寛永寺(東京都台東区) 2010年 12月
 寛永寺(かんえいじ)は天台宗関東総本山で、山号は東叡山である。 つまり、東の比叡山との位置づけである。
 開基は徳川第3代将軍・家光、開山は天海。
 寛永寺の名は、寛永2年(1625年)に本坊が創立されたことにちなんでいて、江戸時代を通じて徳川将軍家の祈祷寺・菩提寺であった。
 江戸時代には、今の上野公園一帯を占める広大な寺域を誇っていたが、 幕末の上野戦争で大部分が焼け、その後の明治政府によって、規模は大幅に縮小されてしまった。 現在は本堂が東京芸術大学そばにあるほか、五重塔が上野動物園内に、清水観音堂が 西郷隆盛銅像のそばに、弁天堂が不忍池にというように分散した形で残っている。
 筆者は国立博物館、西洋美術館、東京都美術館などで特別展があるたびに 上野まで足を運ぶので、ついでに上野公園周辺を歩いて、寛永寺関連の伽藍を見学している。 下で紹介している写真は、そんな折に撮影したものである。
 お寺には、他の施設の変化に比べれてはるかにゆっくりとした時間が流れているのだが、気が付けば変わっていることもけっこう多い。 この数年の寛永寺関連での変化でいえば、上野東照宮拝殿の修復工事や旧本坊表門の半解体修理、それに清水観音堂前の「月の松」の復元といった事柄が挙げられる。

 2017年4月には、桜に囲まれた「月の松」と清水観音堂などを撮影した。 だが、肝心の桜の花が満開というには少しボリューム感が足りないように感じられ、もう少しいい条件の景色を見たいものと思っていた。
 その2年後の2019年4月に、上野の美術館に特別展を見に来た帰りに寄ってみたら、今度は間違いなく桜の花の最盛期だった。 天気は晴れで最高気温は20度以上。 南風が吹き抜けるたびに花吹雪状態になり、歓声が上がるほどだった。
 下に載せた清水観音堂の写真はその時に撮影したもの。
 毎年のことながら、清水観音堂周辺も花見客で溢れる。 近年になって増え続けているのが、外国人の花見客。 もはや周りから聞こえてくるのは外国語ばかりで、日本語が時折混じる程度、といっても大げさではないくらい。
 さすがに、地面にシートを広げて飲食をしているのは、ほとんどが日本人のようではあるけれど。
(この項、2019年4月追記)
 写真は、RICOH GX200およびCANON 5D Mark U・EF-24-105mm F4L IS USMほかで撮影。


 本堂(根本中堂)
 明治になってからの1879年に、川越喜多院から移築したもの。
 徳川家の菩提寺であることを知って見るせいか、なんとなく威厳を感じる構えだ。 上野公園のにぎわいからはずれて、訪れる人は少ない。
 江戸時代の根本中堂は、現在の上野公園大噴水広場あたりにあったという。
2010/12/26撮影

 上野東照宮の拝殿
 現在の上野東照宮は、寛永寺とは別組織になっている。、
 社殿は長らく改修工事中で、覆いがかけられていた。 工事が終わり、2014年1月6日から公開を始めたことを知り、 さっそく出かけてみた。 拝観料を払って透塀から中に入ると、側面全体が金色に輝く本殿が現れる。 その豪華さに、さすがは徳川家康を祀っている神社だけのことはあると感心する。 拝殿正面に回ると、軒などに施された精緻な彫刻を見ることができる。 唐門の装飾も見ごたえがある。
2014/1/19撮影

 五重塔(重要文化財)
 江戸時代初期の17世紀に建立された初代の塔は焼失し、今の塔は同じく17世紀に再建されたものである。
 上野動物園の園内にあり、東京都の所有になっている。
 塔を眺めるには、上野東照宮参道側のほうが光線の具合がいいのだが、夏は木の葉が邪魔をする。 この写真は木の葉の落ちた時期のもの。
2019/3/2撮影
 千手観音(秘仏)を祀る清水観音堂
 上野公園内にある1631年の建築物。 京都の清水寺本堂と同様に懸造の構造になっている。
 堂の正面に見える円形の枝の松は、2012年末に復元された「月の松」である。 歌川広重の浮世絵に描かれていた月の松が、約150年ぶりによみがえったわけだ。
2019/4/5撮影
「月の松」を清水観音堂の舞台から見ると、枝の輪の中に緑色の屋根の弁天堂が納まる。
2019/4/5撮影

 上野大仏
 17世紀に作られた大仏はたびたび罹災し、今は顔だけが残っている。
 大きな白毫とりっぱな鼻が特徴的だ。
 「もう落ちない」という理由で、合格大仏となっているらしい。
 このときは、受験生らしき姿は見当たらなかったが、たくさんの絵馬が奉納されていた。
2012/12/27撮影

 不忍池越しに見た弁天堂。 建設中の東京スカイツリーが弁天堂の屋根の飾りのように見えるアングルで撮影した。
2010/12/15撮影
 旧本坊表門の漆塗りの扉に映る開山堂境内の建物
 この門は、旧本坊の表門として使われ、上野戦争(1868年)でも焼失を免れた。 明治以後は現国立博物館の表門として使われたのち、 昭和12年に現在の場所(輪王殿の前)に移築された。
 2012年末、久しぶりにここを通りかかったら、半解体修理が終わってピカピカに輝いていた。 黒漆を塗り直したそうだ。
 鏡のようだったので、景色(隣の開山堂境内)が写り込むように撮ってみた。
 上野戦争のときの弾痕と思われる穴も大小2つ写っている。 弾痕は、今回の修理でも歴史の証拠としてそのまま残されたとのこと。
2013/1/31撮影
 上の写真は門の全景

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