観光開発・・(2003年5月17・18日)

某テレビ番組で今回の修学旅行の目的地である今井町が話題に取り上げられたとの情報が入ったのは、出発のわずか一週間前であった。早速TVの内容 をチェックすると、よくある観光地紹介と思いきや「行政の横暴と怠慢」を主題にした内容であった。

今井町の持つ観光資源に注目した橿原市は、観光地として魅力を高めるために周辺整備することにした。お誂え向きに最寄駅からの入り口部分にある飛鳥川沿いに水路の上を不法占拠?した一帯があった。「ラッキーだ。公園を整備しよう」市開発担当者は思った。しかし、そう事は簡単に運ばない。実にこの場所は50年近く前から不法占拠?され建物が立っていたのであった。しかもその開発には当時の今井町長が絡んでいたらしい。残念ながらと言うか人によっては幸運なことに、50年も時間が過ぎていると当時の事情を知っている関係者もはや誰もおらず、細かいことははっきりしない。さらに転売が繰り返され、増築建て替えの結果、しっかりとした居宅となってしまっている。現在の居住者からみれば正当に入手したと思っていたものが、突然不法占拠と言われて寝耳に水の状態である。混乱を助長することに、縦割り行政のせいか開発とは関係のない税務担当部署はその場所に住んでいる人々から税金(固定資産税と思われる)を徴収している。さらにこの水路自体奈良県の管理下で橿原市は関係ないとなると一層話は複雑である。

話を突き詰めていくと、どうも開発担当者の勇み足らしい雰囲気がある。開発担当者は開発するのが仕事であるから開発できる場所とその開発理由を絶えず探している。(ここは日本地方行政で安易な開発が行われる一要因である)
今井町の場合、観光開発というもっともらしい理由はあるし、いい場所がただで手に入りそう!お金はかからないし、こんな役人的に完璧な開発はないとなる。とりあえず「どけ!」と言ったら大混乱。そこで「いいネタだ。ラッキー」とマスコミが嗅ぎつけたといったところだろうか。
そもそも、なぜ公園なのか。市の計画している公園整備のイメージ図を見る限り、今井町の魅力を増大させるような公園ではない。ありきたりの公園である。画一的な整備が今井町の魅力を削ることを危惧せざるを得ない。公園整備の前に、今井町という観光資源を観光施設として整備する必要があるし、今井町の町並みを維持している住民への補助だって必要だろう。観光客を呼びたいのなら、まずなにが今井町の魅力であり、観光地として何が足りないか考える必要がある。
しかし、もし橿原市の意図が、話題としてマスコミに取り上げてもらうため、わざと問題を発生させ、それによって今井町の全国的知名度を上げようとしているのなら、その恐るべき深慮遠謀は計り知れない。

さて、どんなに話題になっても、今井町自体が観光地として魅力的でなくては意味がない。TV放送から一週間後、確かめに行って来た。TV放送後すぐの土曜日、観光客が大挙して押し寄せているかもしれない。そんな心配をしながら、何はともあれ、「今井まちなみ交流センター 華甍」へ情報を取りに行く。すると、そこには、なんと閑そうな、というかのどかな雰囲気が漂っていた。芳名帳に記入をお願いされたので記入すると、11時頃入った我々の前に入場者はいなかった。もしかして観光客なんていないのではないだろうか。ついさっきと全く逆の疑念が頭をよぎる。ジオラマ模型など交流センターの内容は充実している。この建物自体も明治期の旧高市郡教育博物館を移築したものである。建物自体も風情がある上に、今井町の持つ雰囲気に合致している。
この情報センターにて今井町が想像以上の規模を持ち、想像以上の保存状態を保ち、そして想像をはるかに超える復旧努力が行われていることがわかった。観光客なぞいないのかもしれないなどという失礼な疑念は消えうせ、期待が高まる。お昼時ではあるが、食欲よりも、今井町に対する好奇心の方が勝ってしまった我々は、早速今井町の街に入ってみる。果たして観光客はいるのか、いないのか。

期待に胸膨らませ、路地を曲がって今井町に入るとそこに観光客は、
「全くいない…」
観光客どころか人ひとりいない。犬も猫もいない。
その代わりに、我々の目の前には戦国から江戸時代の町並みが時を越えて存在していた。もしかすると、我々はタイムトリップしてしまったのではないか、そこの路地から着物姿の人が出てくるのではないか、そんな錯覚にとらわれる。
ただ立ち尽くす我々の回りを、静かに時間だけが流れている。時の流速が違う。都会のスピードに慣れた我々は違和感を覚える。上を見上げると、灰褐色の甍が青い空に映えている。統一感のある二層の建物群は往時の賑わいをなつかしんでいるかのようだ。白い漆喰の壁と黒の格子桟のコントラストは絶妙の調和をかもし出している。

我々は不可思議な感覚に戸惑いながら歩を進めてみた。突然突き当たりの路地を自転車が通り過ぎた。幻か?いや現実だ。今が現代なのだ。時空感覚が麻痺しかけている。夢かうつつか。現実かまぼろしか。今か昔か。狂った三半規管が過去へと誘う。
初めて訪れたはずなのに、いつか通った路地を歩いている。懐感。かつて日本中にこのような町があった。遺伝子の片隅に刻み込まれた記憶が甦ってくる。今それを取りに戻ってきた。しかし、それが何だったか思い出すことは出来ない。
ゆっくりとした、しかし力強い時の流れがいやなこともつらいことも押し流していく。もはや陳腐な表現になってしまった癒しという言葉では表しきれない。過去と言う過去全てを内包し、全てを許容していく。

称念寺までやってきた。今井町はこの称念寺を起源として回りに町が形成された寺内町であった。しかし、正直言うと現在の称念寺は荒れ寺の雰囲気だ。大屋根に草が生え、庇の裏板が何枚も剥がれかけている。幻滅したのではない、逆にそこが大変魅力的なのだ。綺麗に整備されている寺院にはない独特の魅力と威厳を感じる。幾人もの旅人がこの縁側で休息と取っただろう。生きることに疲れた人が、戦うことに呵責をおぼえた武士が、所在なさげに縁側に腰掛け、時を過ごした。そんな時代劇の世界がよく似合う。次回は是非黄昏時に訪れたいと思う。

称念寺の向かいにある「ふれあいセンター」ボランティアの女性が今井町について説明してくれた。心のこもった丁寧な説明はこの女性がいかに今井町を愛しているかを証明している。きっと多くの町の人たちがこの今井町を愛し、誇りに思っているのだろう。
さて熱の入った説明は続く、ちょっと長いような気がしてきた。そういえばお腹もすいていたんだ。そう気づくと居ても立ってもいられなくなってくる。説明は続く、終わりは見えない。説明は大変興味深いが、空腹では気もそぞろとなる。突然説明が終わった。しまった!限界に達してきた気持ちが顔に出てしまったか。
とまた始まる説明。気づかれた訳ではなかった。しかし、流れの途中に発生した一瞬の間は流れを変える力を持っている。我々は立ち上がる機会を得た。立ち上がると、ほどなく説明は終了し、我々は昼食処を探しに出ることができた。説明のお礼をボランティアの方に言ったときの彼女の人なつこそうなやさしい笑顔が印象に残った。

「さて、昼食を」と思ったが、食べるところがない。実はこの今井町、食事処だけでなく喫茶店とかの休憩できるところが極端に少ない。全体で3~4軒。しかも全て小規模。さ迷い歩いた末に我々が落ち着いた比較的大きそうな店は11人の我々がぎりぎり入れる程度のそうめんやであった。土曜日だと言うのに、店はおばあさん一人で切り盛りしている。「一人でやっているから時間かかるよう」
と人なつこそうな顔で言われると、大人数で押しかけてすみませんとこっちが恐縮してしまう。言われた通り時間がかかったが、そうめん自体は大変美味であった。さすがは三輪そうめんの地元面目躍如というところだ。さて、忙しく立ち回るおばあさんをみかねたのかおじいさんが出てきてお茶を出してくれた。この人たちもまた人のよさそうな老夫婦。お腹も膨れたせいか気分よく店を後にすることができた。

散策を再開すると、いつのまにか散策の目的が「みみずの強壮剤を探せ」になっていた。今井町にはミミズのエキスで作った強壮剤なるものを売っている店があるとの情報を前述のボランティアの方から得ていたのだ。目印は「桃の鬼瓦」 その近くに店があるらしい。ミミズの強壮剤も珍しいが、桃の鬼瓦もまた珍しい。

1時間ほど散策しているとついに「みみずの強壮剤屋さん」を発見。ポスターがまた変わっている。
「ここでミミズの強壮剤売っているのですか?」
「強壮剤ではなくてミミズの風邪薬なら扱っていますよ」
なんと何処で間違えたのか、強壮剤ではなくて風邪薬だった。いらぬ恥をかいてしまったが、これを機会に店の方と話し込むことができた。
店先で輪になって話ははずむ。刹那、私の前を何かが通り過ぎた。恥ずかしながらあまりのスピードに何が通り過ぎたか全くわからなかった。
「今何か目の前を通り過ぎたような…」
「ツバメです。店の中に巣があるんです。だから扉は一日中開けっ放しなんですよ」
ツバメの巣があるから戸は開けっ放し、ツバメのために人間が我慢する。そういえばあたりまえだったような気がするが、便利さを追い続けてきた我々には新鮮であった。都会に住むようになった日本人がかつて置き忘れてしまったものがここには残っている。今井町には、建物だけでなく、日本人の気質とその生活も伝えられてきたのである。

「ミミズの風邪薬」をお土産に購入する。そして、名残惜しいことながら今井町から離れる時間がやって来た。
最後に見かけた床屋の看板にウルトラマンの人形(フィギュア)が大集合していた。江戸時代の町並みとはかけ離れているにもかかわらず、町並みに溶け込んで違和感がない。今井町には時代を超える度量もあるのか、もしくは、ウルトラマンに時代を超える魅力があるのか、少なくともアクセントとして今井町の見所の一つとなっていた。

今井町(いまいちょう)なんと単純で魅力のかけらもない名前である。日本中どこにでもありそうな町の名前。しかし、町自体は大変魅力的だ。町並みが残っているところは数多いが、これだけの規模で残っているところは数少なく、さらに今井町のように面で残っているところとなると一層希少である。そして住民の方々の今井町を愛する気持ち。我々は住んでいる町に対してこれほどまでに愛情をもって接しているだろうか、誇りをもっているだろうか。ごみひとつ落ちていない状態を維持するのは並大抵の努力では出来ない。古い家に住みつづけるのは不便で忍耐を強いられる上に、補修費用もばかにならない。それでもこの町が維持され、さらに復旧努力がなされていると言うことは、いかにこの町が住民に愛されているかの証明である。戦国時代から大きな火災がなかったのは幸運だけでなせることではない。町の魅力は住民のホスピタリティによっても倍加される。観光地においても、人こそ財産である。

今まで見てきたように観光資源としての今井町は抜群の素材を持っている。さらに周辺地域も、充実している。奈良からちょっと足を伸ばす程度の場所に位置し、飛鳥、橿原神宮が同一日観光地域内にある。
しかし、観光地としてはまだ不十分な部分が多い。たとえば、食事をする場所や休憩を取れる喫茶店などが極端に少ない。三輪そうめんなど名物と呼ばれる特産品が多い場所であるにもかかわらず、お土産などを買う店舗も少ないと言うよりない。称念寺の前の「ふれあいセンター」に申し訳程度にある店舗も、店の人さえいない。(それで窃盗さえ起こらない所は魅力のひとつである)土産屋に限らず店舗自体とても少ない。建物に魅力があるので、個性的な店舗が数多くあってもおかしくない。
今井町には、宿泊施設もない。現在日本の温泉や欧米などのリゾートや観光地では、大型ホテルより細やかなサービスと安全な環境を提供できる、つまり従業員の目が全ての客に届く程度の小規模宿泊施設が人気である。今井町はそのようなプチホテルにはいい立地条件だ。今井町に大型ホテルは必要ない。その雰囲気を生かした個性のあるプチホテルがいくつか集まっていたらそれで充分である。
現在、官民上げての観光開発は進んでいるようであるが、疑問点も多い。取ってつけたような環濠堀の復旧には、幻滅する。街中の掘割を整備したのに水が流れていないのは、もったいない。公共による開発がハード面に偏っているのが気にかかる。
よって魅力的な町なのに観光客はとても少ない。4時間半ほどの滞在で我々があった観光客は一組だけであった。しかも外国人観光客。たぶんガイドブックの片隅にでも記事が出ていたのだろう。

さてTVで話題となった不法占拠の一帯はどうであろうか。おおっ確かに住宅が連なり、水路を覆っている。しかし、水路の上だなんて言われなければ気づく人などいないだろう。しかし、あの場所に公園を作っても、観光客を誘致できるとはとても思えない。飛鳥川も日本のどこにでもある中途半端にコンクリートで固められた川だし、川向こうもありふれた建物が並んでいるだけである。魅力ある公園が作れるとは思えない。
ただし、確かに場所はいい。今井町の入り口付近に隣接して存在している。ここに無理して公園を整備するよりも、この場所に店舗やホテルを整備した方がいい。現在今井町の住民は会社員が多く、今井町の保存については理解があるが、店舗の出店や店舗への賃貸には理解が得られないだろう。よく見てみると、この水路の場所は比較的大きな道路に面しているので店舗が多い。再開発組合を結成し、今井町の雰囲気に合わせた開発をすれば、現在の今井町の足りない部分を補えるし、一体的な町づくりができる。個人的な希望では水がキレイなようだったので水路を活かした町つくりをして欲しい。現在の住民は、店舗を経営してもよいし、賃貸もしくは売却してもよい。市が不法占拠を理由に無理やり徴用することも出来るかもしれないが、問題の解決には10年20年といった長い時間がかかるだろう。

個人的には観光客が訪れるようになり、人なつこさ、雰囲気、治安、静けさなど今井町のソフト面での魅力が削がれるのではないかという危惧を持つ。
しかし、町並みと言う素材だけで訪れた人を魅了できる以上、今井町に観光地としてのブームが来る日は近い。観光客が来るのを拒むことはできない。(規制してしまうのもひとつの手ではある)人が押し寄せても今井町のいい部分を保持できるような施策でケアして欲しい。それは土建行政的なハード面では克服できない。かと言ってソフト面で解決するのも難しい。この問題はすべての観光地が持つ矛盾する命題なのである。

私があなたに言える事は「有名になる前に行くべし」だけかもしれない。

その夜、我々は焼肉の町大阪鶴橋へ出て、焼肉の聖地とも呼ばれる「鶴一」にて宴を持った。ここ鶴橋は大阪の退廃的繁華街の雰囲気を色濃く残した町であった。駅のホームにまで焼肉のにおいが立ち込めてくる場所は日本でここだけである。
聖地「鶴一」には10年ほど前に訪れたことがある。薄汚れたビル。雑然と並べられたテーブル。色を失わせるような薄暗い蛍光灯。煙を吸い込むダクターなどという近代的焼肉設備などと無関係。煙でかすむ店内はどこまで続いているのかわからない。それでも聖地は巡礼者であふれかえっていた。
しかし、今回訪れてみると、退廃的なイメージは薄れ、鶴一は綺麗な普通の焼肉屋になっていた。有名になりすぎてブランド化したのか支店がたくさん出来ていて鶴一村が形成されていた。鶴一ブランドのお土産もあり、愕然とした。昔と変わらないのは焼肉のにおいだけであった。ここまで有名になってブランド化に成功していると人が訪れなくなることはないだろう。鶴一は大阪の焼肉愛好者の聖地から全国の焼肉愛好者の聖地になったのだ。
しかし、一抹のさみしさを感じるのだ。個人的なわがままを言わせてもらえれば、一軒だけあの退廃と混沌の象徴を鶴一の、いや鶴橋の、いや大阪の原点として残して欲しい。

変わるほうがいいのか、変わらないほうがいいのか、決して答えの出ることのない問いを考えながら歩く我々に、大阪の派手なネオンは
「そんなことどうでもええやないか」とささやくように瞬いていた。