
南側の土塁と虎口
1.最初に、
鳥取城包囲網の中で、秀吉本陣に次ぐ規模と土塁を誇る砦跡だ。東にだらだらと下る郭を持つ。
本体は連格式の土塁に囲まれた方形郭群が東西に並ぶ、特徴的なのが、各郭が南北二つに分かれていて、北側が、南側に比較して1メートル以上低くなっている。
この砦の守将は、宮部継潤とも、豊臣秀次とも言われている。(秀次なら元服前だが、この時点で宮部の養子)
北側が一段下がった郭
2.砦の構造から見えるもの
先に指摘した南北二つに分かれていて、北側が、南側に比較して1メートル以上低くなった郭の形状だが、つまり、各郭の南側の土塁を 考えると、北側にいる限り、南からの鉄砲の攻撃に対して2メートル以 上の高低差で身を守ることが出来る。
つまり南側よりの鉄砲による狙撃を恐れての構造だと考える。この砦の南側
http://www2.wagamachi-guide.com/pref-tottori/map.asp?itp=3&ttp=3&mtp=3&mst=3&mpx=134.233206&mpy=35.514365&mps=4000&sly=1,2,3,4,5,6,7
ここに、北に伸びる郭群を確認していて、その東西の尾根にも、痕跡を見つけることが出来る。
これら、八幡池を挟んだ山守の砦の中心までの距離は直線で約200メートル。当時の2匁玉火縄銃でのぎりぎりの射程だ。 ましてや、水際なら100メートルで射程圏内だ。
3.砦の成立時期と用途
根拠は薄いのだが、天正八年の太閤陣ではないかと考えると説明しやすいのだ。
天正九年の開戦当時の付城としては、鉄砲玉が飛んでくる位置にあれだけの規模の砦を築くのは困難を伴う。逆にサイノタワ制圧後に、雁金を攻略する為あの構造の砦を構築するには大掛かり過ぎると考える。
天正八年秀吉の長曾我部宛文書に15の付城を築いたと書いたのは有名な話で、そのときの太閤陣としてあの砦の元になる部分を構築したのではないだろうか、鳥取城に向かって延びる郭群と、方形の深い土塁等、太閤ケ平との共通した発想で構築されたと考えると合点がいくのだ。
つまり、山守の砦は最初太閤砦として天正八年に構築された。 天正九年の開戦時、山守の砦の北側を掘り下げて鉄砲対策をした砦として再利用した。