興福寺(奈良市) 2010年 10月
 興福寺は法相宗の大本山。
 筆者が最初に訪れたのは2010年の10月のことで、薬師寺、唐招提寺を回ったあとだった。 近鉄奈良駅を下りて、猿沢池側から階段を上がると、自然と興福寺の境内に入ってしまい、 奈良公園との境がはっきりしない。 これは、明治時代の廃仏毀釈によって、興福寺が荒廃したときの影響だそうだ。
 三重塔を見て、南円堂まで来ると五重塔が視界に入り、人の数が増す。 空が開けていて開放的なせいか、あるいは伽藍がまとまって残っていないせいか、 お寺の境内の中というより、公園の一角にいるという感じだ。 実際、公園と一体になっているのだけれど。
 中門跡には石の基壇だけが残っており、その上で修学旅行の学生が休んだり、 小中学生が走り回ったりしているのも公園的である。
 特別公開中の五重塔初層を見学する。 この五重塔は、木造の塔としては京都東寺の五重塔の次に高いというだけあって、 下から見上げるとかなりの迫力だ。
 次に、東金堂を見学する。 こちらの建物は、8世紀の創建だが、室町時代の15世紀にに再建されたものだ。 しかし、奈良時代の面影を残す天平様式で国宝に指定されている。 中には、本尊の薬師如来像と、日光(にっこう)・月光菩薩(がっこうぼさつ)像、維摩居士坐像、文殊菩薩坐像などの諸像が安置されている。 こちらも特別公開期間中だったので、堂内を一巡して普段みることのできない後方部分まで拝観できた。
 東金堂を出て、斜め前方に再建作業中の中金堂を見て、国宝館へ移動。 こちらには、国宝多数が安置されている。 中でも注目度が高いのは阿修羅像だ。 筆者も前年の2009年に東京国立博物館で開催された「国宝 阿修羅展」で、 大変な人ごみの中で拝観している。 その記憶がまだ強く残っているのだが、やはり本来あるべきところで拝観すると、 いっそう印象的だ。 何度見ても不思議で複雑な表情のお顔である。
 ところで、落語ファンなら常識かもしれないが、「井戸の茶碗」は、興福寺と縁があることを加えておきたい。 演目名になっている茶碗は、茶人に珍重されていた高麗茶碗の中でも、興福寺の寺侍井戸氏の所有していたことで名高い茶碗のことを指しているのだ。 意外なところで興福寺が関係しているものである。

 2017年5月、絵画教室の仲間と奈良スケッチ旅行をした際に、「阿修羅−天平乾漆群像展−」を見学する機会があった。
 この特別展は、興福寺国宝館が耐震補強工事に伴って休館する機会に、仮講堂内に仏像を移し、 かっての西金堂内の雰囲気を再現しようという期間限定の試みである。
 仮講堂の中に入ると、阿弥陀如来像(鎌倉時代)を真ん中にして、八部衆像と十大弟子像が取り囲み、もっとも外側の四隅に四天王像が配置されていた。 たくさんの仏像群が手前から奥に並んでいるのを見て、東寺の立体曼荼羅を連想してしまった。 もちろん並んでいる仏像の種類は違うのだが。
 国宝館では、仏像も美術品扱いのように感じられたものだが、こうして本来の配置に近い状態で見ると、宗教的厳かさを感じる。
 国宝や重文級の仏像が並ぶ中で、もっとも人気のある仏像はいうまでもなく阿修羅像。 この阿修羅像の腕について、最近、新聞記事でも紹介されていたので触れておこう。 合掌している第一手が中心線から若干ずれているという話題。 なるほど正面から見ると、すこし左側に寄っている。 X線CTスキャンによる解析結果からの判断に基づくと、明治時代にすでに失われていた右腕先を補修した際、腕の角度調整のときに生じたらしいのだ。 また、第一手が本来は合掌ではなく、なにかを持っていた、という説については、その可能性は低いらしい。
 阿修羅像だけでなく、魅力的で個性的な仏像が並んでいるのだが、その中で異彩を放っているのは、龍燈鬼と天燈鬼。 運慶の三男・康弁の作。 ユーモラスな姿である。
(この項2017/7追記)

 2017年秋の運慶展(東京国立博物館)に展示された無著菩薩立像と世親菩薩立像に触れておきたい。
 両像は、ふだん興福寺北円堂に安置されている仏像だが、北円堂が公開されるのは春と秋の特別公開期間中に限られている。 筆者は、2011年秋の特別公開時に北円堂内を一周し、9体の仏像群に感銘を受けたけれども、短時間だったこともあり仔細に拝観したという記憶はない。
 その時以来6年ぶりに、今度は東京の運慶展で無著菩薩立像と世親菩薩立像をじっくりと見る機会がやってきた。 以下はその感想である。
 インドに実在した無著と世親の兄弟僧の像のうち、兄である無著は穏やかな表情で斜め下を見つめていて、 弟の世親は遠くを見つめながらなにかを言いだそうとしているような動きのある表情をしている。 これには玉眼を使った眼も大きな働きをしていそうだ。 写実的であり二人の性格の違いや心の動きまでが表現されているのだ。
 暫く2体の像を眺めていて、運慶が晩年に到達した境地とその力量に改めて感じ入ってしまった。 なるほど、日本の肖像彫刻史上の最高傑作とされているわけである。
 運慶の代表作である東大寺南大門の迫力のある金剛力士立像とはまったく異なる種類の仏像でも、 比類なき完成度に達しているというのが運慶のすごいところである。
 北円堂の仏像について付け加えると、北円堂の再再建時に、晩年の運慶が全9体の造像を制作指揮したのだそうだ。 そのうち、現在まで残っているのは、弥勒如来坐像と無著・世親の像の3体だけである。 3体が残っているだけでも良かったと言えるのかもしれない。
(この項2017/12追記)

 2018年に中金堂が再建され、落慶法要が営まれたというニュースは、全国的な話題となった。 筆者は翌年(2019年)の5月になって、その中金堂を見学する機会があったので印象を記しておきたい。
 中金堂に近づくと、素屋根が外された真新しい中金堂が眼前に迫ってくる。 朱色の列柱に支えられた建物は派手ではないが、2010年に復元された平城宮弟一次大極殿とほぼ同じ規模というから壮観だ。 裳階つきのため、2階建てのように見えるが、実際は平屋である。 巨大建築を見慣れた現代人でも十分な量感を感じるのだから、ましてや創建時の天平の時代の人にとっては、驚くべき規模だったに違いない。
 拝観券を購入して、建物の正面に進む。 かっては中金堂を囲むように回廊と中門があったことが整然と並んだ礎石からわかる。 将来、中門や回廊が復元されれば、空の広い今の景観もだいぶ変わることだろう。
 中金堂内部には、脇侍の薬王・薬上菩薩を従えた釈迦如来坐像と、そのまわりには四天王像が取り囲むように、バランスよくゆったりと配置されている。 金色に輝く釈迦如来坐像は、真新しく見えるが、江戸時代の作で、今回金箔を貼り直されたのだそうだ。 国宝の四天王像は南円堂から移されたもの。
 これらの仏像の中で、意外な姿をしているのは大黒天立像(鎌倉時代)。 憤怒の表情をしていて、ふだん七福神の一神として目にする打出の小槌を持った円満な顔とは全く異なる。 大黒天が仏教に取り込まれる前のインドでは、マハーカーラという戦いの神であったのが、日本に伝えられてのち室町時代のころに大国主命伝説と習合して円満な表情に変わったとされる。 つまり興福寺の大黒天像は古い形をとどめているらしい。
 中金堂を支える柱は、主にアフリカ産の木材を使ったことで話題になったが、近寄って見ると表面に凹凸のあることがわかる。 仕上げに伝統的な槍鉋(やりがんな)を使ったためだ。
 今後も他の堂宇の再建が進めば、天平の景観が少しずつ再現されていくことになるのだろう。
(この項2019/6追記)

 写真は、RICOH GX200、CANON 5D Mark U・EF-24-105mm F4L IS USMおよびCANON_G7XMk2で撮影。


 中門跡の基壇から見た国宝の五重塔。
 五重塔は8世紀に創建され、現在の塔は15世紀に再建されたもの。
 中門跡の基壇の上にある丸い石は、柱を支えていたのだろうか。
 五重塔は、ちょうど初層が特別公開中だったので、見学することができた。
 待ち時間を表示する札が立っているところを見ると、休日には相当混雑するようだった。
2010/10/22撮影

 2018年に再建された中金堂は 興福寺で最も重要なお堂にふさわしく、単層で裳階付となっている。
 藤原不比等によって中金堂が創建されたのは710年で、その後度重なる火災で焼失、再建を繰り返してきた歴史を持つ。
 今回は国内での大木の調達が出来なかったため、主にカメルーン産の木材が使われたという。
2019/05/27撮影

 東金堂
 最初の建物は8世紀に建てられたが、現在のものは15世紀に再建されたもの。
 中に薬師如来像、日光・月光菩薩像などが安置されている。
2010/10/22撮影

 鎌倉時代に建てられた三重塔。
 早朝まだ薄暗い時刻で、屋根に月がかかっていた。
 同じ国宝でも五重塔を訪れる人は多いが、目立たない場所にある三重塔を見に来る人は少ないようだ。 小ぶりで優美、威圧感がない。
 興福寺境内は平城京の東側の高台にあり、平城京を見渡せるような場所なのだが、なぜか三重塔は他の主要伽藍から少し下がった位置に隠れるようにして建っている。
2010/12/24撮影

 北円堂(国宝)
 この八角円堂は8世紀、藤原不比等の一周忌に際し建てられたが、 今見る建物は13世紀ごろに再建されたもの。
 同じ八角円堂の南円堂と比べたとき、すっきりとした優美な姿が美しい。
 2011年秋の特別公開の際に内部を拝観できた。 運慶晩年の弥勒仏坐像をはじめ、無著・世親菩薩立像や四天王立像などの諸仏像に圧倒される。
2010/10/22撮影

 南円堂
 こちらの八角円堂は、西国三十三所観音霊場の第九番札所である。
 9世紀の創建だが、現在の建物は江戸時代中期の17世紀に再建されたもの。 屋根の勾配が急で、朱色の塗りと屋根の上の宝珠が目立つ堂々とした建物だ。
 本尊は、不空羂索観音菩薩像。
2010/12/24撮影

 建物の構造としての北円堂との大きな違いは、向拝があり唐破風が張りだしていること。 この唐破風の存在が、地震のときの揺れを北円堂より大きくしているという調査結果が2020年9月の新聞で報じられ、興味深く読んだ。
(この項2020年9月追記)

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