そこが人生の分かれ道  2002.8.24



緑が一面空を覆っている。木漏れ日が水面に輝く。耳についていた雑踏はセミの音に敗れ、隣人の話し掛ける声さえ聞き取れない。そこは疲れた旅人が安らぎをもとめて集うオアシスのようだ。私たちが人生ゲームのような「東急線すごろく」ではじめに訪れたのがそんな等々力渓谷であったのは偶然ではないかもしれない。

今回のツアーは「沿線すごろくシリーズ第2弾 東急線編」である。「完全無欠の出不精」でもなければ、都内もしくは近郊に住んでいて東急線に乗ったことのないという人は皆無だろう。ただし、各東急線すべてに乗ったことのある人もまた皆無だろう。いくら沿線に住んでいてもそんな物好きな奴そうそういるものではない。
ところで、疑問に思ったことはないだろうか。東急線は小田急線や京王線と違って路線が多く、且つ、網の目のように張り巡らされている。なぜか。東急線が作られた明治の当時、急速に力をつけた新市民階層は住む所がなかった。東京には下町と屋敷町しかなかったからだ。自然と住宅地は郊外へ広がって行く。すでにモデルがあった。阪急電鉄である。郊外に線路を引き、沿線を住宅地として開発する。終点には娯楽施設を置く。ちなみに阪急における娯楽施設とは宝塚ファミリーランドと宝塚歌劇団であり、東急におけるそれは多摩川園である。東急も同様な開発がなされた。田園都市開発だ。(田園都市線ではない)しかし、他の小田急や京王と違ったのは遠方の地方都市と都心を結んだ長距離路線ではなかったことである。いきおい開発は線路に沿った一次元的開発ではなく二次元的な面での開発となっていった。それがはじめから意図されたものであったのか、五島慶太が強盗のように吸収していった他の路線を、ただ単につなげた結果にすぎないのか、それはわからない。そのため現在の東急線網はこんなに近くに他の路線の駅が必要なのかと思うほど地下鉄のような路線網を維持している。このような東急線網を全線制覇するという前人未到の大冒険に我々一行は挑戦しようというのだ。これを快挙というのか無謀というのかあるいは壮大なる無駄というのか、それはやっているものにはわからない。 最大の難関はまたもホームで衆人環視のもとサイコロを振らなくてはならないということか。
困難ではあるが昂揚するこの大冒険に参加されたのは……・たった8人。幹事入れても10人。rekisan史上最小人数記録の更新であった。ちなみに、それまでの記録は第一回TOC七福神めぐりの11人。原因は、あまりにも大冒険だったのか(無意味だったのか)、暑いからか、もしかしたらあまりにも小田急線すごろくがつまらなかったのか。定かではない。

さて、2チームに別れた一行は分かれ道のない小田急線と違い、複雑な網の目に頭脳をフル回転させなくてはならなかった。どちらの道を選択するかその選択が人生の分かれ道。
ちなみに賽の目に恵まれたKりんチームは渋谷を出発した後、等々力渓谷をしばし散策し、次の目で渋谷へ戻ってくるという、うれしいんだか、うれしくないんだか複雑な心境でスタート地点である東急文化会館で昼食。その後、桜坂(沼部)でミーハーおのぼりさんよろしく記念撮影。そして、御嶽神社(御嶽山)でお参り。この御嶽神社にある彫刻はなかなかすばらしいが内容が「浦島太郎」と「養老の滝」という誰が選んだのか顔が見てみたいと思わせるような題目であった。次の目は戸越銀座であったが、さすがに疲れてきたので、時間もないことを無理矢理、理由にして、マークシティでお茶をした。長かったが充実な一日でもあった。
今回の結果は、賽の目で惨敗したNさんチームがクイズで大逆転勝利と、ここでも人生劇場の一場面を思わせるような勝利劇であった。

最後に、我々が「桜坂ってどこですか」
と尋ねた沼部駅の駅員さんの「あっ桜坂はね」
と答えた親切だが「またか」という気持ちがありありの顔が印象に残った。