金戒光明寺(京都市) 2013年2月/2014年12月
 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は山号を紫雲山と称する浄土宗の寺院で、 浄土宗七大本山の一つである。
 12世紀、浄土宗を開いた法然がこの地(左京区黒谷)に草庵を結んだのが起源と言われる、由緒のある寺である。
 通称の黒谷(くろだに)さんの名で親しまれていて、境内北側には真如堂が隣接し、 南側には岡崎神社がある。
 幕末には会津藩主・松平容保(かたもり)が本陣を構えた寺としても知られ、境内には会津藩墓地がある。
 筆者は真如堂境内から続く舗装されていない歩道を通って、直接金戒光明寺の境内に入った。 この道は静かで、堂々とした構えの高麗門から歩くのとは別の趣きがある。 境内に入って左手に会津藩受難者墓地を見、次に金戒光明寺の塔頭西雲院が現れる。 墓地の中の道をたどると視界が開け、斜面に広がる墓地や京都市内を見下ろすように文殊塔(三重塔)が建っている。 西向きの傾斜地で、ここから見る夕陽が素晴らしいそうだが、夕陽までには時間があり過ぎて待っていられなかった。 文殊塔からまっすぐ石段を下ると、阿弥陀堂や御影堂のある境内中心部に出る。
 このとき(2013年2月)はちょうど特別拝観期間中だったので、御影堂内では伝運慶作の文殊菩薩像、 吉備観音像を拝観し、大方丈で展示されていた会津藩ゆかりの品々を見ることができた。 ちょうどNHK大河ドラマ「八重の桜」が始まったことに関連した企画であろうか。 堂内には説明役の方々(ボランティア?)が配置されていて、その説明がお寺の歴史の理解に役立ったことも加えておきたい。
 堂内を拝観後、いったん外に出て、回遊式庭園「紫雲の庭」も歩いて回ることができた。
 全体として、金戒光明寺境内では明るく開放的な感じを受ける。 隣接する真如堂が同じような環境にありながら、静かな落ち着いた印象を受けるのと対照的である。 金戒光明寺が南から西側にかけて開けた台地の上にあるせいかもしれない。
 残念なのは、山門が修復作業中で覆いがかけられていたことだ。 修復が終わったらもう一度見に来ることにしよう。

 その山門修理も2013年10月に終了。 翌2014年12月に京都を旅行をしたときには、秋の特別公開の一環として山門が公開中だったので、 内部を見学することができた。 2階部分には、釈迦三尊像や十六羅漢像が並び、天井には蟠龍図が描かれている。 そして外を眺めれば、京都市街が見渡せる絶好の展望台なのである。
 なるほど、広い境内と丘の上という立地が、幕末に会津藩が本陣を置くのに都合が良かったわけである。
(2014/12追記)
 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMおよびCANON 5D Mark U・EF-24-105mm F4L IS USMで撮影。


 2013年10月に修復の済んだ山門。
 この山門は、1400年ごろに建立され、応仁の乱で焼失し、1860年に再建されたもの。
 楼上からの眺めはいい。 境内が高台にあることに加え、山門の楼上はさらに高いから、京都タワーをはじめ京都の市街地が見渡せる。
2014/12/07撮影

 御影堂(大殿)(写真上)
 建物は1944年の再建。 つまり戦時中のことで、当時よくもこれだけの伽藍を建てられたものだ。
 手前に見えるのは鎧掛けの松で、平安時代末期の武将熊谷直実が出家に際して、 鎧を洗って掛けた松という伝説がある。
 ところが、左の写真の松は、撮影の半年後に枯れてしまい、翌2014年には3代目となる松が植えられたという。
2013/2/10撮影

 紫雲の庭
 2012年、法然上人800年大遠忌を記念して作られた庭。 法然上人の生涯と浄土宗の広がりを表しているという。 この奥には「ご縁の道」が作られ、歩くことができる。
2013/2/10撮影

 阿弥陀堂
 金戒光明寺の中で最も古い建物で、17世紀初めに豊臣秀頼が再建した。
2013/2/10撮影

 文殊塔(三重塔)(写真上)
 塔の下の西向きの斜面に墓地が広がっている。
 螺髪が巨大な五劫思惟阿弥陀仏像(写真上)
 江(ごう)の供養塔の近くにある。
 阿弥陀如来が法蔵菩薩という名で修行中の姿で、 五劫という途方もなく長い間、思惟していたため、髪の毛が延びて このような形になったそうだ。
2013/2/10撮影

 会津墓地
 会津藩殉難者墓地と書かれた石柱が建っていて、幕末の戦いで亡くなった人々が葬られている。
 墓地の前の道は、真如堂へと続いている。
2013/2/10撮影

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