石塔寺(滋賀県東近江市) 2015年 11月
 なるほど、噂に違わず変わった光景だ、というのが石塔寺(いしどうじ)の石造三重塔と石仏群を見た第一印象。
 日本のほかの寺院では出会ったことのない眺めである。
 まっさきに目が引きつけられるのは、高さ7.6mある大きな石造三重塔。
 仏教寺院の塔の起源はインドのストゥーパで、中国や朝鮮半島などを経て日本に伝えられてからは、 木で五重塔や三重塔が作られるのが普通になっている。 そのため、大きな石の塔を普段見かけることはなく、塔といえば、まず木造の塔を思い浮かべてしまう。 それに、石塔寺の三重塔の格好が、朝鮮半島の塔を連想させ、異国的な雰囲気を持っていることが、 強い印象を与えるのだと思う。
 加えて、長い急な石段を登り切って初めて姿を現すという劇的な仕掛けがあるので、出会いのインパクトはいっそう強くなる。

 石塔寺は、滋賀県東近江市にある。 山号は阿育王山(あしょかおうざん)で、現在は天台宗の寺院である。
 創建は、聖徳太子によると伝えられ、当時は本願成就寺と称していた。 石塔寺という名前に変わったのは、石造三重塔が地中から発見されたのちといわれる。 石造塔発見について、次のような興味深いいきさつが、お寺のパンフレットに書かれている。
 仏教に深く帰依していたインドのアショカ王が、仏教を広めるために八万四千の塔を作り、日本を含む世界中に撒いた。 平安時代になって、日本に渡ったとされる二つの塔のうち一つが、近江の山中に埋まっているのが発見され、 阿育王塔(あしょかおうとう)と名付けられ、寺号を阿育王山石塔寺に改めた、という話である。
 もとより、この話は伝承の域を出ないものだが、石造三重塔建立に際してのなんらかの大陸の文化や人の関与を示しているのかもしれない。
 石造三重塔の実際の建立のいきさつや制作者については、奈良時代ころの制作と推定されるだけで、はっきりしないという。 ただし、湖東には渡来人との関わりがあるとされる百済寺などがあり、石造三重塔の建立時に彼らから影響を受けたことは十分ありえるようだ。 では、ほかにも類似の石造塔が近くにあっても良さそうなものと思うのだが、なぜかないようだ。
 石塔寺は織田信長の焼き討ちですべてが焼けるまでは、多数の伽藍を擁する大寺院だったらしい。 焼き討ち後は、徳川幕府によって復興が進められたが、現在ある主要堂宇は、明治時代に再建された本堂だけだ。

 筆者が石塔寺を訪れたのは晩秋の週末で、朝から湖東三山を回ったあとであった。 最寄りの近江鉄道の桜川駅に降り立ったときは、日も傾きかけていた。 桜川駅から歩けない距離ではなさそうだが、今回は時間の余裕がないので、タクシーを利用。 人気のない無人駅なので、電話でタクシーを呼び、石塔寺に向かった。
 そして小一時間を境内で過ごしたのだが、湖東三山の賑わいぶりとは対照的に、ほかの拝観者には一人も会わなかった。 石造三重塔に向かいあった時は、あたかも私を待っていてくれたように思えた。

 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。


 まっすぐ伸びる石段の上には空が覗き、天国か極楽世界に通じる階段のようでもある。
 石造三重塔と石仏群は、158段あるというこの石段を登った山上に広がっているので、下からは見えない。
 明治時代に再建された現在の本堂は、石段の下、向かって右手にあるのだが、 再建前も同じ場所にあったのだろうか。
2015/11/28撮影

 ひときわ目立つ大きな石造三重塔、阿育王塔は高さ7.6mあり、石造塔としては日本一高いそうだ。 この周りに、無数の五輪塔が取り囲んでいる。
 石造三重塔を見た多くの人が、朝鮮半島の石造塔との関連を思い浮かべるようだが、 私は、朝鮮の伝統的な帽子の一種(カッというらしい)も連想してしまう。
2015/11/28撮影

 石造三重塔のある山の上の一帯には、五輪塔や一抱えほどもあるおびただしい数の石仏が置かれている。
 これらの石仏は、石塔寺の創建以来、信者や参詣者などが奉納したり、付近から集められたもので、次第に数を増やしたという。
2015/11/28撮影

 近江鉄道の桜川駅から線路越しに見た風景
 田圃の向こうにみえる丘陵のどこかに、石塔寺があると思われる。
 このあたりは蒲生野(がもうの)と呼ばれる地で、額田王(ぬかたのおおきみ)も、このような景色の中で歌を詠んだのだろうか。
2015/11/28撮影

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