花のお江戸・・(2003年4月19日)

花のお江戸の花とはにぎやかな様子を表しているが、江戸時代は庶民が花を愛でる余裕の出来た時代だった。今では日本全国の年中行事と化した桜の花見も庶民に広まったのは江戸時代であった。桜はもちろんのこと、当時人気があった花は牡丹、朝顔を筆頭に菖蒲、藤など多種多様に渡っている。
その中でも人気があった花につつじがある。桜のように壮大でもなく、牡丹のように華麗でもなく、朝顔のように清楚でもなく、ささやかにこじんまりと咲くつつじはそのつつましさと親しみやすさで人々を魅了した。さらに、つつじは開花の時期が種類によりずれているので、見頃は4月の中ごろから5月の中ごろまでと長い。

江戸時代の庶民になったつもりでつつじを見るなら、やはり根津神社だ。江戸文化が花開いた元禄時代、将軍綱吉によって建立された権現造りの境内は江戸時代の風情を残している。そこに植えられているつつじは約50種3000株。

本日の集合場所は最中アイスで有名な芋甚の前。狙いどおりみんなアイスを食べて待っている。この芋甚は大正元年(1912年)創業。ちなみにこの年の4月15日タイタニック号が沈んでいる。氷山のように冷たい最中アイスをほおばりながら、「日露戦争も終わり(1905年)飛躍の時を向かえた当時の日本の人々も、つつじを見に来て甘い物を楽しむことが出来るようになったころだな」などと想像していた。

人の流れは根津神社に向かっている。そんな中、あまのじゃくな我々は猫が日向ぼっこしている陽だまりの脇道へそれた。まだ不忍通りの喧騒がはっきりと聞こえる裏通りに目的地である根津教会がある。
大正8年に出来た建物はまるで北欧のどこかの村にあった教会を持ってきたように、こじんまりしていて質素だが、とてもおしゃれな木造の建物である。その謙虚な佇まいは日本的な佇まいの根津の街にぴったりである。また、古い建物と思えないほど手入れがしっかりしており、関係者と地域の人にいかに愛されているかを偲ばせる。この建物は重要有形文化財に指定されている。ちなみに、大正8年(1919年)はカルピスが発売された年であり、アメリカでは禁酒法が出来た年である。
内部を見学させていただくと、ホールの正面ではなく角に祭壇を置き、斜めに椅子を配してある。不思議な感覚だ。しかし、室内は掃除がの行き届いており、大規模な教会にはない親しみ易さを感じた。

根津教会を出た我々は、古きよき旅館上海楼の前を過ぎ、脇から根津神社の門前に出た。そこで見たものは普段の静かな根津近辺からは想像できない人の数であった。つつじまつり中の根津神社への人出は多いと聞いていたが、時期がまだ早いのでさほどでもないだろうと高をくくっていた。あらためて、つつじの人気を思い知った。
根津神社はヤマトタケルノミコトが千駄木に創祀したと言われる古社を、徳川5代将軍綱吉が甥(6代将軍家宣)を後継ぎと決めた1706年、わざわざその甥の生誕地にこの神社を新築移転したものである。この1706年、ロンドンでは紅茶で有名なトワイニングの店がオープンしている。ただし、オープン当初はコーヒーハウスであった。
根津神社は権現造りの完成形といわれ、その普請は天下普請と呼ばれたほど大規模なものであった。現在でも社殿・唐門・楼門・透塀等などが残り、当時の壮麗さが充分うかがえる。根津神社を見ればわかるとおり、綱吉はとんでもない浪費家だった。すでに逼迫始めていた幕府の金蔵は綱吉の時代でからっぽになったらしい。公共事業が活発になると経済が活発にになるのは現在と同じで、貨幣経済が勃興した大阪では元禄文化が花開いた。しかし、恩恵を受けたのはもっぱら商人の街大阪で、江戸の庶民は悪性インフレと生類憐れみの令(1685年〜1709年)で苦しんでいたらしい。

肝心のつつじはというと、時期が早すぎの感は否めず、一部が咲いているにすぎなかった。仕方なく、早々に根津神社の人ごみを抜けた我々は、千駄木へと足を向けた。千駄木近辺には、夏目漱石や森鴎外など明治期の文豪のゆかりの地である。数々の記念碑が残っているが、残念ながら、その当時の建物などは残っていない。所々に残る古い建物などが当時の面影を伝えているだけである。
しかし、街自体の落ち着いた雰囲気は当時を思わせるに充分である。都心の中にありながら、その喧騒とは隔離された環境は、ここに住めば、文学の傑作が生まれそうな錯覚を思わせる。もちろん、その才能と努力が前提として必要である。

数々の文学記念碑を廻り、千駄木の高台から千駄木駅の方へ降りてくると、そこに明治8年創業の老舗煎餅店菊見煎餅総本店があった。一枚から買えるということなので早速唐辛子煎餅を一枚購入し、ほおばる。明治8年(1875年)と言えば、東芝が創業し、日本の朝鮮侵略が始まった年である。
木造の建物はいかにも老舗という感じの古い建物である。「もしかして創業当時の建物か?!」と思ったが当然そんなことはなく、創業以来3代目の建物で昭和52年建築の建物だそうだ。趣のある外観は昭和2年に建てられた2代目の建物の外観に似せてある。

風情のある建物の前では雑誌らしき写真の撮影が行われていた。浴衣姿のモデルに見惚れていると、煎餅の唐辛子がいやに辛いことに気づいた。「水、水、水が欲しい!」と騒いでいるとなんと雨が降ってきた。

天気予報では降水確率0%だったので誰も傘なんて持ってない。15人ほどの集団である我々は雨宿りできそうな場所を探して、へび道あたりを右往左往。するとどこかで見たような場所に出てきた。「デジャヴだ!」と思ったらそこは、集合場所の芋甚前であった。
「私さっき食べれなかったから、と言いながら最中アイスを買っている女の子は集合時にも食べていたはずだ」などと思っているといつのまにか雨は止んでいた。

最後に我々は、怪人二十面相の隠れ家のようなちょっぴり怪しい雰囲気の大名時計博物館の外観だけ見て、最後の花を散らすサクラ吹雪の寺町谷中を上野方面へ向かうのであった。