スライドというメディア

〜記憶とナラティブ〜
富山妙子

生きる場から・芸術とは

わたしは画家になった。
西洋起源の「近代アート」を主流とする日本の美術界は西洋をモデルとして追いつき追い越そうとする。
どうもちがう――わたしはアジア人として、女として、美の周縁から出発しようとした。
わたしの胸に刻まれた心象風景がある。 わたしが少女の頃、旧満州で見た大陸の広大な天と地である。
しかしその地は戦火に掩われた。たくさんの血が流され、戦争で難民になった者たちが野辺に埋められた。
その昿野に赤い夕陽が沈むとき、大地は血の色に染まり、野の草は風に哭き伏した。
それは旧満州で意識形成したわたしの個人的な記憶でなく、
世界各地の戦火がうみ出した戦争難民たちが共有する、
20 世紀のパブリックな記憶に思われる。その時代と場所の持つ意味が、

わたしを歴史と向かいあわせ、絵をナラティブな方向へと誘っていった。

 

 

スライドとの出会い

幻燈とよばれたスライドは意外な表現のメディアに思われた。
暗いスペースに音楽と詩の朗読が流れ、静止した画像が現れる。
動く映像を見慣れてきた人たちには、緩やかな時間の流れに忘れていた世界を思い出す。
スライドは18 世紀初め、ドイツのキリスト教の宣教師がレンズと光を組み合わせて考案し
マジッ ク・ランタンとよばれた。
暗い屋内で天使や悪魔が映し出され、魔法のような世界に思われたことだろう。
初期のスライドは植民地での布教に役立ったという。
写真や映画が出現するまで、スライドは諸都市の盛り場や祭りの見世物として、大いに民衆を楽しませた。
スライドを絵画表現のメディアとして採り入れたのは日本美術史の中の絵巻物の存在からだった。
12 世紀末、古代貴族社会が亡び、沈滞した貴族社会に代わって、
新興勢力である社寺の絵仏師たちが練達した画法で次々と絵巻物を制作した。
代表的なものとして『信貴山縁起』『餓鬼草紙』『地獄草紙』などがある。
それらの絵巻の開帳には絵解き法師や琵琶法師の音曲など加わって、
見物の民衆は佳境に入ったことだろう。それを現代に移してみてはどうだろうか。
絵師は富山妙子、楽師は高橋悠治。

 

ハイテクと表現

時の流れはあらゆるものを変化させてゆく。
日本は戦争責任を歴史の闇に隠しながら世界第二の経済大国になっていた。
新しいテクノロジーと、バブル景気につれて人々の生活も心も変わった。
魔法仕掛けのようにワン・タッチで扉が開閉し、オートマティクに、スイッチひとつで映像が出るとなると、
面倒な操作がいるスライドは敬遠された。
大手のフィルム・メーカーのスライド現像部門が閉鎖・縮小され、ビデオの全盛時代となった。
新たな産業革命とグローバリズムの市場経済がすべてを変貌させようとするなかで、
スライドを表現メディアにしたわたしはいずこへ行くのか。ハイ・テクノロジーもひとつの神話でないか。
バブル景気という神話もあぶくのように消失した。
せわしげに追い立てる現状のスピードではなく、緩やかな時間のなかに戻ろう。

 

現実と神話と

中世の吟遊詩人や楽師たち、絵解きの絵師のような。
1990 年代、わたしの胸に刻まれていた遠い心象風景に戻ろうとした。
わたしが少女のころ旧満州のハルビンで見てきたさまざまな光景である。
わたしはハルビンを訪ね、資料を調べながら絵画表現のイメージを探していたとき出会ったのが
高橋悠治さんの「きつね」と題するコンサートだった。
そうだ。日本の神話世界の霊獣、きつねをメタファとして、わたしの記憶を語ってゆこう。
それから8 年間『きつね物語』の制作に埋没している間に時代が少し変化しはじめた。
映像技術の開発がすすみ、色彩が出せなかったビデオに代わってCD-ROMが鮮明な画像を出せるという。
久しぶりに開いたスライド上映会で若者たちから意外な反響が返ってきた。静止した画像にインパクトがある。
緩やかな時間の流れが新鮮だ、歴史と向かいあう思索空間があったなど。
それはテレビ、ビデオ、アニメーションの映像に飽きたからなのか。
文化の表現の多様化なのか――スライドのフィルム現像所が見つかり、
そこでもう一度消えていた火種工房に火を点じ、旧作を改訂版にして
ナラティブ・アート、「絵と音楽とのコラボレーション」として出発することになった。

スライドをメディアとして制作していた25 年の間、それはわたし自身の表現を探す長い旅だった。

 


 

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