一休寺(酬恩庵、京田辺市) 2015年 11月
 とんち話で広く名前の知られる一休さんだが、ではどんな人物だったのかというと、知っている人は案外少ないのではないだろうか。
 筆者も、2015年秋に五島美術館で「一休」展を見るまでは、時代や人物像についてほとんど知識を持っていなかった。 たまたま「一休」展を見て興味がわき、その年の11月末の関西旅行の際に、ここで紹介する一休寺を訪れることにしたのだ。
 一休寺はその名前からわかるように、一休さん(一休宗純)が、1456年から1481年に亡くなるまで晩年を過ごしたお寺で、 正式には霊瑞山酬恩庵(しゅうおんあん)と称する。 臨済宗大徳寺派に属している。 もともとは、13世紀末に創建され、のちに兵火などで衰退していた妙勝寺を、 室町時代になって一休宗純が再興し酬恩庵と名付けた、という歴史を持っている。
 場所は京都府南部の京田辺市なので、京都市の市街地からはだいぶ離れている。 京田辺や新田辺の駅周辺は賑やかだが、駅から少し離れれば住宅が点在するのどかな光景が広がっている。 そんな緑豊かで喧噪とは隔絶された丘陵地の裾に一休寺はある。 といっても、最近は住宅開発の波が押し寄せて来ていて、景観上の問題が起こっているらしいが。
 一休にとって、京都中心部からのこの距離が大事だったようで、1474年に大徳寺の住持に任ぜられてからも居を移すことはなかったのである。
 私が訪れたのは、秋も終わりのころだったので、総門をくぐれば、鮮やかな紅葉が頭上を覆っていた。 短いが手入れの行き届いた石畳の参道が奥に延びている。 この参道自体が禅宗の寺らしい清楚な趣きが感じさせて好ましい。
 参道の突当りを右に折れると、最初に宗純王廟(一休宗純の墓)がある。 だが門は閉ざされていて、中に入ることはできない。 一休は後小松天皇のご落胤とされるので、墓のある一画は宮内庁管理なのだ。
 さらに進むと、右手奥に大きな屋根の庫裏が見えてくる。 庫裏は方丈とつながっていて、順路に従って中を巡ることができる。 方丈は江戸時代に加賀藩主前田利常の寄進によって再建された建物で、境内でもっとも規模が大きいようだ。 三方を江戸時代に作られた枯山水庭園に囲まれている。 庭はさほど広くはないが、それぞれ表情が異なる造りになっている。
 方丈の奥の仏間には、木造一休和尚坐像が安置されている。 一休の没年(1481年)に作られたとされるので、生前の姿に忠実なのだろう。 ただ、拝観路からは距離があるので、像の細かい部分までは見えない。 部屋を飾る襖絵(複製画)は、狩野探幽によって描かれたものである。
 方丈のあとは、境内に点在する本堂、法蔵、開山堂などを巡ることができる。 一休さんの像や「このはしわたるな」のとんち話を再現した橋もあったりして、見学者に対してのサービスも用意されている。
 一休寺が一休宗純が後半生を過ごした寺ではあるが、現在目にする堂宇の大半や庭園は江戸時代に建てられたものというのが、 ちょっと残念な点だ。 だが、一休に対する後世の人の崇敬の念の強さが、これだけ立派な堂宇や庭園になって表れているとも言える。
 もっとも、一休寺を拝観したからといって、一休への理解がことさら深まるわけでもないので、 帰京後に水上勉の「一休」の文庫本を買って読んでみた。 難解な単語が頻繁に出てきて、筆者の知識レベルでは、正直なところ持て余し気味だったが、 著者が一休の実像に迫ろうとした力作であることは間違いない。 おけげで、仏教界の権威に迎合しない型破りな禅僧として生き、詩人としてもすぐれ、 多くの芸術家との交流があった一休の生涯がおぼろげながら、つかめたような気がした。
 一休寺名物として知られるものに、一休寺納豆がある。 納豆とはいっても、納豆菌を使って発酵させる現代の一般的な納豆とはまったく異なり、麹菌を使う古い製法によって作られている。
 お土産として買って帰り、食べてみた。 普段食べる納豆はねばねばして糸を引くのに対し、一休寺納豆は大豆の形が残っていないような黒い粒で、糸を引かない。 しかも塩味が強く、独特の味がする。 最初はとっつきにくいが、慣れると旨味が感じられるようになるから不思議だ。 説明書きによると、常温で保存とあり、賞味期限とか消費期限といった表示がない。 つまり、いつまでも持つということらしい。 さすがは数百年も受け継がれてきた伝統食である。

 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。


 簡素な総門。紅葉が鮮やかだった。 2015/11/29撮影


 一休宗純の墓がある一画は、宗純王廟として宮内庁管理となっていて、中には入れない。 扉にあしらわれた菊の紋の穴から垣間見ることはできる。

 15世紀前半に、室町幕府第六代将軍足利義教によって建てられた本堂(法堂)
 つまり、一休によって寺が再興され、酬恩庵となる前に建てられたことになる。
2015/11/29撮影

 方丈庭園 南庭
 右手の屋根は、宗純王廟。
 方丈を囲むように、南庭、東庭、北庭とあり、それぞれ異なった眺めが楽しめる。
 ただし、方丈も庭園も江戸時代に作られたのだから、一休が同じ景色を見ていたわけではない。
 庭を囲むように、背の高い木が見えるが、これは景観を守るために、近年植えられたものかもしれない。 さらに、背後の借景となっている山林が、宅地開発されるという話もあるらしく、もしそうなれば景観にかなりの影響を与えそうだ。
2015/11/29撮影

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