関山中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町) 2010年 4月
 天台宗のお寺で、金色堂はあまりに有名だ。 筆者も修学旅行の折に初めて訪れて以来、3度境内を歩いている。 ここで紹介する印象記は、2010年4月のときのものである。
 朝から時折霧雨が降るようなはっきりしない天気の日だった。 杉の大木に覆われた月見坂と呼ばれる参道を登っていくと、 八幡堂、弁慶堂、地蔵堂、薬師堂などが現れたあとに、本堂が出てくる。 本堂の山門は、1655年に一関城から移築されたものだという。 なるほど、そう言われれば、お寺の門としてはちょっと違和感をおぼえる構えである。
 現在の本堂は、明治時代に再建されている。
 さらに参道を進むと、金色堂が現れる。 拝観券を買って中に入ると、文字通り、金色に輝く阿弥陀如来を初めとする仏像、 蒔絵と螺鈿細工が施された巻柱など豪華絢爛の極みである。 何度見てもその豪華さ、精緻さ、それに奥州藤原氏の浄土世界を地上に表現しようとした思いの強さに圧倒される。 金色堂は、中尊寺創建時から現存する唯一の建造物である。 藤原氏四代の痕跡をこうして実物でしのぶことができるのは、後世の人間にとって幸運なことである。
 このあと、経蔵、旧覆堂、能舞台を見てまわり、中尊寺をあとにした。
 雨も上がったので、高館義経堂を目指して歩いてみた。 10分ちょっとの距離である。 見回しても、今の平泉はのどかな田舎町で、中尊寺金色堂との落差を感じないわけにいかない。 かっての人口は現在の10倍ほどだったと言われるが、どのあたりに町を形成していたのだろうか。 そんなことを考えながら歩くと、高台にある義経堂に着いた。 こちらを訪れる観光客は少ないらしく、人影はまばらだ。 丘の上には、ここで最期を迎えた源義経を祀る高館義経堂があり、 ゆったりと流れる北上川が見下ろせる。 脇には、芭蕉の句碑が建っている。 芭蕉がここを訪れたのは、義経没後ちょうど500年が経ったときであるから、すでに藤原氏の栄華をしのぶものは金色堂を除いてほとんど残っていなかったと思われる。 芭蕉の時代から現在までは300年ちょっとだから、奥州藤原氏の時代はずいぶんと 昔ということになる。
 さて、次の目的地は毛越寺である。 巡回バスが回っているのだが、大した距離でもなさそうなので歩いて毛越寺に向かった。

 上の拝観記は、2010年に書いたものだが、2015年8月になって、もう一度中尊寺を訪れる機会がやってきた。
 早池峰山に登るために岩手県まで旅行した折り、せっかくの機会なので、登山の前日を平泉で過ごしたからである。 早朝の新幹線で東京を発ち、まず達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂を拝観し、次に中尊寺へ移動。 達谷窟は初めてだったが、中尊寺は5年ぶりである。
 月見坂と呼ばれる参道をゆっくり登る。 杉の巨木が両側に並ぶこの参道を歩くと、自然と気持ちが落ち着いてくる。 本堂までは500mちょっとくらいだから、ほどよい距離だ。 杉が植えられたのは、奥州藤原氏の時代からだいぶ経った江戸時代の伊達藩によってだが、今やこの参道は中尊寺の重要な構成要素になっている。
 本堂、讃衡蔵(さんこうぞう、宝物館)、金色堂などの諸堂を見学。
 今回、改めて印象に残ったのは、讃衡蔵に安置されている阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像、騎師文殊菩薩半跏像及び四眷属立像、 千手観音菩薩立像などの諸仏像だった。 いずれも平安時代後期の作で重文に指定されている。 これらのうち、騎師文殊菩薩半跏像は、五台山文殊あるいは渡海文殊といわれる形式のもので、特に目を引いた。 この文殊菩薩像は、安倍文殊院(奈良県桜井市)などの像と比べ、大きくはないし、表情もおとなしめ。 だが、黒い獅子に乗っている文殊菩薩は、光背も含めて金色に光り輝いてるから、ひときわ目立つのだ。
 前回の拝観時にも讃衡蔵に入っているのだが、金色堂の印象が強すぎて、讃衡蔵の仏像は正直あまり記憶に残っていなかった。 心の余裕がなかったのかもしれない。 中尊寺といえば、金色堂の阿弥陀如来像に目が行きがちだが、ほかにも優れた仏像がたくさんあることに気付いた今回の拝観だった。
 (この項、2015年に追記)

 2024年には中尊寺金色堂建立900年を記念した特別展が東京国立博物館で開かれたので、筆者も見に出かけた。
 今回の展示の目玉は11体の仏像で、いずれも平安時代の12世紀に作られたとされ、国宝に指定されている。 これら諸像は、金色堂内に3つある須弥壇のうち最も重要と考えられ、藤原清衡が眠っているといわれる中央壇に安置されている仏像群である。 博物館の展示室内では、中央部に阿弥陀三尊像、つまり阿弥陀如来坐像と両隣に脇侍としての観音菩薩立像と勢至菩薩立像が置かれ、これらの像を取り囲むように、6体の地蔵菩薩立像、持国天立像、増長天立像が配置されていた。
 まずは定朝様式の阿弥陀如来坐像のお顔から拝観。 満月を思わせるような丸顔で柔和な表情は、見る者に安らぎを与えてくれる。 定朝作の阿弥陀如来像が「尊容は満月の如し」と評されたことを思い出させる丸い顔である。 頬がゆったりと膨らんでいるのが印象的だ。 博物館での仏像展示の利点は間近でしかも後ろ側も見られることだ。 阿弥陀如来坐像の後ろに回ってみると、螺髪の配列は逆V字状に並んでいる様子が確認できる。 この配置法は、のちの鎌倉時代に広まる形式なのだそうだ。 右肩にかかる衣が本体とは別材で作られていることにも、同じことが言えるという。
 持国天立像と増長天立像は、ほかの像とはずいぶんと印象が異なり、片腕を振り上げ、動きのある力感溢れる表現となっている。
 仏像以外にもさまざまな展示品が並んでいたが、中でも紺紙金銀字一切経(こんしきんぎんじいっさいきょう)の豪華さがあらためて目を引いた。 金泥字と銀泥字で一行おきに書かれている一切経で、藤原清衡が8年がかりで制作させたといわれる。
 展示室を回って感じたのは、技術力の高さと費やされた膨大な労力、それに信仰心の篤さだった。
 (この項、2024/2に追記)

 写真は、RICOH GX200およびPENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。


 月見坂と呼ばれる参道は、杉の巨木が頭上を覆い、なかなか風情がある。 ただし、この杉は江戸時代に伊達藩によって植えられたらしいから、 金色堂が建立されたころは、今とは違った風景が広がっていたようだ。
2015/8/8撮影

 明治時代の1909年に再建された本堂
 2013年には、新本尊として、丈六の釈迦如来坐像が安置されている。
2010/4/29撮影

 金色堂と桜
2010/4/29撮影

 桜の花に囲まれた弁財天堂。 中尊寺には、桜の木はあまり多くない。 例年岩手県の桜は、5月連休前に満開を迎えるのだが、 2010年の春は気温が低く、連休中に満開になった。
2010/4/29撮影

 高館義経堂から見た北上川。
 かってこの地は、源義経が居を構えていた場所で、北上川を見下ろす高台になっている。 丘の上には、1688年に伊達綱村公によって建てられた義経堂がある。 傍らには、芭蕉が1689年にここを訪れて詠んだ「夏草や 兵どもが 夢の跡」の句碑が置かれている。
2010/4/29撮影

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