全生庵(東京都台東区) 2019年 8月
 全生庵(ぜんしょうあん)は山号を普門山と称するる臨済宗のお寺で、台東区谷中にある。 創建は1883年(明治16年)。
 筆者のお寺巡りは、主に江戸時代より前に遡る古い寺院が対象なので、全生庵は例外的に新しいといえる。 その全生庵を訪れようと思ったきっかけは、幽霊画、つまり幽霊の絵の鑑賞にある。 全生庵には、幕末から明治時代にかけて活躍した近代落語の祖と言われる三遊亭円朝の墓があり、彼の集めた幽霊画のコレクションを所蔵している。 その幽霊画が毎年8月に限って公開されるのである。
 もともと全生庵は、幕末から明治にかけての剣豪で政治家としても活躍した山岡鉄舟が、明治維新で亡くなった人々を弔うために開いたお寺である。 その山岡鉄舟を尊敬し、禅の弟子であったのが三遊亭円朝である。 円朝は、今も演じられる「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」や「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」、「死神(しにがみ)」などの怪談話を創作する傍ら、その参考として幽霊画も集めていた。 円朝の没後、彼のコレクションは別人の手を経て、全生庵に寄贈されて今に至っている。 そういういきさつがあって、幽霊画展が円朝忌の行われる8月に開かれている。
 8月も後半になって少しは暑さが和らいだ日を選んで、幽霊画展に足を運んだ。 千駄木の駅から三崎坂をしばらく登ると、左手に全生庵が見えてくる。 開かれた山門の向こうに、堂々とした本堂が見えている。 下町の比較的歴史の浅い寺院にしては、境内はかなりゆったりとしている。 お寺の多い谷中の中でも寺域は広いほうではないだろうか。
 500円の志納金を納めて、さっそく幽霊画展の会場に入ってみる。 ほとんどの幽霊画が軸装されて、伝・円山応挙作の絵を初め、河鍋暁斎など江戸から明治時代にかけての作品が並んでいる。 いかにも幽霊らしい不気味さが漂うものから、あまり怖さを感じさせないものなど様々だ。
 まずは、江戸時代の絵師・円山応挙が描いたと伝わる幽霊図から鑑賞。 髪を乱した美人で、下半身は消え入るように表現されていて足がない。 足のない幽霊が世の中に定着したのは、円山応挙の絵によってであると言われるくらい、彼の絵は影響力が大きかったようだ。
 ずらりと並んだ幽霊図をしばし眺めていて気がついたのは、幽霊に足がないのはもちろん、顔は向かって左斜め下を向いている絵が多い。 円山応挙の絵の構図を踏襲しているように見える。
 ところで、幽霊の出る季節といえば夏が思い浮かぶが、なぜなのだろう。 幽霊画を見たり怪談話を楽しむのは、涼を得る手段だったとする説はあまり根拠がなく、夏にはお盆があり、ご先祖の霊が帰ってくると信じられていたことと結びついているというのが真相のようだ。
 なかなか興味深い展示を見た後、外に出てみると、境内の奥に墓地が広がっていた。 ひときわ目を引くのは、金色に輝く谷中大観音像だが、これは平成になってから作られたらしい。 墓地の真ん中あたりに山岡鉄舟の立派なお墓がある。 近くには三遊亭円朝のお墓もあり、こちらにはたくさんの花が供えられていた。
 全生庵の拝観を終えたあと、まだ日が高いので、谷中の街を日暮里の駅まで歩いた。 さすがに真夏の昼間に街歩きをする人は少ないようで、観光客の姿も多くなかった。 せっかくなので、駅前で名物の羽二重団子を買って帰路に着いた。
 写真は、CANON G7XMk2で撮影。


 三崎坂(さんさきざか)に南面して建つ全生庵。
 門柱には、「三遊亭円朝コレクション 幽霊画展」の看板が掛けられている。
2019/8/22撮影

 伝・円山応挙の幽霊図
 足のない幽霊は、円山応挙の絵によって定着したと言われている。
 興味深いことに、他の画家の幽霊画の多くも、幽霊の顔は向かって左下を向いている。
 付け加えれば、「応挙の幽霊画」と題する噺が、今も落語と講談の両方で演じられている。

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