相国寺(京都市) 2013年 2月
 相国寺(しょうこくじ)は、正式には萬年山相國承天禅寺(まんねんざんしょうこくじょうてんぜんじ)と称し、 臨済宗相国寺派の大本山である。
 開基は足利義満、開山は夢窓疎石である。 足利三代将軍義満の強い希望によって、室町幕府の拠点「花の御所」近くの現在地に建設されたのだ。 創建後には、やはり義満によって強引に相国寺は京都五山第二位に列せられることになる。 このようないきさつから、往時の相国寺は将軍家ゆかりの寺として、境内には多数の堂宇が並び、 大いに栄えていたに違いない。 しかし、創建後にたびたび火災に見舞われ、伽藍の焼失と再建を繰り返すことになる。 今は規模が縮小し、伽藍も法堂(1605年再建)を除いて大部分が19世紀初めの再建となっている。
 金閣寺や銀閣寺はこの相国寺の山外塔頭つまり末寺である。 現在は、相国寺の住職が金閣寺と銀閣寺の住職を兼ね、相国寺境内の案内図には金閣寺と銀閣寺が 描きこまれている。 ホームページも、相国寺、金閣寺、銀閣寺が一緒になっているので、一体として運営されている様子だ。
 創建の順番は相国寺が最初で、次に同じ義満によって金閣寺ができ、最後に八代将軍義政による銀閣寺となる。
 興味深いのはこれら3寺院の位置関係だ。 地図でみると3寺院は直線状に並んでいて、ほぼ真ん中に相国寺がある。 はたして偶然そうなったのだろうか。 創建の順番から考えると、義政が銀閣寺を建てるときに、あえてそうなるようにした可能性が浮かぶ。 相国寺は「花の御所」とも近いので、あるいはその「花の御所」を真ん中に3寺院の位置関係を考えたのかもしれない。 相国寺のほうが、金閣寺と銀閣寺を結ぶ線の真ん中に近いのだが、それは現在の正確な地図を前にしての話である。
 筆者は2012年と2013年の2度ほど相国寺を訪れている。 2012年の4月のときには、春の特別拝観中だったので、開山堂庭園、法堂、宣明(せんみょう、浴室)を見学できた。 それぞれが興味深かった。 法堂では狩野光信による龍の天井画が見事で、鳴き龍も体験できる。 宣明と呼ばれる浴室内部の見学では、禅宗における入浴の意味や作法が多少理解できた。
 見学者の立場から、相国寺の最大の見どころはといえば、境内にある承天閣(じょうてんかく)美術館だと思う。 その承天閣美術館には2013年に訪れた。 美術館前に通じるまっすぐな道からして、整然としていて格調の高さがうかがえるが、建物も清潔でりっぱだ。 靴を脱いで素足で見学するシステムである。 ちょうど「墨蹟の至宝展」という特別展が開かれていて、無学祖元や夢窓疎石などの書が展示されていた。 残念ながら筆者は書に詳しくないので、その価値がよくわからなかった。
 絵に関心のある者にとって、常設展示品の目玉はなんといっても伊藤若冲だ。 金閣寺大書院に伝わる葡萄小禽図と月夜芭蕉図が向かい合って展示されている。 これらは水墨画である。 伊藤若冲といえば、色鮮やかなニワトリの絵などがまっさきに思い浮かぶが、水墨画でも独自の世界を展開している。 特に芭蕉の絵は、葉の濃淡の表現などが面白かった。
 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。

 京都御苑の北門にあたる今出川御門を通して、奥に見えるのが相国寺の総門。
 門の左右に顔を出しているレンガ色の建物は同志社大学のキャンパス。
 相国寺は京都御所の真北に位置している。 相国寺を創建するとき、当然その位置関係は重要な意味を持っていたと思われる。
 約100mもの高さがあったとされる七重大塔が存在したころは、京都御所からもその威容が見えたことだろう。
2013/2/10撮影

 法堂
 1605年に再建されている。
 かっては、この写真を撮った位置あたりに仏殿があったようだが、今は松林になっている。
2012/4/19撮影
 経蔵(写真左)
2012/4/19撮影
 鐘楼(写真上)
2013/2/10撮影
 1596年再建の宣明(浴室)(写真左)
 浴室とはいえ、りっぱな建物だ。
2012/4/19撮影
 承天閣美術館 (写真上)
2013/2/10撮影

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