グリドラ・クータ(Griddhakuta 霊鷲山 りょうじゅせん)(インド) 2012年 3月
 グリドラ・クータ(霊鷲山)はインドのビハール州ラージギル(Rajgir 旧名ラージャグリハ)の近くにある。 ラージギルは、ブッダの時代には、マガダ国の都が置かれていたと言われるが、 今は馬車が行きかう小さな田舎町である。 その町はずれの霊鷲山の山腹で、ブッダが瞑想と説法を行っていたと伝えられている。 ラージギルには、ほかにも竹林精舎跡や、仏教に帰依していたマガダ国のビンビサーラ王が 息子のアジャータシャトルに幽閉された牢獄跡などブッダにまつわる遺跡があるが、霊鷲山が仏跡の中心といえる。
 筆者は、ラージギルのホテルを朝早く暗いうちに出発し、ガイドと一緒に車で霊鷲山を目指した。 駐車場のある麓までは車であれば大して時間はかからない。 ここからブッダが瞑想と説法を行ったという霊鷲山までは軽いハイキングコースといったところ。 幅の広い歩きやすい道が整備されている。 日の出前に歩き始めたので、我々のほかに歩いている人は見当たらない。 数年前までは治安が悪く、警官が警備をしていたそうだが、今は安全なようで、警官の姿は見かけなかった。
 霊鷲山の語源は、山の岩が鷲が翼を広げた形になっているからとも言われるように、 上部は岩が露出してごつごつしている。 歩いていると動物の声が聞こえるので、なにかと思ったら猿の群れだった。 周りには鷲ではないが鳥も多く、あまり人を恐れない。
 朝の早い時間は涼しいのだが、15分ほど登って汗ばんできたころ石段が現れる。 その先の広場がブッダが瞑想と説法を行った場所であった。 低いレンガで囲いがされている。 見晴らしのよい場所で、なるほど瞑想したりするにはよい場所だ。
 この場所は日本人にとって縁がある。 というのは、長らく忘れられていたこの場所を再発見したのが、明治時代の大谷光瑞の探検隊だからである。 私は中央アジアの探検史に興味があり、学生時代に大谷探検隊の記録を読んだことがある。 だが、霊鷲山のことは記憶になかったので、帰国後にもう一度その本を引っ張り出してページをめくってみたがやはり見当たらない。 中央アジア探検に焦点を当てた本だったので、インドに関する部分は割愛されていたのだろう。
 陽が昇ってしばらくするとタイ人の巡礼団一行がやってきて、瞑想を行い祈祷を行っていた。 在家の信者と僧侶が一緒になった団体のようで、ガイドの話によると、在家の信者が費用を負担して僧侶と一緒に聖地を 回るのだそうである。
 私も、ブッダの時代と、仏教がインドからはるばる極東の日本まで伝わったことに思いをはせながら線香を上げた。
 その後、霊鷲山を降りた筆者は、ナーランダー遺跡、竹林精舎跡、ビンビサーラ王の牢獄跡などを回ったのち、次の目的地である ブッダ・ガヤーへと向かった。
 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。


 朝6時過ぎ、周りを囲む山の彼方から太陽が登り、ブッダが瞑想や説法を行った 霊鷲山(矢印の下)も明るくなってきた。
 日本山妙法寺のあるラトナギリ(多宝山)に通じる道からの光景。
 この写真からは、山が折り重なっているように見えるが、実際には見えている山の向こうは 平原である。 ほとんど起伏のない平原から突然山が盛り上がっているのが、ラージギルのあたりの地形で、 日本ではあまり見かけない景色である。
2012/3/17撮影

 ブッダが瞑想と説法を行っていたとされる場所には祭壇が作られ、仏像が置かれている。 空が広く、見晴らしがいい。
2012/3/17撮影

 タイからの巡礼団の一行が瞑想と祈祷を行っていた。
2012/3/17撮影

 タイからの一行が去った後、あたりにまた静けさが戻った。 祭壇は、低いレンガの壁で囲まれ、各国の信者が貼った金箔で輝いている。
 いかにも聖地に相応しい雰囲気がただよう場所である。
2012/3/17撮影

 ブッダの時代からあるマンゴーの実。
 ラージギルのホテルの庭にあったマンゴーの実はまだ小さかった。
2012/3/17撮影

 ナーランダー遺跡
 ナーランダー遺跡は、ラージギルの北方約10kmのところにある。 5,6世紀から12世紀にかけて、ここに大規模な仏教センターが置かれていた。 アジアで最初の大学とも言われる。
 7世紀に玄奘三蔵が学んでいたことでも有名で、最盛期には10000人を越える生徒がいたという。
 発掘された遺跡も広大で、一通り見るだけでもけっこう時間がかかる。
2012/3/17撮影

 ビンビサーラ王の牢獄跡
 経典「観無量寿経」には、ビンビサーラ王(頻婆娑羅)が王子アジャータシャトル(阿闍世)によって 幽閉されていたことが記述されている。 七重の室内に幽閉されたとあるが、今は石積みの土台(?)のみが残り、当時どのような構造の建物だったのかは うかがいしれない。
 背後には、霊鷲山(観無量寿経では耆闍崛山)が見えている。
2012/3/17撮影

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