魔都  2002.5.18・19



10年ほど前まで京都へはよく行っていた。神戸に住んでいたこともあり、暇になると「じゃあ京都でも行くか」と思い立つまま気の向くまま、アズキ色の阪急電車に揺られて京都へ向かった。たいていの場合ひとりだったので寺院など見所へは行かず、ただ町並みの中を散歩するだけであったが、それだけでも京都には他の町にない魅力があった。時はバブルだったにもかかわらず、町屋は数多く残り、格子窓の連なる通りに生活の営みがあり、綿々と流れる歴史を感じることができた。

歴史のある所には「魔」が存在する。京都は魔都でもある。その「魔」という視点で京都を面で捉えることが今回の旅のテーマであった。「魔」とは、目に見えないもの、得たいのしれないものの総称である。人々にとって恐れそして敬うものであった。

さて今回のrekisan初遠征は「面で捉える京都」ということで、初めて「京都タワー」に登る機会を得た。ちなみに東京タワーにも登ったことのない私は京都タワーを「外国人と修学旅行生の行く所だ」とすこしバカにしていたところがないでもなかった。しかし、そこではいままで見てきたつもりだった京都が違う面を見せていた。視点を変えてみると見慣れたもの、陳腐だと思っていたものが違う姿で輝いていることが分かったりするのだ。これは全てのものに当てはまる。知っているつもりだが、わかっていない部分である。

京都タワーの展望台には昭和30年代の写真が飾られており、「京都はこんなに変わってしまいました。」と訴えている。が、私には昭和30年代でさえすでに開発が進み、古都のイメージを残しているようには見えなかった。京都は時代の流れに逆らうことなく、逆に流れに合わせることによって、その活力と日本の中心地としての地位を現在まで保ってきたのかもしれない。その姿は高瀬川の流れに逆らうことなく身を任せて流されていく鴨の親子とダブるのであった。

京都の魅力は人それぞれ捉え方が違うだろう。あらたなる魅力を探しにまた訪れたい。