初めての子連れ旅


 「子連れ海外旅行」なんて他人事だと思っていたら、自分が連れて行くことになるとは!
娘・京(みやこ)3才まで後1ヶ月。(1993年8月時点)
条件は、余り日本から遠くないこと。全く知らない土地は避けること。食べ物でストレスがたまらないこと。
 さて、どこへ行こうか?私は、香港政庁が取り壊しをはじめた九龍城塞の最後を見届けること、妻は一言「上海!」。お互い子連れであることを忘れて好きなことを言っている。 
 「子連れはハワイやグアムが良い」というのは良く聞く話だが、なんとなくアジアへという感じで決定。では両方共ということになり。
 さて手配開始。案の定この手のパックツアーはなく航空券とホテルの手配を始めた。
結局、大阪→香港は エールフランス 、香港→上海は 中国東方航空 、上海→大阪は日本航空 とあいなった。宿は香港は適当だったが、上海は和平飯店にこだわった。これより安いホテルもあるし、同値段で設備の良いホテルもあったが、「魔都の上海」のイメージを残しているという意味で、このホテルにこだわった。ひととおり手配を終えて、さて出発。

 いつもより荷物が多い、何せベビーカーまで持っていくので、かさばってしかたがない。「旅の荷物は少なく」、「パッキングはコンパクトに」という主義は、もろくも崩れ去った。

さて大阪空港夕方、南回りパリ便のエールフランスは定刻どおり離陸。4時間後、光の洪水の中、啓徳空港に着陸。「このままパリまで乗っていきたいよう」と話しつつ、入国手続。これが、また大混雑、結局1時間余りかかって入国、次はバス・タクシー乗り場が大混雑。やっとの思いでリムジンバスに乗ってインペリアル・ホテルに到着。インペリアル・ホテル、えっ?あの「帝国ホテル」と勘違いしてはいけない。九龍半島のネイザン・ロード沿いある足の便が良いと言うだけのホテルである。


翌朝,まずお粥の朝食。香港の朝食はこれに限る!
そして、スターフェリー乗り場へ、香港に来てスター・フェリーに乗ることは意味もなく楽しいことである。沢木耕太郎氏が「50セントの素敵な航海」と呼んだスター・フェリーは、さすがに今は1HK$(=15円)だが、香港の人達の足であることには変わりなはい。
香港島についたら二階建てバスに乗ってレパルス・ベイ(浅水湾)へ、そう、あの50年代ハン・スーイン原作「慕情」の舞台となったところである。「Bollowed place,bollowed time」(借り物の場所、借り物の時間)は、香港を的確に表していると思う。1997年7月1日、香港はもとの持ち主に返されることになる。

 そのレパルス・ベイで何をしたか?・・・・・海水浴! 
 脱衣所、シャワーはあるし、人は少ないし、須磨の海よりキレイだし。田舎の海水浴場とたいして差はないが、そこは気分の問題である。「香港で海水浴」面白いではないか。その後は、街に戻り「飲茶」。これまた、地元の人しか行かないような所に行ったものだから、大騒ぎ。なぜか、娘の前に頼みもしない甘点心がズラズラと並んでしまった。「お〜い、お勘定はどうなるんだ」と思ったが周りの人達に感謝して遠慮なくいただいた。そしてホテルに戻りお昼寝・・・zzz
 そして、妻と娘がペニンシュラ・ホテルでお茶を飲んでいる間、私は九龍城塞へ、バスで20分、城塞はすでに半分は取り壊され、周りはフェンスが張り巡らされ、中には入れないようになってしまっていた。なんとなく胡散臭かったこの界隈も妙に明るくなり一種のいかがわしさが無くなってしまっていた。「中を覗けなくて残念」という気持ちはなく、これも返還前の行動の一つなのかと思い、雨が降りだした中しばらく立って城塞を見ていた。


「子連れ旅のノウハウ的なこと」
1)ともかく周りの人達が優しくなる。あの世界共通の無愛想なイミグレーションの係官が微笑んでくれた時はさすがに驚いた。 
2)変な人間が近寄ってこない。これも実感ですね。 
3)行動半径が狭くなる。子供(幼児)の体力を考えると当然ですね。無理をされないように。
4)行く場所の選択。大人が良くても、子供には面白くない事が多いので、あまりそのような所ばかり行くと、子供は飽きてしまいワガママを言い出す。
5)荷物が増える。必要最低限であとは現地調達。
6)航空運賃が大人と同じ。ディスカウント・チケットは元々割り引いてあるので、子供運賃というモノは存在していない、つまり大人と一緒である・・・PEXなど使って安いチケットを探してみる

 さて、話を戻すと、何はともあれ「廟街」へ。私にとって香港の夜の最大のお楽しみはココを歩くこと。特に「皇后廟」のあたりまで行くと。怪しい歯医者、物売り、京劇の小屋、占いなど怪しいものが沢山ある。「廟街」は観光客は危ないというが、そんなことはない、カメラを首からさげて、小金の入った財布をむき身で持っていれば当然危ないが普通に歩いていれば別に危険な訳ではない。ただ、そこから人気のない横道に入るとヤバイかもしれない。でも、そのような場所は地元の人も夜は近寄らない。そのような所へ行って事故にあっても、誰も助けてはくれない。でも、これは日本でも同じではないか。

さて、香港で遊び倒した後、上海へ。

 和平飯店に到着して、ボーイが荷物を持って部屋まで持ってきてくれた。妻は「荷物を持ってもらうなんて初めて!」といたく感激・・・オイオイ
「すみませんねぇ。いつもそんなサービスのない安宿ばかりで」とつぶやくしかなかった。


 しかし、この街は来るたびに急激に変化しているのがよくわかる。店、ファッション、売っているモノ、そして物価高。2年前と比べても明らかに変化している、この街には、あの「社会主義中国」の匂いは全くしない。バブルのはじけた日本に変わり、バブル全盛の上海である。「没有」(無いよ・・という意味・中国でこの言葉を聞かないと中国へ来た気がしないという人も多いとか?)という言葉は、この街では死語になってしまったようだ。外灘、豫園商場、人民公園、第1百貨店と行ったが、どこへ行っても人、人、人。以前より増えたのではないか?


 裏通りを歩くと変わっていない部分が多いが、表通りは、梅田、難波、河原町と何ら変わりがない。

 妻はいささか疲れて来ているみたいだった。「自分の持っている上海のイメージ」と「自分の目で見た上海のイメージ」がギャップとなって出てきたみたいである。その上、蒸し暑い、埃っぽいという環境も影響したみたいである。

 その中で、古い上海のイメージが残っているのは、和平飯店1FのJazz barである。ここは、誰もが持つ「魔都上海」の欠片を今に残している数少ない場所と言える。一種、観光客向けにはなってきているがOld Fashoned Jazz Bandがそのままに残っている。娘はここの「西瓜ジュース」がいたく気に入ったみたいである。でも、ここにも「資本主義」があった。前に来たときは飲み物代のみで良かったが、なんと入場料、チャージ、サービス料などがかかり、飲み物自体も結構なお値段になっていた。


最後の晩は「上海雑技団」を見に行った。相変わらず凄いアクロバットと動物の芸は凄かったが、最後パンダがお休みだったのが残念だった。雑技場からホテルまで、混雑するバスで戻った。夜10時を回ろうかというのに相変わらずのラッシュである。

 街の発展に交通機関のインフラに追いついていない感じである。(上海に地下鉄が開通したのは、1995年のことである。)

 そして梅雨の明けない日本へと戻った。結局、この年の夏、夏らしい日差しを浴びたのは、この旅行の時だけだった。 

                                                        1993.7.31〜8.7

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