葛井寺(ふじいでら)は、藤井寺市にある真言宗御室派の寺院で、8世紀に行基が創建したとも、
渡来系氏族の葛井連(ふじいのむらじ)の氏寺として創建されたともいわれる。
いずれにしても大変長い歴史を持った寺院である。
藤井寺市の市名も葛井寺に由来している。
また、西国三十三所第五番札所であり、本尊で国宝の十一面千手千眼観音菩薩坐像によっても広く知られている。
筆者が「ふじいでら」と聞いて思い浮かべるのは、近鉄バッファローズの本拠地だった藤井寺球場である。
私は、熱心なプロ野球ファンでも近鉄ファンでもないが、昔はよく藤井寺球場の名前を目にしたり、聞いたりした記憶がある。
でも、大阪府のどのあたりにあるのかも、お寺についても知らないままでいた。
それが、数年前から各地の寺院を巡り、仏像の本を読んだりするうちに、葛井寺の本尊十一面千手千眼観音菩薩坐像のことを知り、
いつかは訪れたいと思うようになった。
千手観音像は、特別めずらしい仏像ではない。
例えば、葛井寺もその一つである西国三十三所のうち、15ヶ寺の本尊が千手観音である。
けれども、実際に千本の手を持つ像は少ない。
葛井寺の像は、その数少ない作例の一つであり、現存する千手観音像のうちでもっとも古い8世紀の作とされるのだ。
さて、筆者の住む東京から出かけてその千手観音像を拝観しようとすると、簡単には日にちを決められない。
まず十一面千手千眼観音菩薩坐像は秘仏で、開扉は毎月18日に限られる。
そのうえ、筆者が家を空けられるのは週末になる。
という事情をもとに、いろいろ考えた末、拝観日を2015年4月18日(土)に決めた。
4月17、18日は、河内長野市の観心寺の本尊如意輪観音坐像の開扉日にもあたるので、どうせならまとめて回ろうという目論見なのである。
その4月18日、藤井寺駅からアーケードのある商店街を抜ければ、葛井寺の西門はすぐだった。
時間はまだ朝の8時半前だというのに、境内のあちこちで屋台の準備が進められ、参詣者も集まりだしていた。
さっそく私も本堂に上がって、十一面千手千眼観音菩薩坐像を拝観する。
さして広くない堂内は参拝の人で混雑しているし、厨子内は薄暗くて細部はよく見えない。
でも天平時代の仏像を、千年以上の時を経てこうして見られるだけでも奇跡的なことといえる。
状態がいいまま後世に残すという点からは、開扉日を限定し薄暗くしていても仕方ないだろう。
この像は、全体の形が幾何学的にすっきりとまとまるように考えられていると思う。
台座の上の観音さまを取り囲むように約1000本の脇手が左右に分かれて、きれいな円形を構成しているから、
蓮の大きな二つの花弁の中に、気品のある端正な表情の観音さまが座っているかのように見える。
見方によっては、左右に広がる脇手の集まりは、光背のようでもあり、鳥が大きく翼を広げているようでもある。
薄暗い本堂から外に出ると、春の日差しがまぶしかった。
あらためて境内を歩いてみる。
本堂をはじめ、いくつかの堂宇が並んでいるが、いずれも近世以降に再建されたものである。
それ以前の建造物は兵火などに遭い、残っていない。
8世紀に作られた十一面千手千眼観音菩薩坐像が、幾多の災難を潜り抜けて現存していることに感嘆せざるを得ない。
境内を見渡せば、あちこちに藤棚があり、フジの花が境内に彩りを添えていた。
上記の拝観から3年たった2018年の冬、「仁和寺と御室派のみほとけ」展が東京であり、再び千手観音菩薩坐像を目にする機会があった。
会場には多くの興味深い仏像が並んでいたが、葛井寺の千手観音菩薩坐像は一際注目を集めていた。
博物館の展示だから、厨子はなく明るく照明されているので、裏側も含めて細部までよく見ることができた。
まず正面から見ると、合掌する2手は触れるかどうか微妙な間合いになっているが、わずかに離れているようだ。
これにより動きが表現されているのかもしれない。
裏側に回ってみると、およそ千本もある脇手がどうやって固定されているのかがわかる。
仏像本体にではなく、支柱に固定されているのだ。
こういう構造であれば、制作も楽だろうし、何かの時(出開帳などの移動時)にも対応がしやすいと思われる。
現に今回の展示のための輸送では、全体をいくつかに分解したそうだ。
出開帳といえば、江戸時代には盛んに行われていて、この千手観音菩薩坐像も江戸まで運ばれたことがあるという。
本体が脱活乾漆像だから木彫像に比べ軽いとはいえ、大仕事だったに違いない。
当時の人がこの大きな像をどのルートでどうやって運んだのか興味のあるところだ。
(この項、2018/2追記)
写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。