我々はジャズフェスが行なわれている喧噪の池袋を出て、途中立教大学に立ち寄り、熊谷守一美術館へ向かった。この美術館はコンクリートの打ち放しの壁に蟻などの装飾がされていて有名なのであるが、場所が住宅街のど真ん中にあり、さらに駅から遠く、看板等も少ないと言う人を吸い寄せない環境にある。そのため、来場者は極端に少ないようだ。かく言うわれわれも無料のギャラリーを拝見し、美術館には入らなかった。併設されているカフェには一組のグループがいたが、近所の人がお茶をしに来たと言う雰囲気であり、どことなくゆっくりとしてのどかな空間であった。 その後、我々はバスで給水塔へ向かう。バス停はそのもの「水道タンク前」である。近くには「水道タンク裏」というバス停もあるらしい。地域の人々の生活に密着してきた施設であることがこの点から窺える。目的のバス停に着きバスを降りた我々の目に飛び込んできたのは、コンクリートと鉄筋の残骸が山になっている風景であった。 「まさか、まだ取り壊しには日があったはずであるが」と上を見上げると、まだ青々としている樹木の上に先端が三つに割れた避雷針と青い楕円体の飾りが覗いている。その飾りの様子は野方の給水塔と同じである。 「あれだ。よかった。まだ取り壊されてなかった」隣りに積まれていたコンクリと鉄筋の残骸は別の建物、おそらく官舎と思われる、の取り壊された後のようだ。 給水塔は野方の給水塔よりも保存の状態はよくないように見え、トタン板などで閉鎖されている。給水塔に近づくことは出来ないがその脇には公園などがあり、ぐるりと回ることができる。
その威容は年月を経てきた威厳を失ってはいない。どっしりと構えたその姿は安定感があり、かつて畑が広がっていた板橋地区におけるこの給水塔の存在感が伺い知れる。給水塔は時代のシンボルであり、人々の誇りであり、そして子供たちのヒーローだったにちがいない。給水塔の大きさは当時頭抜けており、人々は朝起きて給水塔を見上げて、安心と安定を感じることが出来る。そんな存在の給水塔が人々に愛されないはずはない。 現在は周りの樹木が生長し、いつしか給水塔は圧倒的な存在感を失い風景の中に溶け込んで行ったが、人々の精神的な部分における存在感は時が経つにつれて大きくなっていったのではないかと思われる。 大谷口の給水塔は野方の給水塔と同じ直径1.1メートルの水道管で結ばれている。その水道を荒玉水道と言い、水道管が埋設されているのがかつて私が何も考えることなく通っていた水道道路であった。水の道が時間と空間を越えて、音を立て流れている姿が思い浮かんだ。 水道管は水道道路が行き着く、いや始まると言ったほうがいいか、多摩川のほとりにある砧浄水場につながっている。まっすぐな水道道路は青海街道で途切れ、水道管は一般道路の下を曲がりくねりながら板橋へと水を送っている。ちなみに駒沢の給水塔は渋谷町水道である。 その給水塔もただ取り壊される日を待つだけの時間を送っている。その姿はどことなく寂しげで、それでいてどことなく満足感を漂わせている。地域の人に愛された給水塔はその姿を消しても、人々の心の中で存在感を失わずにいることだろう。
給水塔を後にして、我々はタクシーを広い一気に旧中仙道へ向かう。旧中仙道の板橋宿はかつての雰囲気を残してこそいないものの、賑わいは往時のままである。延々と続く商店、ここでは零細な商店も大型のスーパーも100円ショップも共存している。そして、生活の匂いがする商店街である。 最後に近藤勇の碑を見学し、秋の散歩第一弾を終えた。