小石川の花見・・(2004年3月27日)

それは一週間前の土曜日3月20日のことだった。
「4月3日では遅すぎる。花は散っているに違いない」
と誰かが言うと一斉に全ての頭が上下に動いた。今年の花見は3月27日に決まった瞬間である。桜の開花宣言は2日前の3月18日に出ていた。平年よりも10日あまり早い。場所は播磨坂。集合時間午前11時。
播磨坂は戦後の都市計画で環状3号線となる予定であったが、300メートルほど造られたところで計画中断となったかなり中途半端な道路である。その道路の両端と中央分離帯に三筋に渡って桜が植えられている。知るひとぞ知る桜の名所である。
しかし、その日から冬の寒さが名残惜しそうに戻ってきた。申し訳なさそうにやってきた寒波は遠慮がちながら1週間ほども滞在し、去っていった。花見当日の27日は快晴だったがすでに桜の開花状況は期待できないのは明白であった。
想像したとおり、播磨坂の桜は五分咲きと言ったところであろうか。それでも花見客は多く、桜の下は場所取りのシートが所狭しと並べられている。
僕たちは宴会ではなく、桜並木脇のイタリアンレストランでランチを食する予定である。桜が今ひとつなので、早速ランチを目指してレストランを物色する。二軒のこじゃれたレストランが並んでいる。内一軒は黒尽くめのおじさんおばさんの貸切パーティをしている。ちょっと異様。
もう一軒は中二階の高級そうなテラスレストランで僕たちのために席が八つ空いているのが見える。ランチのメニューの黒板を前にあれこれと話し、気分が盛り上がったところで階段を上がった。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でしょうか」
「いえ、違います」
「申し訳ございません。本日はご予約で満席となっています」
先ほどまで膨らみに膨らんでいた僕たちの期待感は急速にしぼみ、小さくはじけて見えなくなった。
桜にふられ、レストランにふられた僕たちは、向こう側にあるレストランに向かった。すんなり入れた。こちらは、ファミリー向けのレストランであった。音楽に合わせているつもりだが調子っぱずれな子供の皿をたたく音が、多少耳障りであったがピザとパスタはうまかった。満足である。ピザのうまい店は好きだ。
お腹にエネルギーを蓄えた僕たちは播磨坂を離れて、珈琲を飲める場所を探して、伝通院方面に向かうことにした。レストランを出ると多くの人が待っていた。少し、遅れれば僕たちお得意のランチ難民であった。運がいい。
坂と名前がついているのであたりまえであるが、播磨坂は緩やかな坂になっている。坂の下から見上げれば段段になった桜がそれは見事なはずであった。満開の桜は間断なく咲き乱れ、帯をなし、まるで巨大な氷河がビルと言う山々を削るが如く、圧倒的迫力で僕たちに向かってくるように感じるそうである。桜のトンネルは数多くあれど、桜の氷河はここにしかない。残念ながらこの日の桜は五分咲きで、上方が咲いていない上に、所々咲いていない樹で抜け落ち、みすぼらしく感じた。満席であったレストランを含め、来年リベンジに来ようと胸に誓い、播磨坂を離れた。

このあたりは坂が多い一帯である。伝通院へ向かう途中には、三百坂という坂があった。播磨坂の名前の由来にもなった播磨守の屋敷の脇にあった坂で、その昔播磨守の殿様が、家臣の能力を測るため登城の際、家臣を走らせたそうだ。それで能力がどうわかるのか甚だ疑問ではあるが、遅れると罰金三百文だったそうだから家臣にはたまったものではなかっただろう。それでこの坂は三百坂と呼ばれるのだそうだ。手塚治虫の漫画「陽だまりの樹」の冒頭にこのエピソードが出てくる。
現在見るとどうということのない坂である。よく見ると三百坂と書かれた看板が微妙にそして不自然にゆがんでいる。この坂はもしかすると重力場が捻じ曲がっているのかもしれないなどと考えてみたが、やはりどうということのない坂であった。
伝通院に着いた。ここまで珈琲の飲めるような喫茶店はなかった。伝通院の桜は八分くらいまで咲いている。桜は古木ほど開花が早い。伝通院の桜は仰々しいほどに古木らしさを持ち、参道に鎮座している。しばし、観桜。
その後、清河八郎の墓を探して墓地をさ迷う。迷路のような墓地で、墓地の真中で何をやっているのか、情けなくなった。なんとか探し当てると、そこには大河ドラマ新選組のせいか、観光客と思しき人が複数いた。清河八郎の墓は小ぢんまりとしてささやかであった。幕末の風雲を微塵も感じさせない穏やかなたたずまいは、さびしい最後を遂げた清河の姿を映している。どこからともなく桜の花びらが舞ってきた。
その清河八郎の墓に寄り添うように、というか完全に寄り添いくっついて貞女阿連の墓が隣にある。つつましやかな情景である。

貞女阿連て誰だ?

伝通院の門脇には、大きく「ここより先酒持ち込み不許可」と書かれた石碑が残っている。高さ2メートルあまり一辺が20センチほどの直方体の堂々たる石碑である。説明では、伝通院の修行の厳しさを表しているというが、どう考えても、綱紀の乱れを象徴しているとしか思えず笑える。
伝通院の参道には喫茶店があるに違いないという僕たちの願いはむなしく、そこには何もなく、僕たちはジョナサンへ入った。しばし、休憩。
その後、安藤坂を下って、小石川後楽園へ向かう。小石川後楽園は元水戸藩中屋敷。水戸黄門で有名な二代目光圀が整備した庭園である。園内には渡月橋に始まり、西湖、清水堂、音羽の滝、これは涸れてた、木曽川、竹生島、そして、蓬莱島まで古今東西、実在伝説を問わず名所が揃っている。江戸時代のワールドスクウェアである。節操がないような気もしないでもないが、よく残ってきたものだ。パンフをみるとコピーに「この路は江戸の未来へ続く」とある。

江戸の未来って?

園内に園内に入るとりっぱな枝垂桜が僕たちを迎えてくれる。記念撮影の列が出来ている。僕たちもパチリ。この枝垂桜の見事さは枝振りが綺麗の一言に表現できる。花をつけた枝は枝垂花火が開いたかのように均一に広がり、風にそよと揺れるさまは水辺に光がきらめいているかのようである。
と思ったら、残念ながらそれは正面だけであった。しかし、正面だけでも充分春を堪能できる。
池のそばでは、池面に映る逆さ桜をカメラに納めようと多くのカメラを持った人が、池を波立たせている風が収まるのを辛抱強く待っている。
思いのほか園内は広大で、小一時間以上散策に時間がかかり、少し、疲れてきた足をさすりながら、飯田橋、カナルカフェへ。ここは堀端にある桜がきれいなカフェだ。ここで休憩の予定であったが、ここの桜は二分も咲いていない。混んでいる事もあり、却下。
アグネスホテルなどを覗くが、空いていない。またもカフェ難民と化した僕たちは結局ロイヤルホストでお茶することとした。一日に二度もファミレスでお茶してる散歩集団って悲しい。休憩後解散した。
解散の後、NのN氏と二人で神楽坂本多横町にあるたつみやという老舗うなぎ屋へ入った。花見して、ランチ食べて、適度に歩いて、ビールとうなぎ。充実の一日であった。
ふと見ると、たつみやの壁にはうな重の値段の変遷が貼ってあった。それによると、慶応年間(幕末のころ)のうな重の値段は三百文となっている。んっ三百文?三百坂の罰金と同じである。うな重を食べている時、運良く罰金を取られずにうな重をほおばっているような気がした。心なしか一層おいしく感じられる。うれしくなった。