清凉寺(京都市) 2013年 6月
 清凉寺(せいりょうじ)は、京都市右京区にある浄土宗の寺院で、 山号を五台山と称する。
 嵯峨釈迦堂の名前で親しまれ、最寄りのバス停の名も「嵯峨釈迦堂前」である。
 まず、清凉寺のたどった歴史に簡単に触れておく。 この地には、清凉寺の創建以前の9世紀、源融(みなもとのとおる 嵯峨天皇の皇子)の山荘 栖霞観(せいかかん)があり、 彼の死後、阿弥陀堂を建立し栖霞寺と号した。 源融は、光源氏のモデルになった人物と言われている。 10世紀になると、釈迦像を安置する新堂が作られ、釈迦堂と称するようになったという。
 その後、東大寺の僧、「然(ちょうねん)が、留学先の宋でインド伝来の釈迦如来像を模刻させ持ち帰った。 模刻した像を安置すべく嵯峨の地に寺を建立しようとしたが果たせず、11世紀の初めになって、彼の弟子の盛算のとき釈迦堂内に この釈迦如来像を安置し、清凉寺と称するようになった、というのがおおよその経緯である。
 その釈迦如来像は、釈迦37歳のときの生き姿を刻んだ三国伝来(インド−中国−日本)の像として広く知られることになり、 清凉寺式釈迦如来像ともいわれることになった。 伝説では、インドで基となる像が作られたのは釈迦在世中の優填王(うでんおう)の時代で、玄奘三蔵が模刻像を持ち帰ったと されている。 日本でも数多くの模刻が行われ、今も各地の寺院で見ることができる。 多少とも仏像に興味のある者にとって、ぜひ実物を拝観しておきたい像なのである。
 筆者が訪れたのは6月だったが、晴れていて背後に愛宕山がくっきりと見えていた。 愛宕山を中国の五台山に見立てて、山号を五台山と号することになったと言われている。
 境内に入って真っ先に拝観したかったのは、前述した本尊の三国伝来釈迦如来像である。 春の特別拝観期間が終わっていたので拝観できるか心配だったが、本堂に入ってみると拝観可能だという。 午前中に回向があって開扉したためとのこと。 さっそく拝観料を払い、像に近寄ってみる。像の周りは薄暗いので、縄状と表現される螺髪の細部などはよく見えなかったが、 やはり実物を拝することができてよかった。 よくこの像は異国的と言われるが、確かに衣紋が木目のようだし、形相も日本的ではなく、全体的に異国的な雰囲気があるのは確かだが、特にインドを強く連想させるようには思えないというのが筆者の感想である。
 本尊自体のほかに、体内に納められていた絹製の五臓六腑の複製や桂昌院ゆかりの品々があったりで、見どころが多い。
 また、今回拝観できなかった国宝の阿弥陀三尊坐像などを含めて、機会をあらためてゆっくり見て回りたいと思っている。
 ところで、清凉寺の「凉」は「にすい」で、一般的な「さんずい」の「涼」ではないことに注意が必要だ。 筆者が調べた限りでは、どちらの字も単独では読みや意味は同じだそうだ。 では、なぜ清凉寺では「凉」が使われているのかはよくわからない。
 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。

 仁王門
 門は18世紀に再建され、楼上には十六羅漢を祀っている。 ただし、登ることはできない。
2013/6/16撮影

 境内は空が広く、明るい。 この広い空間を利用して、京都三大火祭りの一つである「お松明式」が行われる。
 1701年に再建された本堂の背後には、愛宕山が見えている。
 「然(ちょうねん)は、この愛宕山を中国の五台山に見立てたのだそうだ。
 本堂に向かって左手の木立に中に豊臣秀頼の首塚があるほか、阿弥陀堂、鐘楼、狂言堂、多宝塔、一切経蔵など の諸堂がある。
2013/6/16撮影
 本堂正面には、隠元禅師による「栴檀瑞像」の額が掲げられていて、 栴檀で作られた本尊の三国伝来釈迦如来像を意味しているという。

 江戸時代後期の創建とされる弁天堂。
 本堂から澄泉閣への渡り廊下からの眺め。
2013/6/16撮影
 転法輪の額がかかる一切経蔵(江戸時代の建立)
 内部には、明版一切経が納められた輪蔵(回転式の書架)があり、これを回すことで、一切経を読んだのと 同じ功徳があるとされる。
 堂の正面には、傅大士(ふだいし)父子像が見える。 傅大士は、中国南北朝時代の人で、輪蔵を作ったと言われる。
2013/6/16撮影

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