〜 第72回 〜
<2001.7.9 公開>
無関心になる |
駅や電車の車内には、よくハンカチが落ちている。 誰かがカバンから何かを出した時に一緒に出てきて落ちたものだろう。 だけど、落ちているなぁと思うだけ。 拾って邪魔にならないところに移動させることはしない。 そのまま落し物になり、持ち主が現れたら良いのだけど、たぶん落とした人も探そうとはしないし、結局ゴミとして処分されてしまうのかもしれない。 よくあること、別にこれと言って思うことはないかもしれない。 だけど、昔なら踏まれないようにハンカチを移動させることくらいはしていた。 それがそのまま、踏んでいても気にしない、床の一部としてみている感じ。 ハンカチが落ちていることを一度は意識はしているのかもしれないけど、そこからは何もない。 拾う人が現れても見つめているだけ。 あたし自身はどうだろうか。 落ちていることを意識はしているのに、何もしなくなっている。 後ろ髪を惹かれるように通りすぎるのだけど、でも何もしなくなってきている。 何もしないことには変わりはない。 自分の中でこれじゃいけない、自分が落ちて行くと思っている。 じゃ、何故しないのか? 「偽善」という言葉がまず浮かんでくる。 自分が「偽善」と言うのでなく、他から「偽善」と言う言葉を投げられる気がする。 「偽善」なんて言う人が悪いんだけど、変に気にかかる。 だけど、これもしなくなった自分への言い訳でしかない。 気になるなら拾えば良い。 ただそれだけ。 あれこれ考えるより行動すれば良い。 悪く言う人は無くならないけど、行動する人が増えれば悪く言うことも出来なくなるだろう。 何もしないほうが良くはないのだから。 |
死んでお詫び |
重大な過失があったり、大きな事件があると、死んでお詫びをする人がいる。 悩み苦しんで出した結果が「死」なのだろう。 だけど、関係者が死ぬことで事件が丸く収まることはない。 死んでお詫びするのは、武士の心かもしれない。 だけど、そう言った時代じゃない。 他に迷惑をこれ以上かけないためかもしれないけど、真相を明らかにせずに死を選ぶのは少し卑怯だ。 真相を闇に葬ることで、他にも悪いことがあっても明らかにされなくなる。 それによって裁かれずに助かる人もいるかもしれない。 被害者やその家族のすべてが加害者が死んで喜ぶとは思えない。 先走った死は無駄なものにしかならない。 昔言ったセミナーのグループ討議で「死刑制度をどう思うか」と質問されたことがあった。 質問者はあたしよりも若く、死刑制度には反対だと言っていた。 あたしは、ただ死刑になるだけじゃなにもならない、犠牲者の恐怖感を加害者が味合わないと意味がないと答えた。 死刑制度の問題は難しい。 死刑が無くなれば、無期懲役になり、中での行いによっては出所出来る。 死刑があっても適用されなければ、事実上無期懲役が最高刑になる。 死んだら終わりだし、出所されても困るだろう。 絶対出て来れない刑があってもいいとは思うのだけど。 死んでお詫びするくらいなら、事件を起こすなと思う。 起こすのなら死なないで責任を取ればいい。 死んでも罪は消えないし、誰も喜ばない。 死を選ぶ人は結局、自分勝手なだけかもしれない。 |
自分の価値 |
自分の価値はどのくらいあるのだろう。 何を基準にするかによって答えは変わってくる。自分なりの判定基準はそれぞれもっているだろう。 だけど、大抵の場合、他の誰かと比べることでしか判らない。 あたしの場合は両極端。 自分には大した価値がないと思っていることが多い。 一方で自分は価値があると思うと、必要以上に価値があるように振舞ってしまう。 だけど結局、大したことないと思ってしまうことが多いのだけど。 自分を高く評価するよりもすこし低めに思っている方が、あたし自身のためには良い感じ。 まだまだと思っていれば、何らかの努力をしなきゃと少しは感じる。 だけど、ちょっとでも希望に近づくとすぐにサボってしまう。 良い感じに進んでいるものが中途半端に終わってしまうのはこのせい? ただ悪いことに、低く感じている時に誉められたりしてもあんまりピンと来ない。 相手が勘違いをしていると思いがち。 好意を持ってくれる人には悪いけど、なんだかなぁ。 恋愛でも自分を低く見ていたから、相手の好意が信じられなかった。 何かの間違い、気の迷い。 最悪なことに好意を持ってくれている相手の評価が下がって行く。 あー、もしかしたら損をしてきているかもしれない... さすがに今ではそこまで思わないけど。 自分の価値は自分で決める。 だけど、あたしみたいに変な評価をしていると損をするかもしれない。 ほどほどに...ってことかな? |