・・・」
受付で聞くと「ドミトリーなんてありません。ツインで100$からです。」
一瞬2人共「100$だしてもいいか・・・」という気になったが、また重い荷物背負って別のホテルに移動することにした。
そして、次のホテルに行った。
その場所にはホテルはなかった・・・ そして、押し合いへし合いのバスで中心部に戻りホテルが決まった。あ〜疲れた。
amano「ogawa、時は流れているんだぞ」へいへいその通りでございます・・・おまえだけにはに言われたくない!!・・・(^^;;

杭州の街
 西湖を持つ観光地である。上海などと比較すると落ち着いていて、湖があるせいか人がめだたずホッとできる土地である。ともかく中国の沿岸部は何処へ行っても人ばかりだから。ホテルは色々変化があったがそれ以外は大きく変わっている感じではなかった。ここの「楼外楼」というレストランは大幅に改装され外国人用と中国人用に分けられてしまっていたが、東波肉は乞食鳥変わらず美味だった。

もともと1泊のつもりだったが、結局2泊して上海に戻ることになった。


事件簿その4・・・上海迷い道
 上海に戻った我々は、安宿に泊まることにした。そこで、amanoが昨年泊まって良かったという回力飯店に向かうことにした旧日本租界にあるということである。そして、バス停からしばらく歩いて、地図を見ていたamanoが言った。「次の角を曲がったとこや!」。曲がった所は普通の家しかなかった・・・。

「おい、ここか」「ちがう・・・」我々は人に聞き回って結論に達した。そのホテルはバスで2つ先だと判明した。「おまえなぁ〜去年来たんだろ」と私は文句を言いつつ、目的地に向かった。そしてamanoが言った。「そうここや、この市場覚えている!次の角を左や」我々は左に折れた。ホテルがあった・・・だが改装中で泊まることは不可能だった・・・呆然
私は、ほとんど切れかけていた・・この2時間は何だったんだぁ〜!!!。
ともかく腹も減ったことだし、お昼を食べて落ち着くことにした。

結局、浦江飯店(有名な上海の安宿)のドミトリーにベッドを確保した。はぁ〜


事件簿その5・・・最後の最後まで
虹僑空港。1時間の出発遅れ・・・まぁ、こんなことでは驚かない。チェックインを済ませ、とりあえずビールでもとレストランに入ったら。無い・・・私の予備の財布が・・・。
私は旅行中財布は使わないが、パスポートや航空券やTCとは別に、予備の現金、クレジット・カードを入れている財布がある。ほとんど鞄の底に入れていて旅行中に出すことはまずないのだが、それが無くなっていた。落としたのか、摺られたのかわからないが無いモノは無い!クレジットカードは再発行で済むが、現金20000円が痛かった。毎日毎日まぁ!帰国直前まで。やっぱり相手が悪い・・・お互い様か。

帰国後、カード会社に電話した。
「カード落としたので手続したいのですが」
「いつ、どこで落とされました」
「中国の上海です。旅行期間中になくしたのですが帰国直前の空港で気がついたのです。」
「盗難届は出されましたか」
「いいえ、飛行機に乗る直前でしたので出してません」
「それでは地元の警察に届けを出しておいてください。」
「高槻署ですか?」
「いいえ上海の警察です。」
「・・・!? じゃ御社は私に上海までの往復運賃を出してくれるのですね!」
「いえ、あの、わかりました・・・再発行の手続はしておきます。」
はぁ〜、最後の最後まで疲れた。

*ここで弁護、Aとは気心しれている間なので、彼と行動すると余計な気を使わなくていいから楽です。最近、お互いバラバラで海外に行っているが、また一緒にいこうよ。 

1991.4.30〜5.5

表紙へ

海外旅行目次へ