ミカドの肖像ツアー・・(2005年3月19日)

今回のrekisanは「ミカドの肖像ツアー」で都内のプリンスホテルを巡るというものでした。ミカドの肖像とは西武グループの成り立ちなどを鋭く描いた猪瀬直樹氏(道路公団の民営化推進委員会で有名になりましたね)の出世作です。この著作で猪瀬さんは第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、作家としての名声を確たるものとしました。 その西武グループも西武鉄道株の名義貸し問題などで、三月三日に前西武グループ総帥堤容疑者が逮捕されるに至りました。グループの業績はバブル崩壊後、下落し続けており、この事件がなくてもその凋落ぶりはつまびらかでありました。 赤プリ さて、そのグループの凋落にもかかわらず、三十代の私にとって、プリンスホテルというブランドのもつイメージは絶対的なものがあります。「赤プリ」と言えば高級ホテルの代名詞であり、(すでに赤プリという言葉自体死語になってしまっていますが)、同じ高級ホテルでも御三家と呼ばれた帝国ホテル、オータニ、オークラが年配者用の高級老舗(バブル期にはこの老舗という言葉が何か古臭いイメージを持っていました)なのに対し、プリンスホテルは若者向けのプレステージ性を有していました。 六本木プリンスホテルのプールで泳ぐことが出来るのは金持ちの外人だけでいくら金を持っていても日本人男性は泳いではいけないという掟がありました。今回は距離的に訪れることは出来ませんでしたが、苗場プリンスホテルでは長蛇の列を作るリフト待ちの一般スキーヤーを尻目に宿泊者専用の入り口が存在していた。 プリンスホテルは我々に世界にはヒエラルキー(階層制)というものが存在するのだということを日本人に知らしめる役割を負っていたのです。しかし、欧米の伝統的ヒエラルキーとプリンスホテルが提示したヒエラルキーには決定的な違いがありました。欧米のヒエラルキーが一般の人々にとって努力しても超える事の出来ない絶対的なものであったのに対し、プリンスホテルの提示したヒエラルキーはちょっと背伸びをすれば誰でも超える事のできる簡易なというか非階級的な(非階級的なヒエラルキーというものが存在するかどうかは別にして)いかにも日本的な簡易なものであった。その日本的なヒエラルキーに越えようという一般日本人のモチベーションこそバブルの原動力と言っても過言ではありません。

六本木プリンス 我々が始めに訪れたのは、あの「赤プリ」でした。白い大理石に覆われたエントランスは高級感満載で、ロビーからラウンジまで訪問客であふれています。 しかし、あの頃とは決定的な違いがあります。かつて、高級感が現在では成金趣味となり、かつてステータスを求めて集まった客は、団体客と有名人の講演会に集まる日帰り客となっていました。 この傾向はプリンスホテル第1号である東京プリンスホテルにも当てはまります。我々が訪れた時、東京プリンスホテルのロビーには修学旅行の高校生(中学生?)で一杯でした。さらに、六本木プリンス、高輪プリンス、新高輪プリンスと巡っているとあることに気付きました。どのホテルも古いのです。新築のホテルはもちろん新しいのですが、既存のホテルの設備が明らかに古いのです。一般的にホテルは定期的にリニューアルを行い、古さを感じさせないものなのですが、プリンスホテルはホテルの新築にこそお金を掛けますが、造ってしまうとその後はあまり金を掛けない傾向にあります。 東京プリンス プリンスホテルというブランドに胡坐をかき、サービスの質も最低クラス、設備は古く、他のホテルに比べて乏しい魅力。そのくせ料金は高水準。それでは客が来ないので修学旅行などの団体客を大量に受け入れ、それがさらに一般客を遠ざける結果となってしまいました。そこに赤字体質の病原が潜んでいたのかもしれません。 そのようなプリンスホテルの象徴として、東京プリンスホテルの隣接地に東京プリンスホテルプリンスタワーが新規オープンしました。 東京プリンスホテルは創業者堤康次郎氏が力を入れて作ったホテルです。もともと康次郎氏がここの土地を手に入れたときは規制が掛かっており、ホテルなどを建設できる土地ではありませんでした。しかし、高度成長期の東京オリンピックが開かれる時に、ホテル不足ということもあり、いつの間にか規制は取り払われ、あっという間にホテルが建ってしまいました。康次郎氏に政治力のあったのももちろんですが、あの時代はそういう時代であったとも言えます。全く同じことが堤義明氏におけるバブル期にも言えます。 プリンスタワーは義明氏が最も力入れて作ったホテルだそうです。義明氏が歩んだ道は康次郎氏が歩んだ道に似ています。そこには子が親を超えようとする姿が見えてきます。逮捕収監となってしまった現在、大きすぎる父親を持った不幸な男の一面と言えるのかもしれません。

ダブルタワー ところで、今回訪れたプリンスホテルの中で一つだけ異質なホテルがありました。品川プリンスホテルです。品川プリンスホテルはプリンホテルの鬼子でした。プリンスホテルグループがステータスを誇ったバブル期でもその恩恵を得ることはできず、品川プリンスホテルは格下のホテルというイメージに甘んじていたのでした。しかし、バブルが崩壊し、プリンスホテルの凋落が始まっても、品川プリンスホテルの凋落は始まりませんでした。それどころか、隆盛の時期を迎えたのです。品川プリンスは集客力で日本最大のホテルへと成り上がって行ったのです。魅力的な設備と手頃な価格設定、映画館やビジネスセンターなどディズニーランドのようにアトランクションを次々と増設し、レストランなどのリノベーションもまた積極的で、宿泊客も含めた人々が行列を作っています。他のプリンスホテルとは明らかに活気が違います。我々が訪れた時は水族館のオープン間近でした。品川プリンスホテルの邁進は停まりそうにありませんでした。品川という街自体、新幹線の停車と反対側の開発により、数年前には考えられないほどの発展が続いています。品川プリンスホテルの前途は明るく、悪魔のサイクルに嵌って抜け出せずにもがいている他のプリンスホテルとの違いは明らかで、その意味でも品川プリンスホテルは現在でもグループの鬼子といえますが、その成功物語はみにくいアヒルの子のようでもあります。まったく親孝行な鬼子です。 品川プリンスホテルを見ているとプリンスホテルが復活するのはそう難しいことではないような気がします。しっかりとした経営者とリノベーションをする資金さえあれば、魅力を取り戻すことができ、後は、客が客を呼ぶ天使のサイクルが始まるでしょう。なぜなら、プリンスホテルフリークは日本中にたくさんいるからです。義明氏が築き上げたプリンスホテルブランドは生きています。これは康次郎氏ではなく、まさしく義明氏の遺産でしょう。

高輪プリンス 最後に我々はプリンスホテルの盛衰を体現している高輪プリンスと新高輪プリンスを通り、バスに乗って広尾にある堤邸の前を通りすぎた。堤邸は意外なほどシンプルで少し哀愁が漂っているような気がしました。