豊国神社/方広寺/豊国廟(京都市) 2015年 11月
 豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区にある豊臣秀吉を祀る神社である。
 秀吉は死後、現在の豊国神社の東方にある阿弥陀ヶ峰に葬られ廟が作られたが、 豊臣家が滅亡すると、徳川幕府により社殿は取り壊されてしまった。 現在地に豊国神社が創られたのは、明治政府によってであるから比較的新しい。
 豊国神社の場所は、かって方広寺(ほうこうじ)の大仏殿があった地なのである。 今の方広寺は、豊国神社の北隣に、大きな鐘楼だけが目立つ小規模なお寺だが、大仏殿があった当時は、 現在の京都国立博物館の土地を含め、なんと三十三間堂近くまでを境内地としていたらしい。
 秀吉が建立した大仏は、奈良東大寺の大仏をもしのぐ大きさだったという。 その後に起きた地震や火災のたびに作りなおされるのだが、秀頼によって大仏とともに作られた梵鐘の銘文が、 徳川家康によって難癖をつけれられるという有名な事件を引き起こす。 落慶法要は中止となり、のちに大阪の陣が起き、豊臣家は滅亡へと向かうのは、よく知られた史実だ。
 豊臣家は滅びても大仏は残ったが、1662年の地震で倒壊し、その後に木造で再建された大仏は1798年の落雷で焼失。 もう一度、有志によって上半身だけの規模を小さくした大仏が作られたが、これも1973年に焼失してしまった。 受難続きの大仏だったのだ。

 豊国神社は、京都国立博物館の北隣にあり、方広寺はさらにその北に接しているので、 筆者は南側の七条通から大和大路通を北上してまず豊国神社を目指した。 この大和大路通を歩いて気が付くのは、豊国神社と方広寺の近辺だけ不自然に道幅が広いことだ。 また、豊国神社の正面に通じる東西の道、正面通(大仏殿の正面にあたることから名付けられた)も神社の近くだけ幅が広い。 方広寺の大仏殿のために整備した結果といわれている。 国立博物館から方広寺にかけて続く、巨石を積んだ石垣も目立つ存在で、これも大仏殿を演出するための仕掛だったという。 だが、石垣の個々の石は見かけより薄いそうで、見栄え重視だったらしい。
 豊国神社でまず目に入るのは、金色に輝く豪壮華麗な唐門である。 もともと伏見城にあったものが、二条城、そして南禅寺の金地院と移されたのち、こちらに落ち着いたという。 派手好みだった秀吉にふさわしい装飾の門と言える。
 宝物館(有料)を見たのち、方広寺へと移動。 大仏殿のあった当時の広大な敷地の大部分を失い、当時の規模を偲べるものとして残っているのは、巨大な梵鐘くらいのもの。 この鐘の側面には、家康が難癖をつけた銘文を見ることができる。
 豊国神社/方広寺まで来たら、もう一か所、近くに興味深い史跡がある。 耳塚である。 豊国神社の前の正面通の道を少し西に歩くと、左手に見えてくるのがその耳塚である。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)時に、戦功の証として朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ、 塩漬けにして持ち帰ったものを葬ったのだという。 耳や鼻を削ぎ取るなどというやり方は、現代人の感覚からすると、なんともおぞましい話だ。

 豊国神社と方広寺周辺を歩くと、秀吉の絶頂期とその後の政権による否定/再評価という歴史、 それに負の側面にどうしても思いをめぐらすことになる。

 豊国神社と方広寺を見学して、豊国廟(ほうこくびょう)を見ないのは片手落ちなので、別の機会(2016年春)に訪れてみた。
 豊国廟は、豊国神社の東方、阿弥陀ヶ峰にある。 ここの山頂に秀吉は葬られ、中腹には多くの社殿が作られたのだが、その後の江戸幕府によって、 社殿は取り壊されてしまう。 豊国神社として、方広寺大仏殿跡地に再興されたのは明治時代のことで、阿弥陀ヶ峰にある豊国廟も明治時代に再建されたものである。
 豊国廟に行くには、東山七条の交差点から東に延びる道を進む。 京都女子学園のキャンパスがあるので、朝は女子学生の姿が多い道である。 なだらかな登り勾配の参道をしばらく歩くと、阿弥陀ヶ峰の中腹の平坦地に出会う。 太閤担(たいこうだいら)と呼ばれ、かっては秀吉好みのきらびやかな社殿が立ち並んでいたと想像されるが、 今は駐車場として利用されているようで、殺風景な印象を受ける。
 志納金100円を箱に入れ、あとは鬱蒼と茂る樹林の中、まっすぐにつけられた石段をひたすら登る。 登り切ると山頂で、巨大な石造の五輪塔が柵に囲まれて建っている。 ほかにはなにもなく、秀吉の埋葬地にしては、質素なものだ。 荒れているというほどではないが、手入れが行き届いているというわけでもない。 周りの樹木のため、展望がないのも残念だ。
 秀吉はたくさんの人に訪れて欲しかったのだろうが、わざわざここまで登る人は多くないようで、 筆者が頂上を往復する間、誰にも会わなかった。
(この項、2016/4/10追記)

 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。


 国宝の唐門
 もともとは伏見城にあった城門と伝えられ、掲げられている扁額「豊国大明神」は、後陽成天皇の宸筆と言われる。
 提灯には、豊臣家の家紋・五七の桐が描かれている。
 写真中央に鈴なりにぶら下がっているのは、千成瓢箪の絵馬。
 瓢箪型の絵馬が奉納されるのは、秀吉が合戦の際、馬印として瓢箪を使用したことに由来している。
2015/11/29撮影

 方広寺の梵鐘の銘文
 大仏とともに秀頼が完成させた梵鐘の銘文の一部「国家安康君臣豊楽」に徳川家康が難癖をつけ、 大阪の陣へとつながっていく。
 「国家安康君臣豊楽」の文字部分は、白い囲み線が引かれている。
 巨大な梵鐘(高さ4.2m)は、重要文化財に指定されている。
2015/11/29撮影

 豊国廟の太閤担(たいこうだいら)
 徳川幕府によって破棄されるまでは、ここに多くの社殿が置かれていた。 どうしたわけか、今は駐車場として使われている様子で、厳かな雰囲気は希薄だ。
 背後に見える阿弥陀ヶ峰の山頂に、明治時代に建てられた巨大な五輪塔があり、 そこに向かってまっすぐに石段が続いている。 登り甲斐のある石段である。
2016/3/18撮影

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