平尾台(福岡県)

ひらおだい 標高400〜600m。

  平尾台は北九州市にあり、秋吉台と並ぶカルスト台地として名が知られている。
 筆者にとって、この平尾台は学生時代の思い出の舞台である。 学習院大学時代は探検部に属していて、 一時期ケイビングに熱を上げていた。 その活動の一環として平尾台で合宿し、 目白洞を発見するという幸運に恵まれたからである。 1969年の春休みのことである。 翌年も一回訪ねている。
 その後ケイビング熱も冷めて、 東京から離れている平尾台を訪れる機会がなく月日が過ぎた。
 それが、2005年になって、5月連休に英彦山を登ることになり、 比較的近くにある平尾台に寄ってみる気になったわけである。 したがって、これは35年ぶりの平尾台訪問記である。
 5月2日の午前中に英彦山に登り、 午後、レンタカーで平尾台に移動した。 英彦山は霧ですっぽり被われていたが、 平尾台に到着するころには天気はすっかり回復し、 青空が広がり汗ばむほどであった。 目指す目白洞への道は案内板があるのですぐにわかった。 平尾台自然観察センターから先は砂利道だったはずだが、 きれいに舗装されている。 周りを見渡してみると目白洞周辺は木々が繁茂しこんもりとしている。 当時はもっと植物が少なかったように思うが、 3月と5月では葉の茂り方も違うし、 人間の記憶などあまり当てにはならないから断言はできない。 それにすぐそばに畑が迫っているが、 これも記憶にない。 東京に帰って1969年当時のメモを見ると、 やはり近くに畑地があることがわかった。 畑のことはすっかり記憶から消えていたわけである。
 管理小屋前の駐車場には、管理人の車が1台あるのみで閑散としている。 5月連休の谷間で、休日ではないせいかもしれない。 暇をもてあましていたような管理人ご夫妻が、 さっそく近寄ってきて話しかけてきた。 筆者が目白洞発見のときの探検部員だと名乗るとびっくりした様子で、 当時のことなどを尋ねられた。 少しおしゃべりをした後、 コンクリートの道を歩いて洞口へと向かった。 洞内に入って少し下ると左手上部に発見当時に通った穴が残されていて説明板がある。 身を捩じらせながらくぐり下りたことを思い出した。 洞内は200mほどが観光用に整備されている。 まず目に付くのが「ギリシャの門」と我々が名づけた2本の石柱。 記憶の中の「ギリシャの門」より小ぶりだったが、 保存状態は良好である。 この石柱の間を何回歩いたことか。 その奥の天井が平らになっているところとか、当時の記憶が少しずつ蘇ってくる。 一通り歩いた後、 管理小屋に戻ると、 管理人の奥さんにひきとめられ、 コーヒーをご馳走になった。 次の観光客が来ないので、 最近訪れた大学探検部のことなどを話題にしてしばらく休憩させてもらった。
 目白洞を辞したのち、天気もいいことだし、 近くのピークに登って平尾台の全景をながめることにした。 目白洞キャンプ場に車を置いて、 中峠へ続く舗装道路を歩く。 1969年の3月に来たときには、 目的が新鍾乳洞捜しだったので、 このあたりのドリーネを片っ端から覗き込んだはずだが、 どのあたりを歩いたのかもうはっきりと憶えていない。 ただ季節が3月で野焼きの後だったので、 草の葉は出ていなかったに違いなく、 緑の絨毯の中に浮かぶ白い石灰岩の景色を見るのは今回が初めてである。 中峠まで来て、どこまで歩くか思案した。 この日の19時北九州空港発の飛行機で帰京する予定なので、 あまりのんびりも出来ない。 貫山(712m)まで足を延ばすのは時間的にきつそうなので、 大平山(おおへらやま、587m)を往復することにした。 このあたりは羊群原(ようぐんばる)と呼ばれている通り、 石灰岩が羊の群のように見える広々とした草原である。 石灰岩をぬうようにつけられた踏み跡をたどって高度を上げる。 大平山の頂上からはその羊群原いったいが見渡せ、 目白洞の管理小屋もはっきりと確認できる。
 36年前に毎日うろついたはずのこのあたり一帯をしばらく眺めたのち、 大平山を後にした。

歩行記録: 2005/05/02

 目白洞の管理事務所。 目白洞の発見当時は、 周りにこんなに木が多くなかったような気がしたので、 帰宅後1969年の写真を取り出して見ると、 やはり木が茂っている。 1969年の時は季節が3月で、多くの木の葉は落ちていたと思われるにしろ、 筆者の記憶もかなりいい加減なものである。

 羊群原からの眺め。 矢印が目白洞の管理事務所。
 それにしても、羊群原という名は、この眺めそのものである。

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