神護寺(京都市) 2013年 6月
 神護寺(じんごじ)は、京都市右京区にある高野山真言宗の寺院で、正式には 神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と称し、山号は高雄山である。
 空海が東寺や高野山に活動の場を移す前に、ここ(神護寺の前身の高雄山寺)を拠点にしていたことで知られる。 また、天台宗を開いた最澄が深くかかわっていた地でもあり、空海と最澄という仏教界の巨星が関わりを持っていた寺院 ということになる。
 神護寺の前身として、和気氏の私寺であった神願寺と高雄山寺があり、 9世紀に合併して神護国祚真言寺になったという。 平安時代末期にはいったん衰退するが、12世紀に文覚上人の力によって再興される。
 筆者が訪れたのは、6月の曇り空の日。 楼門にいたるには、清滝川にかかる高雄橋を渡ってから、石段混じりの坂道をかなり登らなければならない。 空海や最澄の時代の人も同じように歩いたのだろう。 しかし、自動車のない時代には、京都市街地からだいぶ離れたこの場所に来る場合でも、多くの人は歩き通したのだから、 神護寺の石段までたどり着いたときの思いは、現代人とは違っていたのではないか。
 最後に幅の広くなった石積みの階段を登りつめると、長年の風雪に耐えて力強く聳え立つ楼門に迎えられる。 楼門をくぐると、玉砂利を敷いた広場だ。 山の中腹なのに開放感のある、ちょっと不思議な空間である。 この広場をまっすぐに進むと、五大堂、毘沙門堂、大師堂などが現れる。 五大堂の斜め後にある幅の広い石段の上に金堂がある。 常時内部が公開されている堂宇はこの金堂だけである。
 中には、国宝の薬師如来立像(平安時代前期)が安置されている。 下肢のがっしりとした像は、他の寺院で目にする薬師如来像とはかなり異なっている。 顔の表情が厳しく、不機嫌そうにも見える。 眼差しが鋭く、唇が山型になっているからだろうか。
 三尾(さんび)地区には、神護寺を初め西明寺、高山寺と3つの寺があり、いずれも清滝川の右岸に 位置している。 今回、筆者は川の上流部にある高山寺から順に西明寺、神護寺と歩いた。 距離も大して離れていないので、渓流の流れなどを見ながら歩くにはいいコースでお勧めだ。
 神護寺は紅葉の名所なので、秋に来てみたい気持ちがあるが、道路を含めて大変な混雑だと聞かされると 尻込みしてしまう。
 最後に、神護寺そのものとは関係ないが、拝観時に頂けるパンフレットについて触れたい。 有料拝観の寺院では、大体どこでもその寺院を紹介したパンフレットないし、冊子をもらえる。 歴史や見どころが要約されていて拝観用に便利だし、後日記録を整理するにも便利だ。 ただ、内容については千差万別である。 神護寺のは、1枚の紙を折って見開き4ページにしたもの。 主要伽藍が記入された境内地図は、境内が広大なだけに役立つ。 ところが、神護寺の由来を書いた説明文がわかりにくい。 一つの文が大変長いし、主語がどこにあるのかとまどうし、文体自体が古めかしい。 不特定多数の対象者を相手にする説明文は、もう少しわかりやすくしてもらいたいものだ。
 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。

 石段の先、梢の間から楼門が見え、参詣者を迎えてくれる。 楼門は17世紀の建立という。
 清滝川にかかる高雄橋を渡ってからここまで、ちょっとした登り道が続き、足に自信のない人には 一苦労のようだ。
2013/6/15撮影 高雄橋(写真上)の左の袂に見える石柱には、「山内女人禁制」と書かれている。 昔は、ここより先に女性は入れなかったようだ。

 楼門を抜けると、玉砂利の敷き詰められた広場に出る。
 高雄山の中腹にありながら、広々とした空間が広がっている。
 正面奥に進むと、五大堂、毘沙門堂、大師堂などの堂宇が現れる。
 山の中腹をこれだけの規模で整地するには、大変な労力を要したことだろう。
2013/6/15撮影

 金堂
 右手前には、毘沙門堂の軒と五大堂の屋根の一部が見えている。
 金堂は1934年建立の比較的新しい建物だが、すでに周囲の堂宇に融け込んで違和感はない。
 国宝の薬師如来像が安置されている。
2013/6/15撮影
 大師堂
 現在の建物は江戸時代のものだが、もともと空海が暮らして「納涼房」と名付けていた住居跡に建てられたという。
 暑さの厳しい季節には、快適な場所だったのかもしれない。
2013/6/15撮影
 和気清麻呂の廟
 一見すると神社のように見える。
 神護寺の前身である神願寺と高雄山寺は、和気氏の私寺であったと言われる。 その神願寺は和気清麻呂によって8世紀末に創建され、道鏡事件ともかかわっている。
2013/6/15撮影

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