海龍王寺(奈良県奈良市) 2014年 06月
 海龍王寺(かいりゅうおうじ)は、隅寺(すみでら)ともいわれ、奈良市にある真言律宗の寺院である。
 寺の歴史は大変古く、前身の毘沙門天を祀った寺院は、平城京遷都以前の飛鳥時代からあったとされる。 遷都に際し、藤原不比等がこのあたりに邸宅を構えた際にも寺院は残り、さらに娘の光明皇后によって邸宅跡が皇后宮として引き継がれたのちも、寺院は存続した。 別称の隅寺または隅院の名前の由来は、皇后宮の北東隅にある寺院を意味していると言われる。 731年には光明皇后の発願によって、堂宇が整えられているのは、遣唐使の無事の帰還を願ってのことといわれる。 734年には、玄ムらの乗った船が暴風雨に遭いながらも海龍王経を唱えて、帰還することができ、 玄ムは帰国後に隅寺の住持となるのだ。 そして、寺は聖武天皇から海龍王寺の寺号を賜っている。
 以上が寺の資料(縁起)に書かれている草創にまつわる歴史の抜粋である。 なかば伝説のかなたの話としても、前身の寺が飛鳥時代からあったらしいことは、現在の道路からもうかがえる。 海龍王寺の東側を南北に走る東二坊大路は、海龍王寺を避けるように不自然に屈曲しているからである。 筆者も、海龍王寺から隣の法華寺に歩いて移動した際に、このことを確認している。
 玄ムが没したのち、今度は政僧・道鏡にかかわる策略の舞台にもなっている。 海龍王寺の毘沙門天像から舎利が出現したという知らせに称徳天皇が喜び、道鏡は法王に任ぜられるが、 のちにこれは道鏡の弟子のやらせであったことが判明するという事件である。
 また、奈良時代に書き写されたとされ、隅寺心経の名で伝えられてきた般若心経も有名。
 このように歴史に名を残す人物や事件と関わり、長い歴史を持つ海龍王寺を筆者が訪れたのは、6月の日曜日のことである。
 四脚門である表門の前に立って、それに連なるだいぶくたびれた築地塀を眺めると、古寺という言葉がまず浮かんでくる。
 表門から奥に向かって、まっすぐな道が中門まで続く。 あまり人工的な感じのしない樹木の植え込みと、玉砂利の敷かれた道が心地よい。 中門で拝観料をおさめてさらに進むと、本堂と西金堂が目に入る。 まずは本堂で本尊の十一面観音立像の拝観。 鎌倉時代の作で、像高は1mに満たないが、保存状態のよい像である。 全身が金色で瓔珞など飾りが多いけれど、落ち着いた柔らかな輝きを放っていて品がある。 ただし覆いがあるので、放射光背や頭部の上などの細部はよく見えない。 特別拝観の際には、この覆いがはずされるそうだ。
 堂内には、ほかに文殊菩薩像(鎌倉時代)などが安置されている。
 続いて、本堂から西金堂に移動。 こちらには国宝の五重小塔が置かれている。 堂内に高さ約4mの五重小塔がぽつんと置かれているのは、なにか奇異な感じを受けるが、 この五重小塔を戒壇として、受戒の儀式が行われていたそうだから、 重要な役割を持っていたことになる。
 静かな境内に30分ほどいただろうか。 その間、日曜日にも関わらず、ほかに拝観者は一人も現れなかった。 すぐ近くにある法華寺には、そこそこの数の観光客が訪れていたのに、対照的である。 奈良では、観光客の押し寄せる有名寺院を除けば、これが普通なのかもしれない。
 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。

 室町時代に造られた四脚門の表門(山門)(写真左)
 くたびれた築地塀に、古寺らしい雰囲気が漂う。
 門の右手に見えるのは大きな絵馬で、玄ムを乗せた遣唐使船を海龍王が見守っている図とのこと。
 下の写真はその拡大。
2014/06/08撮影

 右が江戸時代に再建された本堂。 左の規模の小さな建物が奈良時代建立の西金堂で、国宝の五重小塔が置かれている。
 ほかに主な建物としては、経蔵があるくらいだ。
2014/06/08撮影

 本堂(江戸時代再建)正面の様子
 板敷はかなりすり減っていて、長年の風雪を物語っているようだ。
2014/06/08撮影

 西金堂内に置かれている五重小塔(奈良時代)
 高さ4mほどだが、建造物として国宝に指定されている。
 奈良時代の建築様式を知るうえで、貴重なものとされている。
2014/06/08撮影

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