六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)とは、ずいぶん変わった名前である。
一度聞いたら忘れられないし、ほかの寺院と混同することもなさそうな名前である。
場所は京都市東山区にあり、近くには建仁寺や六波羅蜜寺がある。
創建については、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師であった慶俊僧都(けいしゅんそうず)とされているが、
ほかに空海説、小野篁(おののたかむら)説、鳥部氏の建立した宝皇寺の後身とするなど多くの説があって、はっきりしないようだ。
当初は真言宗の寺であったが、やがて寺は衰退し、14世紀半ばになって建仁寺の住持であった良聰(りょうそう)によって再建されている。
現在は臨済宗の建仁寺派に属している。
平安時代には、六道珍皇寺から見て東にある清水寺にかけての一帯は、鳥辺野(とりべの)と呼ばれる葬送の地で、
六道珍皇寺のあるあたりが六道の辻、つまり冥界への入り口とされていた。
六道とは、人がその行いに応じて、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道の六つの迷界で転生を繰り返すとされる仏教の考えである。
そういう場所柄か、六道珍皇寺では、小野篁が冥界との行き来をしていた、という奇怪な伝説が有名だ。
小野篁は平安時代9世紀の公卿にして文人で、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔大王のもとで働いていたとされる。
境内には彼が冥界との行き来に使ったとされる井戸まで残っている。
そんな話が持ち上がるくらいだから、奇行の持ち主ではあっても大変有能な人物であったようだ。
例えば、遣唐副使に任ぜられた際には、渡航に二度失敗後、三度目のときに遣唐大使の理不尽な専横に抗議し乗船を拒否。
これが嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐に流罪となるが、2年後には赦されて京に戻っている。
この隠岐への島流しにされる際に詠んだ歌が、小倉百人一首に採用されている。
「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつりぶね」
筆者も子供のころに覚えた歌のうちの一つなのだが、意味も分からずにただ丸覚えしていただけだった。
今回、六道珍皇寺の関連からこの歌にたどり着き、初めて作者の心情や歌の背景を知ることができた。
寺の行事として知られるのは、8月に行われる盂蘭盆会の「六道参り」(別称「精霊迎え」)だ。
先祖の霊を呼び戻すために迎え鐘がならされ、大勢の人でにぎわうそうだ。
筆者が訪れたのは、2016年3月。
普段は、広いとはいえない境内に自由に入れるが、本堂内は非公開で井戸も近寄って見ることはできない。
2016年になって、1月から3月にかけて本堂や寺宝の地獄絵図などが特別公開されることを知り、その機会を利用すべく出かけていったというわけ。
まず本堂内に案内され、説明役の方が歴史や仏像、地獄絵図などの説明をしてくださる。
その後、庭に出て、小野篁が冥界へ行くときに使った「冥途通いの井戸」を見学。
この井戸の奥の方に、もう一つの井戸があり、「黄泉がえりの井戸」と呼ばれる。
その場所は、境内が不自然に出っ張った一画にある。
係の方の話では、この井戸は近年になって再発見され、井戸の周辺の土地だけ境内に取り戻すことができたためらしい。
他の多くの寺院と同様、六道珍皇寺も明治時代以降に寺域を縮小せざるを得なかったことが背景にあるようだ。
特別公開期間中は、閻魔堂の戸が開かれ、中に安置されている閻魔大王像(平安時代)や小野篁の像(江戸時代)も間近に拝観できる。
なかなかに見ごたえのある像だ。
また、コンクリート製の薬師堂(収蔵庫)の扉が開けられていて、重文の薬師如来坐像も拝観できた。
このお寺の周辺には、六道の辻にふさわしい伝説が残っている。
その一つが、「幽霊子育飴」だ。
昔、亡くなってこの地に埋葬された母親が、子供を育てるために幽霊となって毎晩、飴を買い求めたという言い伝えがある。
その飴を売るお店が、今でも六道珍皇寺の近くにある「みなとや幽霊子育飴本舗」だ。
450年以上もの間、伝えられてきたその飴を、私も買って食べてみた。
シンプルで特別な味付けはされていない。
昔ながらのやさしい味の飴だ。
だからこそ、長年飽きられずに親しまれているのだろう。
でも上記の伝承を知らずに、お店の看板や幟だけ見たら、腰が引けてしまう人が多いかもしれない。
写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。