百済寺(滋賀県東近江市) 2015年 11月
 金剛輪寺から乗ったシャトルバスを百済寺(ひゃくさいじ)バス停で降り、参道の方向に目をやると、 晴れているのに鬱蒼と茂る木立のために薄暗くなった空間に赤門が立っている。 ここから長い参道が始まるのだが、バスから降りたのは数人だけで、ほかに観光客も見当たらないので、 なんとなく寂しげな風情が漂っていた。 参道を途中まで登れば駐車場があり、人の数が増えて少しは賑やかになるけれど、 全体としては地味でいかにも古寺らしい印象を受けるお寺である。
 百済寺(ひゃくさいじ)は滋賀県東近江市にあり、今は天台宗の寺院で山号は釈迦山である。 西明寺、金剛輪寺とともに湖東三山の一つに数えられ、三寺院の中では最も古い歴史を誇っている。
 寺伝によれば、7世紀初頭に聖徳太子によって、 高句麗の僧・恵慈(えじ)ら渡来人のために創建されたといわれている。 どこまで史実かわからないが、近江には多くの渡来人が若狭経由で住み着いていたのは確かなようだ。 なかでも百済人が多かったことが、百済寺の名前の由来に関係しているとされている。
 百済寺の百済の読みが「くだら」ではなく、「ひゃくさい」であるのも興味深い。 もっとも、百済をなぜ日本で「くだら」と読むようになったのかについては、諸説があり、はっきりしないようである。
 赤門をくぐって奥に進むと、左手に駐車場があり、ここまで来ると人通りも多くなる。 受付で拝観料を納め、順路に従い歩いていくと、本坊と庭園に出会う。 この喜見院の庭園は、池と正面の急な斜面を利用して作られている。 斜面を登ると、展望が開け、湖東の平野部が眼下に広がり、はるか向こうに比叡山などの山並みが望める。 そのさらに先には、渡来人のふるさとである百済国があるのだという。 庭園が別名「天下遠望の名園」と呼ばれるゆえんである。
 庭園の鑑賞を終え、参道の石段に戻って、本堂を目指す。 湖東三山はどこも参道が長い。 たぶん、昔は参道の途中には多くの僧坊があったのだろう。 百済寺も戦国時代に戦火にあって焼かれるまでは、300もの僧坊が立ち並ぶ大寺院で、 「湖東の小叡山」とも称されていたそうだが、今はその様子を想像するのが難しい。
 やがて、仁王門に着く。 正面には大草鞋が架けられていて、中の2体の金剛力士像はお互いに向き合う形で置かれている。
 仁王門まで来ても本堂までは、まだ石段が続いている。 もうひと頑張りの登りだ。
 ようやく着いた本堂は、あまり大きくなく簡素はたたずまいの建物。 織田信長による焼き討ち後、江戸時代になって再建されている。 さっそく中に入ってみる。 土足のまま板張りの外陣まで入ることができる。 今回のお目当ての仏像は、室町時代に作られた聖観音坐像と如意輪観音半跏像だ。 2体の像は、内陣に安置されているので、格子のついたガラス戸越しに拝観することになる。 2体のポーズは異なるが、お顔はそっくり。 仏像に対する表現として不適切かもしれないが、かわいらしいというのが第一印象。 全体に丸味をおびた体形にふっくらしたお顔なので、まるでお人形さんのようだ。
 本堂内で気になったのは、千社札が柱や天井に目立つこと。 重要文化財に指定されている歴史ある建造物に千社札はやはり見苦しい。

 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。


 仁王門に続く石段は、紅葉で有名な場所。 あいにく、この年(2015年)の紅葉は鮮やかさに欠け、紅葉した葉の中に緑のままの葉が混じっていたが、 これはこれでなかなかに見ごたえがあった。
 参道脇には立派な石垣が見える。 信長が安土城の石垣を築く際に、百済寺の石垣を参考にしたといわれている。
2015/11/28撮影

 別名「天下遠望の名園」と呼ばれる喜見院(きけんいん)の庭園からの展望
 湖東の平野部の向こうに比叡山が望め(写真中央部、霞んでいる)、琵琶湖の湖面もわずかに見える。
 そのさらに西880kmの地には、「百済国」がある。 渡来人たちも、はるかに故郷を思ってこの景色を眺めたのではないかといわれている。
2015/11/28撮影

 仁王門
 2体の金剛力士像はお互いに向き合って置かれ、正面には巨大な草鞋が架けられている。
2015/11/28撮影

 本堂
 現在の本堂は、江戸時代の17世紀に再建された簡素なもの。
 盛時には、近くに五重塔をはじめ諸堂が軒を並べていたそうだ。
 左に見える木は「千年菩提樹」と呼ばれ、信長による焼き討ちの際にいちど焼けたが、 その後に新芽が出てきて今の木になったという。
2015/11/28撮影

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