四年生

炭鉱(たんこう)の町
赤平(あかびら)のボタ山↓→

赤平の町の地図(ちず)

 小学校四年生になった。
父さんは、学校の先生で転勤(てんきん)が多く、一年生になった時は、赤平(あかびら)という北海道(ほっかいどう)の真ん中より少し上にある炭坑(たんこう)の町に移ってしばらくしてからだった。
 石炭(せきたん)は、黒いダイヤと当時(とうじ)いわれ、赤平は、ボタ山{くずの石炭をすてて大きな山となった}が町の中にドーンとそびえていて、そのボタ山にくずの石炭をトロッコが頂上(ちょうじょう)まで上がってはすてることをくりかえしていた。
ボタ山からは、中で燃えてくすぶっている石炭くずの煙がポワーと雨の日も雪の日も昇っていた。
町は、石炭景気(けいき)で、映画館(えいがかん)もパチンコ屋も風呂屋(ふろや)も飲み屋{お酒を飲むところ}も商店街(しょうてんがい)は活気(かっき)でみなぎっていて、夜も昼も朝も区別なく、大人も子供もお姉さんもせっかちに動いていた。
石炭景気の炭鉱の町は24時間休みもなく石炭を掘り続けていた。眠ることのない町だった。

 サーカスを始めて見たのも赤平だった。
垂直(すいちょく)に立てた大きな樽(たる)の上に観客席(かんきゃくせき)があって下を見ていると樽の下から、オートバイのお兄さんが爆音(ばくおん)を響(ひび)かせ樽の中をかけ上ってくるのを見たり、空中ブランコ、ピエロを見て興奮(こうふん)していた。
その当時、僕の大好きなものは、チューブに入ったチョコレートで町に行った帰りにいつもおねだりしていた。
 僕は、赤ちゃんの時、大腸(だいちょう)カタルという大病にかかってから体が弱く、男の子と遊ぶよりは女の子と、お絵かきとか、おはじきとか、あやとりなどで遊ぶことが好きだった。
鯨(くじら)を画くのが大好きで、大きな鯨が潮(しお)を吹いている{鯨は動物で呼吸をする時のようす}のをかくのが得意で、ふすまにまで書いた記憶がある。

僕のだいっ嫌いな勉強は体操で、体操の時間になるとおなかが痛くなっていた。
運動会はだいっ嫌い、走っても一番ビリなんだ、わざと転んで父さんや母さんを困らせたりしていた。

遠軽町(えんがる)は北海道の網走(あばしり)の近く 巌望岩(がんぼういわ)

 遠軽(えんがる)には、二年生になってすぐに来たと思う。
遠軽は、石北線(せきほくせん)と湧網線(ゆうもうせん){現在は廃線(はいせん)され線路は無い)}の乗り換え地点で、駅の裏に巌望岩(がんぼういわ)といってインデアンが羽根の付いた帽子をかぶったような顔をした大岩が、町を見下ろしている農林業(のうりんぎょう)と自衛隊(じえいたい)と鉄道(てつどう)の町だった。
田んぼもあってここは、稲(いね)の育(そだ)つ北限(ほくげん)だよって父さんはいっていた。
 最初の友達は近所の農家(のうか)の愛ちゃんていう女の子だった。
僕は、おばあちゃん子で、いつもばあちゃんといしっょだったので、愛ちゃんの家にもおばあちゃんがいたのですぐに友達になった。

 僕の家は、小学校の中にあって学校には、家からそのまま通学できたので、雨の日も台風の日も雪の日も濡れずに行けてすごく便利だったんだけど、やっぱり体育は苦手(にがて)で、父さんはスキーを買ってくれたりしたんだけど僕はちっとも滑れるようにならなくって、絵や工作を家の中でしていて過ごしていた。

遠軽に来た時、駅から初めてハイヤーに父さんと乗った、ダットサンの箱型(はこがた)でトラックのシャーシにボディーを乗っけた乗用車(じょうようしゃ)で、でこぼこ道をふわふわと走っていく乗り心地に感激(かんげき)して「父さんやっぱりハイヤーてすごいね」そのころ田舎(いなか)では乗用車はハイヤーて言ってたように思う。
描く絵も鯨から、車に変わっていた。
車はすごーく好きだったので、車の中が見える展開図(てんかいず)のような書き方や子どもも乗れる車の設計図(せっけいず)を書いていた。
クラスに、絵の好きな遠藤君がいて、すぐに友達になって、それからは、いつも遠藤君といっしょに家の中で遊んでいた。
本当は、女の子と遊んだ方が楽しかったんだけど、弱虫泣き虫てみんなに言われるのがいやっだたので僕は、もう女の子とは遊ばなくなっていた。
(写真はダットサン、ウィキペディアからのコピー)

 この次の父さんの転勤(てんきん)が開拓地(かいたくち)に決まりそうだとわかった時、母さんとばあちゃんは猛烈(もうれつ)に反対したけど、父さんは、今度は校長先生に栄転(えいてん)だといって住めば都(みやこ)、二年の辛抱(しんぼう)だからといって押し切った。
遠軽からは、地図で見るとすぐ近くなんだけれど、そこへ行くのは大変だった。
引越(ひっこし)しの荷物は、おじさんの会社のトラックで運んでいくことになって朝から先生方や、おじさんの会社の人や近所の人たちが積み込んでくれて出発した。
丸瀬布町(まるせっぷちょう){現在は遠軽町丸瀬布}から山の中をどんどん登って行くんだけど、急な坂道なので途中でエンジンを冷やすために休憩(きゅうけい)してさらに山奥へと登っていった。
開拓地は、山の台地になっている一面が火山灰におおわれた広大な原野(げんや)で部落(ぶらく)の真ん中に、木造の小学校が住宅とくっ付いていて、隣りは開発庁(かいはつちょう)の職員の住宅になっていた。
 遠くに大雪山(だいせつざん)が雪をかぶって君臨(くんりん)していて、開拓地は海抜(かいばつ)600メートルの高さの高原だった。
おじさん達は「何にもないとこだな」心配そうな顔をして帰っていってから僕の毎日の仕事が決まった。
電気が来ていないので、ランプのほやみがきが僕の仕事、灯油のランプはガラスをほやといって毎日すすけたそのほやをみがかなくてはいけないんだけれど、おとなの手は大きすぎて入らないから子どもの仕事と、おとなが勝手(かって)に決めていた。


 まわりはさえぎる山もなく、遠くに大雪山が雪を頂(いだ)いて鎮座(ちんざ)していて笹やぶだらけのところを、開発庁のブルトウザーが大きな木の根っこを掘り起こしていて、遠くで発破(はっぱ){ダイナマイトのこと}の音がひびいていた。
ブルトーザーが引っ張り出せないような大きな根っこは、ダイナマイトでふっ飛ばすんだ。
電気がないので、暗くなったら寝て明るくなったら小鳥達といっしょに起きる生活は、今までとはまったくちがっていた。
朝は、うぐいすがすぐ近くでうるさく鳴くので、弟とうぐいすを探しに行ったけど見つからなかった。
父さんは、生徒達のお土産(おみやげ)にグローブとボールとバットを街で買ってきていた。
学校の生徒は全部で36人、父さんとまだ見習(みなら)い先生で僕たちが大好きになった若い千葉先生を合わせても40人もいないんだ。
開発庁の人たちが、父さんの歓迎会(かんげいかい)で、グランドを作ってくれることになった。
おおきなブロトーザーで、学校の前の笹やぶや木の根っこを整地(せいち)しはじめた。
学校は複式授業(ふくしきじゅぎょう)といって、1年生から3年生までが1クラスで父さんが教え、4年生から6年生が隣りのクラスで千葉先生が教えるやり方だった。
千葉先生は高校(こうこう)の時、野球(やきゅう)の選手(せんしゅ)で3塁を守っていてスポーツは大の得意、休み時間は、まだできていないグランドでキャッチボール、でも僕は苦手だよー・・・・。
勉強よりもみんな野球が大好き、朝は学校が始まる一時間前から来てキャッチボールの練習になっていた。
夜は早く寝るし朝は早起きの生活は、運動嫌(きら)いの僕の体を少しずつ変えていったみたいだった。

 隣りに住んでいる玉川さんは、大家族で僕と同級生の清(きよし)ちゃんとはすぐに友達になった。
清ちゃんの家には、馬もヤギも羊(ひつじ)もニワトリもいて千葉先生も下宿(げしゅく)していて清ちゃんの上には、6年生の順(じゅん)ちゃんもいて、僕の弟は馬が大好きで、順ちゃんの上の兄さんが、時々馬に乗せてくれるので僕たち兄弟は、玉川さん家にはいつも遊びに行っていた。
 開拓地は太平(たいへい)という地名で、火山灰地の高台で水は沢の水をエンジンポンプで山の貯水場(ちょすいじょう)に上げてその水を各家庭に水道として引いていた。
沢の水はきれいで、岩魚(いわな)が住んでいて、ポンプの水取り場に岩魚がまぎれこんできたのを取りにも連れていってもらった。ポンプのエンジンをかけるのも清ちゃんの兄さんの係りだったので、水を上げに行く時は連れていってもらって、清ちゃんと順ちゃんと僕たち兄弟は夢中になって岩魚を追いかけた。
山の岩魚は手では中々捕まらない、びしょぬれになって捕(つか)まえた岩魚を笹にさして意気揚々(いきようよう)と帰ってきたものだ。
ところで、太平の岩魚を釣るのは、棒切(ぼうきれ)れにテングスを結び付け餌(えさ)は、何でも釣れた。馬糞(ばふん)ミミズ・川虫・とんぼ....でも一番は何といっても鮭(さけ)の筋子(すじこ)、これを針に付けて上から見ていると、岩魚がちょろちょろ出てきて食いついたところで引き上げるだけで、けっこう子どもでも良く釣れた。
沢には、熊もよく出てきていて沢に入る時には歌を歌ったり、缶からを鳴らしたり、犬を連れていったりしていたけど、ダニには泣かされていた。
山のダニは、血を吸うとパチンコ玉のように膨(ふく)らむんだけど、白い玉をつかんで引っ張ると、頭が体の中に入っていってしまうと取れなくなってしまうので、たばこの火を近づけて、ダニが暑くてたまらんといってもがいたとこで、ちょんと引っ張るんだ。
でも失敗して頭が体の中に入ったら大変だぞ、おとなの人に取ってもらっていた。

 犬をもらった。
清ちゃんのところで生まれた樺太犬(からふとけん)の雑種(ざっしゅ)で、後ろ足の指が六本あって白くてころころしていて清ちゃんのおじいさんが、六本指の犬は雪にぬからなくってそりを引かせたら一番だといっていた。
名前は、マルって付けた。
冬になって、もう道路も雪の下になって町と行き来するには馬(ば)そりかスキーになった。
雪の降る前に、一冬分の食料を上げて母さんとばあちゃんはてんてこまえの忙しさ、部落の人たちも醤油(しょうゆ)や油などの買いだしをしていた。
お正月の買い出しに、父さんと玉川さんのおじさんとで馬そりで出かけた。父さんが町の自動車修理やさんから車のバッテリーを借りてきて電気を点けると張り切ったけど、一週間して点けたら放電(ほうでん)していてランプと明るさは変わらなかった。バッテリーは僕の実験(じっけん)用のモーターや電気を点けるのには十分だったので僕は、はりっきっちゃった。

 千葉先生はスポーツ万能でスキーもすごーくうまい。
学校が終わるとスキーに出かける、学校のスキー場はスキーで15分ぐらいかかるところにあって、沢を利用したスキー場なんだけど、いきなり急斜面(きゅうしゃめん)があってその下はゆるい斜面が続いて、今度は沢をかけのぼるようなコースなんだけど清ちゃんと僕の弟はかっこ良く転ばずにすべるのに運動苦手(うんどうにがて)の僕は、千葉先生の教えにもかかわらず上達(じょうたつ)が・・・・・・・
でもおかげで、スキー大会の時は転ばないですべれた、よかったほっとした。
吹雪(ふぶき)の日以外はスキーばっかりしてるんだから当然(とうぜん)かも?
 清ちゃんの兄さんと父さんとが鉄砲(てっぽう)で山鳥を取りに行く時、清ちゃんも僕も弟も連れていってもらった。
父さんは、ちっとも当たらないけど兄さんが一羽落とした山鳩(やまばと)だったと思う。
山には、キツツキや鷹(たか)やふくろうがいっぱいいるけど、なかなか取れないんだね。
雪の上には、野ウサギやきつねイタチの足跡(あしあと)がたくさんあっても姿を見るのはウサギくらい。
 部落の人たちは、わなでウサギを取るんだけど、わなを見回りに行くのは子どもの仕事、時々イタチに先をこされてしまうことがあるんだ。
 順ちゃんは、わなの仕掛(しか)けはすごくうまいんだ。順ちゃんに連れていってもらったけどその時はかかっていなかった。
ウサギの耳は、営林署(えいりんしょ)で買ってくれるから、冬のアルバイトにはうってつけ、ウサギは植林(しょくりん)した苗(なえ)を食べてしまうからね。
{細い針金(やりがね)の輪(わ)を使ったわなだった}
 冬の吹雪は、強烈(きょうれつ)で粉雪が下から吹き上げてきて前を歩く人も見えないくらいで、風が吹きだまりを作ってそこは、腰までぬかるようなところもあって子供は外にはでれないんだ。
 父さんも、吹雪の日に道に迷って学校のすぐそばまで来たのに学校がどこにあるのかわからなくなって、風が少し治まった時、目の前に学校があった。「助かったよ猛(もう)吹雪の日の外出はこりごりだよ」といって、生徒たちは吹雪の日は外出しないようにと、みんなに言って聞かせていた。

 冬は、開拓地の人たちも大変なんだ。
秋に収穫(しゅうかく)したジャガイモや大根(だいこん)、キャベツなどを、土の下に埋めて冬に雪を掘り起こして食料にするんだけど、それだけでは、おなかがいっぱいにならないよ。
 生徒たちのお弁当も、ジャガイモやカボチャになってきて学校の脱脂粉乳(だっしふんにゅう)を飲んで栄養(えいよう)を補充(ほじゅう)していた。
月に一回、母さんが大きな鍋(なべ)にカレーを作って、ご飯は、お米は貴重品(きちょうひん)なので増量(ぞうりょう)するため、麦(むぎ)やキビを入れたので生徒たちとみんなで食べたのを記憶している。
家のご飯も、麦がいっぱい混ざっていたけど、キビご飯は僕はきらいだった。

 天気が良くなると、マルと出かけたマルはスキーをはいた僕たちをグイグイ引っ張るんだ。
マルは雪の中ではものすごく元気、樺太犬(からふと)の雑種(ざっしゅ)のマルは生徒たちの人気者だ、千葉先生とソリを作って小さな妹をのっけて僕と弟はごきげんだった。
 よっぱらいのおじさんが首吊(くびつ)り自殺(じさつ)したって、清ちゃんから聞いた。
開拓地は、何かあると学校で会議とか、宴会(えんかい)とか、結婚式(けっこんしき)までしちゃうんだ。
だから、学校は映画館の時もあるし、慰問(いもん)にきた芸人(げいにん)の演芸場(えんげいじょう)でもあるし、冠婚葬祭所(かんこんそうさいじょ)でもあった。
父さんは、お酒が飲めないんだ。 部落の人たちは、強い焼酎(しょうちゅう)を湯飲み茶碗(ちゃわん)でがぶがぶ飲むんだけど、飲めない父さんは、いつも苦労していた。
そのおじさんは、焼酎を飲むと、人が変わってしまって、部落の人に、言いがかりを付けてからむので、みんなに嫌(きら)われていた。 僕と清ちゃんとでおじさんの住んでたところを見に行った。
小さな物置(ものおき)みたいな家で、中は土間(どま)でぼろぼろの布団(ふとん)と焼酎の空きビンがころがっていて穴だらけのストーブを見て、なんだか恐くなって二人で駆(か)けだして家に帰ってきた。
誰(だれ)にもこのことは言わなっかた。清ちゃんも言わなっかった。

 春になって、雪が解(と)けるとまわりはいきなり輝(かがや)きはじめる。
ウサギも、鹿も、イタチも、ムササビも、キツツキも、うぐいすも、熊は冬眠(とうみん)から目覚(めざ)め、木々はいっせいに芽を吹き始めて、まわりは一日ごとに緑が青さをましてくる。
春は、最初は、ねこやなぎの芽、雪が少しづつ解けてきて、それから、ふきのとうが出てくるとみんな忙しくなるよ。
山菜(さんさい)取りが始まるんだ。
せり・アイヌねぎは、雪どけ水の流れているところではどこでも取れた。
水芭蕉(みずばしょう)は、僕たちはヘビのまくらといっていた。
僕たちだけが言っていたのかもしれない、花のめしべのところが、ヘビがドクロを巻(ま)くとちょうど良いまくらになるって聞かされていたので、水芭蕉には近づかないようにしていた。

 春は、子供たちもうきうきさせる。
 雪が降る前に、グランドを作る時に掘り起こしたたくさんの、大きな木の根っこがグランドのすみに押し出されていて、根っこの山ができていた。
根っこについていた泥や火山灰が雪解けできれいに流されて、子どもが入れる穴が無数に出来ていて、まるでジャングルジムのようになっていて、中に入るとぽっかりと空間が出来ていてそこは僕と弟と清ちゃんの隠れ家(かくれが)になった。
みんなそれぞれの部屋を持ち、そこで一人でいろんな事を考えて・・・海を見たいなー・・東京って人がいっぱいなの・・遠軽や赤平の友達は・・・雲を見て、飛ぶ鳥を見て、ボーとしている。
酔っぱらいのおじさんは、きっと一人で淋(さび)しかったんだなー。
たましいて、あるのかなー。
 この大きな根っこは、昔は、原生林(げんせいりん)にデーンとそびえていて、そしてリスやムササビが走り回り小鳥達はさえずり、この根っこのまわりを、熊がうろつき、ウサギは飛びはね、この木は、いろいろなドラマを見てきたのだろう。

 そのころ、森は大きく息をして、リスや小鳥達は小さく息をして、この木は、そおっと息をして。

 僕は、いろいろ考へた、そして考へた、ずうっと考へていた・・・・・・・・。

僕の四年生は、終わった。
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