浄妙寺(鎌倉市) 2012年 3月
 浄妙寺は、臨済宗建長寺派に属し、鎌倉五山第五位、詳しくは稲荷山浄妙廣利禅寺と称する。
 足利義兼により12世紀末に創建され、開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)である。 足利義兼は鎌倉幕府の御家人で、正室が北条政子の妹であり、源頼朝と深い関わりがあった人物である。
 当初は真言宗の寺で極楽寺と称したが、のちに禅宗寺院に変わったという。
 足利貞氏(足利尊氏の父)のものとされる墓が境内にあり、また鎌倉の地名の由来となった伝説が残る由緒ある寺であるが、 現在の境内、伽藍の規模はそれほど大きくない
 場所は、鎌倉中心部から横浜市金沢に通じる金沢街道沿いにある。 一帯の地名に今も浄明寺が使われている(バス停も浄明寺)ことからも、かっての隆盛が偲ばれる。
 訪れたのは3月下旬。 拝観料は100円なのだが、A4判三つ折りのりっぱなパンフレットを頂ける。 「稲荷山(とうかさん)浄妙寺−略記−」と題されていて、寺の概要を知ることができる。
 さっそく境内を歩いてみる。 この年(2012年)は春が大変遅く、お彼岸を過ぎているのに、まだ梅にはたくさんの花がついていた。
 本堂に向かって左手には、手入れの行き届いた枯山水の庭園がある。 見回しても、かっての大寺院の面影はないが、いろんな花木があり歩いて気持ちのよい境内である。
 総門から正面奥に進むと本堂がある。 現在の建物は江戸時代中期のもので、寄棟造・銅板葺(かっては茅葺だったらしい)の屋根に特徴がある。 銅板ゆえに緑がかっていることと、わずかに上に膨らんでいる(起り屋根(むくりやね))ことが、 背後の山並みが作る曲線と調和して独特の柔らかな感じの景観を作っている。
 そして、境内奥に石窯ガーデンテラスという洋館を利用したカフェ&レストランがあるのが、 お寺としては変わっている。 残念ながら、この日は月曜日で休業だった。
 写真は、CANON 5D Mark U・EF-24-105mm F4L IS USMで撮影。


 総門
2012/3/26撮影

 本堂と梅の花
 本堂の屋根は、銅板葺で微妙に上向きに膨らんでいる。 起り屋根(むくりやね)というらしい。
 本堂裏手に墓地があり、足利貞氏のものとされる墓がある。
 この日は、晴れの天気予報にもかかわらず、昼頃にわかに空が暗くなり、 この写真を撮ったあとに雨が降り出した。 結局一時間近く総門で雨雲の通過を待つことになった。
2012/3/26撮影

 平成になってから復興された枯山水庭園
2012/3/26撮影

 予期しない雨に、人力車夫はお客を下ろした後、総門前の梅の木の下で次の準備をしていた。
 総門で雨宿りしていたときの光景。
2012/3/26撮影
 左と下の写真は、4月に入って桜の季節に再訪したときに撮ったもの。
 正面に見える総門にいたる道は短いが、桜に覆われ華やいでいる。
 鎌足稲荷神社
 浄妙寺の東側裏手の急な石段を登ったところにある。
 藤原鎌足が東国に来た際に、ここに鎌を埋納したとされ、鎌倉の地名の由来になったという 説があるそうだ。
 地名由来については、鎌倉市のホームページにいくつかの説が紹介されている。
2012/4/6撮影
 鎌倉駅から向かうと、浄明寺バス停の一つ先に青砥橋という名のバス停がある。
 青砥橋の名は、このあたりに住んでいた青砥藤綱にちなんでいる。 下を流れているのは滑川(なめりかわ)。
 橋自体は小さな変哲のないコンクリート製のものだが、青砥藤綱の名を有名にしたのは、 「太平記」に書かれた故事によってである。
 司馬遼太郎の「三浦半島記」に詳しいが、要約すると次のようになる。
 北条時頼の時代の幕府の高官・青砥藤綱は、ある夜、役所に行く途中に滑川を渡っているとき、 誤って十文を川に落としてしまった。 慌てた藤綱は、五十文で松明を買い、人を使って落とした十文を回収したという。 その話を聞いた人々は、たかが十文のために四十文の損をしたと笑った。 だが彼は、四十文の損は個人の経済だが、川に落とした十文をそのままにすれば、世の中から 十文が消えてしまう。 だが、五十文の松明代はそのぶんだけ世の中を賑わすことになる、と説明したといわれる。
 この話は、戦前の教科書に載っていたという。
 もっとも藤綱が十文を落としたのは、もっと下流の東勝寺橋付近とされる。
2014/1/5撮影

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