大報恩寺(京都市) 2012年 6月
 大報恩寺(だいほうおんじ)は、真言宗智山派の寺である。 山号は瑞応山(ずいおうざん)。 千本釈迦堂の名でも知られている。
 13世紀、鎌倉時代初期に義空によって創建されている。 京都市街地の多くの寺院が応仁の乱などの戦乱によって焼けたのに対し、 大報恩寺の本堂は今も創建当初の姿を伝え、国宝に指定されている。
 筆者が訪れたのは、2012年6月。
 南門から境内に入ると正面に本堂が見える。 あいにくの雨模様だったが、平日のうえ修学旅行生や団体客がいなかったので、静かである。
 檜皮葺の屋根を持つ安定感のある本堂は、大きな建物だが威圧感はない。 近寄りがたい感じがしないのは、釈迦念仏道場として、民衆に支えられてきた歴史が影響しているのかもしれない。
 さっそく本堂内に入って拝観する。 拝観者は筆者一人だけ。
 広々とした外陣でしばらくあたりを見回していると、お寺の方が掃除の手を休めて、いろいろと説明してくださった。 柱に残る傷跡やおかめ伝説のことなどの説明を聞き、あらためて勉強になった。
 本堂のあとは、霊宝殿の見学。
 ここに収められている鎌倉時代の仏像群は圧巻である。 壁面に沿って並ぶ十大弟子像、六観音像などどれも傑作ぞろい。 写真集などで見たことのある仏像も多い。 仏像に興味のある人には必見である。

 2018年には、東京国立博物館で「京都大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」展が開かれ、再び大報恩寺の諸仏像を拝観することができた。
 この特別展には、本尊で秘仏の釈迦如来坐像(快慶の弟子・行快作)を初め、運慶の弟子・肥後定慶作の六観音像、快慶作の十大弟子立像がそろって展示されていた。 つまり、大報恩寺の主要な仏像がすべて東京に運ばれてきたわけだ。
 これは現代版の出開帳ともいえそうである。 江戸時代に頻繁に行われていた諸国の有名寺院の出開帳は、持ち込まれた秘仏などの寺宝を信仰の対象として扱っていたのに対し、博物館での仏像展示は鑑賞目的になっている。 そういう違いがあるにしろ、わざわざ遠くの寺院に出かけなくて済むのは、今も昔も大都会に住む人間には助かる。
 今回の展示も鑑賞を念頭に置いているから、鑑賞しやすいようにいろいろ便宜が図られている。 例えば、大報恩寺の霊宝館では壁に沿って六観音菩薩像や十大弟子立像が並んでいて、照明も明るく見やすいのだが、像の後ろ側までは見えない。 それが今回は後ろまで見えるように配置されているから、光背の様子までわかってしまう。 最近はこのような展示スタイルが多くなっているが、仏像を作った仏師たちはまさかこういう鑑賞のされかたをする時代が来るとは想像できなかったに違いない。
 今回展示されていた仏像はどれも素晴らしいが、筆者が初めて目にする釈迦如来坐像は状態がよく、お顔はかなり個性的なのが印象に残った。 目が切れ長で吊り上がっているからだ。 作者・行快の師は快慶だから、その影響があるのかもしれない。
 六観音像は大報恩寺で拝観したときの印象と変わらず、どの像も力みがなく優しい表情で品がある。 見ているだけで心を平穏にしてくれる。
 じつは六観音像の色については、かねてから疑問に思っていて、そのままになっていることがある。 それは、どうして6体の像がみな赤茶けた色合いをしているのか、そして元の色はどんなだったのか、という疑問だ。
(2018/10/12追記)

 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。


 南門
 かって境内がもっと広かったころは、千本通りに面していたらしいが、 今は南門が正門になっている。
2012/6/21撮影

 本堂(釈迦堂)
 京都市街地では最古の建物で、国宝に指定されている。
 床下に白く見えているのは、漆喰で固めた亀腹。
 本堂の左手に見えるのが霊宝殿。
2012/6/21撮影

 本堂内部の外陣からから外を見たところ。
 回転式の蔀戸(しとみど)を開けて外光を取り入れている。
2012/6/21撮影

 柱には、刀や槍によるとされる傷跡が残っている。
 応仁の乱のときのものと伝えられている。
2012/6/21撮影

 おかめ塚
 右端に宝篋印塔が見えている。
 おかめは、本堂造営のときの棟梁の妻で、彼女の助言によって、無事本堂を 完成させることができたという言い伝えが残されている。
2012/6/21撮影

 雨に濡れた紫陽花の花に囲まれてご満悦のタヌキの置物。
 庶民的な雰囲気の漂うこの寺にふさわしく思えた。
2012/6/21撮影

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