永福寺跡(鎌倉市) 2017年 12月
 永福寺(ようふくじ)跡は、鎌倉宮方面から瑞泉寺に向かう道の途中、通玄橋の手前左手にある。
 永福寺は、源頼朝が奥州征伐の際に平泉の地で見た中尊寺二階堂を模して建立した浄土庭園を持つ寺院である。 室町時代1405年の火災をきっかけに廃絶し、長く放置されていたが、近年発掘調査が続けられていた。 その成果を基に建物の基壇と池が復元され、「史跡永福寺跡」として2017年夏から公開されている。
 2017年秋には、鎌倉歴史文化交流館で、「甦る永福寺−史跡永福寺跡整備記念−」と題して特別展が開かれた。 鎌倉歴史文化交流館は、2017年5月に開館した新しい施設で、私はまだ訪れたことがなかった。 そこで特別展が開催される機会を利用して、永福寺跡と合わせて見学に出かけてみた。
 特別展には、瓦などの出土品が展示され、境内の復元図が置かれていた。 それによると、池が境内東側にあり、その池に面して東向きに二階堂および阿弥陀堂、薬師堂が建っていた。 まさに極楽浄土が出現したかのような光景が広がっていたらしい。 二階堂が伽藍の中心で、当時としては二階建ての建物は大変珍しかったので、永福寺自体も二階堂と呼ばれたようだ。 さらには、このあたり一帯の地名としても使われ、今も続いているわけである。 ただし、二階堂は裳階付き屋根を持つ実質一階建ての建築だった、とも言われている。 図面が残っていないので、はっきりしないらしい。
 実際の永福寺跡に行ってみると、柵で囲まれているが、ゲートが数か所あり、昼間は自由に出入りできる。 境内は広いので、全貌をつかむには、丘の中腹にある展望台まで登ってみるのがいい。 ここから眺めると、その規模の大きさが実感できる。 二階堂の建物があった当時は、さぞかし雅な光景が広がっていたに違いない。 今も残る浄土庭園の例として宇治・平等院があるが、建物の規模は永福寺のほうがずっと大きかったという。 ただ、地形的には東西北の三方を山に囲まれた狭い土地なので、壮麗な伽藍を遠望できることはなかったのではないだろうか。
 ところで、永福寺の読みは「ようふくじ」となっていて、永を呉音の「よう」としているのが珍しい。 仏教は中国経由で日本に伝来した経緯から、寺院名を含む仏教語は漢字表記が一般的で、音読みされることが多い。 それも呉音が多く残っているようだが、全国に数ある永福寺と名のついた寺院について言えば、「えいふくじ」と読む寺院のほうが圧倒的に優勢らしいのが興味深い。 ただ、寺院名やその表記・呼び方は時代とともに変わることが往々にしてあるので、昔からそうだったのかまではわからない。
 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。


 南側の丘の中腹から眺めた遺跡。
 池は復元されたものだが、元の池はもっと大きかったそうだ。 その池に面して、東向きに3棟の堂宇が並んでいたことを示す基壇が復元されている。 手前から阿弥陀堂、二階堂、薬師堂の3つで、それぞれが回廊でつながっていたという。
2017/12/02撮影

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